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【探究学習】資源のない日本は、教育で生き残れるのか——人口減少とAI時代に考えた「公教育」という国家資産

先日、Facebookで日本の教育政策についてかなり刺激的な投稿を読みました。
内容を簡単にいえば、
「日本では公教育の価値を意図的に下げ、富裕層だけが良い教育を受けられる社会を作ろうとしている勢力がいるのではないか」
というものでした。
さすがにそこまで話を広げると、証拠のない「陰謀論」に近くなってしまいます。
ただ、読んでいて妙に引っかかるものもありました。
それは、
市場原理や学校選択、財政効率化を教育に持ち込み続けることで、誰かが意図しなくても教育が階層化していくことはあるのではないか
という問題です。
そこからAIと話しているうちに、話はもっと大きなところへ広がっていきました。
考えてみれば、日本という国にとって、教育とは何なのでしょうか。
今の学校は、私たちの子ども時代よりずっと優しくなった
私は昭和生まれの人間ですが、今20代になる親戚の子どもを見ていて、何度も感じたことがあります。
「自分もこんな学校に通いたかったな」
と。
もちろん学校や先生による違いはあります。
それでも、私たちが子どもだった頃と比較すると、今の学校はずいぶん変わったように感じます。
子どもの話を聞く。
一方的に怒鳴りつけない。
不登校の子にも事情があると考える。
発達の違いにも配慮する。
いじめについても、昔よりはるかに慎重に扱う。
少なくとも、「子どもは大人の言うことを聞けばいい」という時代からは大きく離れました。
今の子どもたちは、かなり大切に育てられているように見えます。
これは日本社会がこの数十年かけて作ってきた、かなり大きな成果なのではないでしょうか。

これから怖いのは「厳しい学校」への逆戻りではない
では、これから日本の教育は悪くなっていくのでしょうか。
考えてみると、問題はそれほど単純ではなさそうです。
昔のように、
「先生が絶対」
「子どもは黙って従う」
という学校にそのまま戻っていく可能性は、それほど高くないように思います。
むしろ問題になりそうなのは、
今の丁寧な教育を支えるだけの人とお金が足りなくなること
です。
今の教師には、昔よりはるかに多くのことが求められています。
授業だけではありません。
いじめ。
不登校。
発達障害。
家庭問題。
外国籍の子ども。
ICT教育。
保護者対応。
進路指導。
子どものメンタルケア。
学校が扱う問題はどんどん増えています。
つまり、
教育の理念はどんどん優しくなったのに、その優しさを維持するコストはどんどん高くなっている。
ここに教員不足と少子化が重なります。

教育格差は「学校の外側」で広がるのかもしれない
そしてもう一つ、気になったことがあります。
これからの教育格差は、
「良い学校と悪い学校」
という単純な形では現れないのかもしれません。
学校では、どの子どももかなり丁寧に扱われる。
基本的な教育も受けられる。
一見すると平等です。
ところが学校を一歩出ると、
塾。
中学受験。
海外留学。
プログラミング教育。
探究活動。
習い事。
家庭教師。
そしてこれからはAI家庭教師。
といった教育環境に大きな違いが生まれる。
裕福な家庭なら、
「学校+塾+AI+留学+人的ネットワーク」
という教育が可能になります。
一方、それほど余裕のない家庭では、
「ほぼ学校だけ」
になる。
つまりこれからは、
学校そのものが格差を作るというより、学校の外側で教育格差が巨大化する
可能性があります。
これはかなりありそうな未来です。
そして厄介なのは、誰かが秘密裏に計画しなくても起きることです。
すべての親が、
「できるだけ我が子に良い教育を受けさせたい」
と合理的に行動するだけで、結果として格差が広がってしまいます。

でも、日本にとって教育は「福祉」だけではない
ここで、ふと思いました。
そもそも日本は、教育格差を放置できる国なのでしょうか。
日本には石油もありません。
天然ガスも少ない。
地下資源にも恵まれていません。
広大な農地があるわけでもありません。
一方で、水が豊富で、治安がよく、社会インフラもかなり整っています。
そして何より、長い時間をかけて高い教育水準を作ってきました。
そう考えると、日本にとって教育とは単なる社会福祉ではありません。
教育そのものが、国家の重要な生産設備なのではないか。
そんな見方ができます。
半導体工場を作る。
港湾を整備する。
発電所を作る。
道路を作る。
そうしたものと同じように、
人間の能力を育てる教育システムも国家インフラです。
むしろ天然資源に乏しい日本では、その重要性はさらに高いのかもしれません。
日本の本当の強みは「天才」ではなく「普通の人」だったのではないか
さらに考えていて面白いと思ったのが、ここでした。
日本の強みは、本当に一部の天才だったのでしょうか。
アメリカなら、世界中から突出した研究者や起業家を集め、巨額の資本を投入してGoogleやAppleのような企業を生み出すことができます。
中国なら、巨大な人口から大量の理工系人材を供給できます。
日本は、そのどちらにもなれません。
しかし日本には別の強みがあります。
「普通の人」の能力がかなり高い。
工場で働く人。
看護師。
自治体職員。
鉄道員。
販売員。
技術者。
事務職。
デザイナー。
農業従事者。
こうした社会を構成する大多数の人が、ある程度読み書きができ、数字を理解し、マニュアルを読み、複雑な機械を扱い、一定の品質で仕事をする。
これは実は、ものすごい社会的資産なのではないでしょうか。
日本の製造業の品質やサービス、交通機関、治安なども、こうした「社会全体の教育水準の高さ」と無関係ではないはずです。
だとすると、日本がこれから目指すべきなのは、
100人の中から1人の天才を選び出す教育
というより、
100人全員の能力を可能な限り引き上げる教育
なのかもしれません。

