【探究学習】日本の漫画は「なあなあ」で育った?──BL同人誌から考える創作の土壌
先日、『聖闘士星矢』の作者・車田正美氏が会見をしているニュースを観ました。自身の版権を管理する会社で、社員による資金の不正な引き出しがあった、という話でした。
画面に映る車田さんは、少し強面で、実にエネルギッシュ。
「この人が、あれほどBL同人誌の題材になった漫画を描いていたのか」
もちろん、作者本人とファンによる読み方は別の話です。それでも、勝手に抱いていたイメージとの違いが、妙に印象に残りました。
そういえば、同じ『週刊少年ジャンプ』の『キャプテン翼』も、女性向けの同人文化を大きく盛り上げた作品として知られています。
そこで、ふと気になりました。
では、『キン肉マン』はどうだったんだろう?
友情・努力・勝利。男たちが肉体をぶつけ合い、戦いを通じて絆を深めていく。プロレスだから、身体の接触だって多い。
男性同士の友情やライバル関係に、恋愛の可能性を見いだす。そんな読み方をするには、うってつけの題材にも思えます。
ただ、少なくとも私が調べた範囲では、『キャプテン翼』や『聖闘士星矢』と肩を並べるほどの、大きなBL同人ブームは確認できませんでした。もちろん、そうした二次創作が存在しない、という意味ではありません。
同じ雑誌、同じ時代、同じように熱い男たちの物語。それでも、ファンの想像力が向かう先は違う。
理由をきちんと言葉にするのは難しいのだけれど、なんとなくわかる気もする。この小さな疑問から、同人文化と日本のコンテンツ産業の関係が気になり始めました。
そもそも、こうした文化は、誰かが市場を分析して仕掛けたものではありません。
好きなキャラクターについて、もっと考えたい。原作では描かれなかった関係や、その先の物語を想像したい。そして、それを同じ作品が好きな人と分かち合いたい。
そんな気持ちが、同人誌という形になっていったのでしょう。
読むだけだった人が、描く側にも回る。自分の解釈を本にして、それを読んだ人が、また別の物語を描く。
ひとつの作品の周りに、小さな創作の場がいくつも生まれる。
ここが、同人文化の面白いところです。
しかも、その場は趣味だけで完結するとは限りません。同人活動で表現を磨き、読者の反応を受け取りながら、商業作品を手がけるようになる人もいる。
ファンの遊び場が、描き手の練習場にもなり、新しい才能が見つかる場所にもなるわけです。
では、なぜ既存のキャラクターを使った創作が、これほど広がったのでしょうか。
竹宮惠子や萩尾望都たちが描いた少年愛の作品には、独自の世界観や人物を通じて、人間の内面を深く掘り下げる魅力があります。
一方、既存作品をもとにする二次創作には、別の入り口があります。
登場人物も、その性格も、過去の出来事も、読者がすでに知っている。ゼロからすべてを説明しなくても、「もし、この二人がこうなったら?」というところから始められるのです。
もちろん、面白く描くには技術も労力も必要です。それでも、作り手と読み手の間に共通の土台があるのは大きい。
「少女マンガでは物足りなかった」と説明するよりも、「好きな作品の中に、自分も参加できる場所を見つけた」と考える方が、私にはしっくりきます。
この構造は、今のネット文化にも通じるものがあります。
同じ音源を使って、それぞれの動画を作る。ゲームの世界に、自分なりの改造や遊び方を加える。共通のお題に、違う人が違う答えを返す。
権利の仕組みはそれぞれ違いますが、参加のしやすさには共通点があります。
全部を一から作らなくても、自分なりの工夫を加えられる。
その余地があると、人は受け手から作り手になりやすい。コンテンツを育てるうえで、これはかなり大きな力なのだと思います。
そして、日本では、その活動が続く余地が残されてきました。
ここで気になるのが、権利者側の「なあなあ」です。
もちろん、日本では二次創作なら何でも自由、というわけではありません。権利者や作品によって対応は異なりますし、黙認されていることと、許可されていることも別です。
それでも、すべてを一律に取り締まるのではなく、ファンの活動として一定の距離を保ってきた場面がある。
ファンは作品を借りて楽しむ。その活動によって、作品について語る人や、長く愛着を持ち続ける人が増える。
そこには、対立だけでは説明できない関係があります。
私は、この曖昧な距離感を、少し乱暴に「なあなあ」と呼びたくなります。
きっちり線を引かないからこそ、続いてきたものがある。ただし、誰もが同じ線を思い描いているわけではない。その危うさも含めての「なあなあ」です。
海外との違いも気になりますが、「欧米は厳格、日本だけが自由」と単純には分けられません。著作権の扱いと性表現の規制も、それぞれ別の問題です。
むしろ注目したいのは、日本では同人誌を作り、売り、買い、交流する場が、大きな規模で長く続いてきたことです。
その中で、読者が作家になり、作家がまた別の作品のファンになる。商業と同人の間を、人も表現も行き来する。
「BL同人誌がIP大国を作った」とまで言えば、さすがに言いすぎでしょう。
それでも、日本の漫画やアニメの強さを考えるとき、企業や出版社の企画力だけを見ていては、見落とすものがある。
好きな作品について、頼まれてもいないのに描き、語り、本まで作ってしまう人たち。
その熱量も、コンテンツ産業を支えてきた土壌の一部だったのではないでしょうか。
「クールジャパン」という言葉が広まるずっと前から、そういう場所は育っていたわけです。
ただ、この「なあなあ」が、生成AIの時代にも同じように続くのか。そこは、少し気になります。
まず、AI学習のルールと、同人文化の黙認は分けて考える必要があります。
日本では、一定の条件を満たす情報解析などについて、著作物を許諾なく利用できる規定があります。ただし、AI開発なら何でも自由ということではありません。また、学習段階と生成・利用段階は別に考えられ、生成物に既存作品との類似性や依拠性が認められる場合には、著作権侵害が問題になります。[文化庁「AIと著作権について」](https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/aiandcopyright.html)
法律上の整理とは別に、ファン文化を支えてきた関係も変わるかもしれません。
これまでは、一冊の同人誌を作るにも、描く時間がかかり、印刷代がかかり、届ける手間がかかりました。
もちろん、大規模に売れる同人誌もあります。それでも、作ることに労力が必要なのは同じです。
その手間が、「この人は、それほどこの作品が好きなんだな」と感じさせる、一つの手がかりにもなっていたのでしょう。
生成AIは、創作の入り口を広げる一方で、短時間に大量の画像や文章を作ることも可能にします。
原作が好きで表現したものなのか。人気に便乗して大量に流通させたいだけなのか。出来上がったものだけでは、その違いが見えにくくなる場面もありそうです。
AIを使う人に愛情がない、という話ではありません。
ただ、作る手間や流通の規模が変われば、権利者とファンの間で保たれてきた距離感も、そのままではいられないかもしれない。
好きだから描く。描くことで、もっと好きになる。その熱量が、次の作品や作家を育てていく。
この循環を残しながら、新しい技術とどう付き合っていくのか。
キン肉マンのBLはあったのだろうか、という疑問から、ずいぶん遠いところまで来てしまいました。
それでも、数十年かけて育ってきた文化です。きれいに白黒をつけるでもなく、かといって何でも放置するでもなく、揉めたり調整したりしながら、また折り合いを探していく。
なんとなく、そういう日本らしい展開になっていく気もしている、今日この頃です。