人口が減る国ほど、一人も無駄にできない
この話は少子化ともつながります。
昔の日本には、同じ年齢の子どもが200万人近くいた時代がありました。
多少学校から脱落する子がいても、大学に行けない子がいても、地方に才能が埋もれていても、それでも大量の若者が社会に入ってきました。
しかしこれからは違います。
子どもの数そのものが減っていきます。
そうなると、
家庭が貧しいために大学進学を断念した子。
発達特性を理解されず学校から離れた子。
地方に住んでいるため高度な教育にアクセスできなかった子。
こうした人材を失うことは、そのまま日本社会全体の損失になります。
人口が減少する国では、
一人ひとりを大切に育てることが、理想論ではなく経済合理性を持つ
のです。
ここが非常に面白いところです。

少子化なら、教育費も減らす?
そして、少子化について考えていると、まったく逆の二つの考え方が出てきます。
一つは、
「子どもが減ったのだから、学校も教師も減らして教育費を削減できる」
という考え方。
もう一つは、
「子どもが減ったのだから、一人あたりにもっと教育資源を投入できる」
という考え方です。
どちらを選ぶかで、20年後の日本はかなり違った国になるのではないでしょうか。
教員を増やす。
少人数学級にする。
学校にカウンセラーを置く。
一人ひとりにAI家庭教師を提供する。
地方でも都市部と同じ高度な授業をオンラインで受けられるようにする。
大学や高専への公的投資を増やす。
そう考えると、少子化は教育にとって必ずしもマイナスだけではありません。
人数が減った分だけ、一人を濃く育てる。
そんな発想も可能です。

AI時代には「勉強ができる」の意味も変わる
そしてここにAIが登場します。
AIが知識を大量に持っている時代になると、
「たくさん暗記している人」
の価値は相対的に下がります。
一方で重要になるのは、
何を疑問に思うのか。
何を質問するのか。
AIの回答を疑えるか。
複数の情報を比較できるか。
現実の問題と知識を結びつけられるか。
他人と協力できるか。
自分なりの仮説を立てられるか。
といった能力でしょう。
つまり、日本の教育がこれまで得意としてきた、
「全員に基礎学力を身につけさせる」
という部分を捨てる必要はありません。
そこに、
「AIと一緒に考える能力」
を上乗せすればいい。
これは意外と日本に向いているのではないかと思います。
1億人弱の社会全体を、少しずつ賢くする
ここまで考えて、私の中で一つのイメージが浮かびました。
日本がAI時代に目指すべきなのは、
一握りのスーパーエリートを作る国ではなく、社会全体が異様に賢い国
なのではないでしょうか。
町工場のおじさんがAIを使って加工工程を改善する。
介護士がAIを使って高齢者一人ひとりに合うケアを考える。
農家が気象データとAIを使って収穫を最適化する。
自治体職員が膨大な行政資料をAIで分析する。
中小企業の社員が海外市場をAIで調査する。
高校生がAIと議論しながら研究テーマを掘り下げる。
そんな社会です。
世界的な天才が大量にいなくても、
社会を構成する一人ひとりの能力が少しずつ高ければ、国全体としては非常に強い。
これは、日本がこれまで得意としてきた社会モデルの延長線上にも見えます。

教育費は「コスト」なのか
最初は、Facebookに書かれていた「富裕層だけが良い教育を受ける社会になるのではないか」という話から始まりました。
調べてみると、そこまで単純な陰謀があるとは思えませんでした。
しかし考えていくうちに、むしろもっと大きな問題が見えてきました。
これからの日本で問われるのは、
教育をどこまで社会全体で支えるのか
ということなのだと思います。
人口が減る。
税収にも限界がある。
社会保障費は増える。
地方では学校を維持することも難しくなる。
だからこそ、
教育を削減すべき「コスト」と見るのか。
それとも、
資源の乏しい国が未来に投資するための「設備投資」と見るのか。
この違いは非常に大きい。
私は、24歳になる自分の子どもが通ってきた学校を見ながら、
「自分もこんな教育を受けたかった」
と思ったことが何度もあります。
それは、日本社会が数十年かけて少しずつ作ってきた成果なのだと思います。
だとしたら、それを昔に戻す必要はありません。
むしろその先へ進めばいい。
子ども一人ひとりを丁寧に扱う。
そこにAIを加える。
探究する力を育てる。
家庭の所得による教育格差をできるだけ小さくする。
そして、大人になってからも学び直せる社会を作る。
人口が減る国だからこそ、
一人の人間を、これまで以上に大切な「資源」として育てる。
天然資源に恵まれていない日本が、この先もそれなりに豊かで、国際的な競争力を持つ国であり続けるためには、案外それが最も現実的な戦略なのかもしれません。
教育は「子どものため」だけにあるのではありません。
日本という国が20年後、30年後にも社会を維持していくための基盤でもある。
今回考えてみて、教育を見る目が少し変わりました。

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