【探究学習】暇を持て余す高齢者と、AIが引き受ける「儲からない仕事」
先ほどまで、本屋に併設されたカフェにいました。
少し離れた席に、高齢の男性が一人で座っていました。革製のバッグはそれなりに良いものに見え、身なりからすると、少なくとも経済的に困窮しているようには見えません。
男性はハードカバーの本を開き、蛍光ペンで文章に線を引いていました。
ただ、その線の引き方が少し奇妙でした。重要な部分を選んでいるというより、ほとんどすべての行に線を引いているのです。
もちろん、実際に何を考えていたのかは分かりません。集中力を保つための読み方なのかもしれませんし、若い頃からの習慣なのかもしれません。
それでも傍から見ると、楽しんで本を読んでいるというより、
「本を読んでいる」という行為そのものを続けようとしている
ようにも見えました。
興味や理解力が少しずつ落ちているものの、それでも以前から続けてきた習慣にしがみついている。そんな姿を、こちらが勝手に想像してしまったのかもしれません。
老後に必要なのは「一人でできる趣味」なのか
その後、SNSを見ていると、高齢者の孤独や趣味についての投稿が目に入りました。
老後は友人が少なくなり、夫婦関係にも限界があり、時間だけが余る。そのため、投資のような一人でできる趣味がよいのではないか、という内容でした。
その投稿自体は、半分冗談のようなものだったのでしょう。
ただ、直前にカフェで見かけた男性の姿と重なり、妙に考え込んでしまいました。
自分には今のところ、一人でできる趣味がそれなりにあります。
本を読む。映画やアニメを見る。AIと話す。noteを書く。小説を書く。散歩をする。ヨガをする。株式投資をする。
時間が足りないと感じることはあっても、時間を持て余すことはあまりありません。
しかし、年齢を重ね、理解力や集中力、気力、体力が落ちてきたら、これらを今と同じように楽しめるとは限りません。
本を読む時間はあっても、内容が頭に入らない。映画を見ても、物語を追うことが疲れる。小説を書こうとしても、考えを組み立てられない。
趣味を持っていることと、その趣味を楽しむ力が残っていることは、同じではないのでしょう。
カフェで時間を過ごす高齢男性たち
最近、カフェやマクドナルドなどへ行くと、一人で長時間座っている高齢男性をよく見かけます。
もちろん、本人が退屈しているかどうかは分かりません。
コーヒーを飲みながら人の出入りを眺めることが、その人にとって大切な日課になっている可能性もあります。家に閉じこもるより、外へ出て人の気配の中にいる方がよい場合もあるでしょう。
それでも、ときどき明らかに時間を持て余しているように見える人がいます。
何をするでもなく、楽しそうでもなく、ただ時間が過ぎるのを待っている。
あの光景を見ると、個人の問題というよりも、社会全体の問題なのではないかと思えてきます。
長年働いてきた人には、知識も経験も時間もある。それなのに、仕事を辞めた途端、その人と社会との接点が急に失われてしまう。
会社にいた頃は、肩書きがあり、毎日行く場所があり、話す相手がいました。ところが退職すると、それらが一度に消える。
再就職するほど働きたいわけではない。自治会やボランティア団体に深く関わるのも面倒。しかし、家で何もせず過ごしたいわけでもない。
その間を埋める場所が、ほとんどないのです。
「少しだけ役に立つ」仕組み
そこで、高齢者と地域の小さな活動を結びつけるサービスがあればよいのではないか、という話になりました。
たとえば、図書館で本の整理を一時間だけ手伝う。
子どもの下校時間に、三十分だけ通学路を見守る。
公園を散歩しながら、壊れた設備や危険な場所を報告する。
地域に残っている昔の写真について、その頃の記憶を話す。
長年携わってきた仕事について、若い人からの簡単な質問に答える。
本格的な再就職でも、重い責任を伴うボランティアでもありません。
その日にできることを、短い時間だけ手伝う。
わずかな謝礼や地域ポイントがあってもよいでしょう。それ以上に重要なのは、
「助かりました」
「あなたの経験が役に立ちました」
という反応が返ってくることなのかもしれません。
人は娯楽だけでは満たされません。
自分が誰かに必要とされていることや、自分の行動が何かにつながったと感じることも、幸福感には大きく関係しているのでしょう。
理想論だけでは運営できない
ただし、実際にそのようなサービスを始めようとすると、かなり大変だと思います。
以前、高齢者と関わる機会がありましたが、逆ギレ、過剰な甘え、際限のない要求などに直面したことがあります。
孤立している人が、社会参加の機会さえ与えれば、穏やかに活動してくれるとは限りません。
親切にすると、次々に要求が増える。
注意されると、自分を否定されたと感じて怒り出す。
昔の役職や上下関係を引きずり、周囲に指示を出し始める。
自分より若い職員やボランティアを、無意識に部下のように扱う。
そして、その対応を引き受けるのは、たいてい真面目で面倒見のよい人です。
その結果、一人の扱いにくい参加者によって、何人もの善意ある人が疲弊してしまうこともあります。
「社会的に意味のある活動へつなげよう」という理念は美しくても、それだけでは現場は回りません。
参加前の確認、活動範囲の明確化、問題が起きた際の記録、参加を断る基準、相談機関へつなぐ仕組みなど、かなり強い運営機能が必要になります。
そこでAIが役に立つのではないか
このあたりから、話は思いがけずAIへ向かっていきました。
AIが役に立つのは、高齢者に仕事を与える部分というより、人間同士が接触する前後の面倒な調整なのではないか。
参加希望者に、AIが音声で質問する。
人と話す活動がよいのか、黙々と作業する方がよいのか。
一度に何分くらいなら負担がないのか。
どのような仕事をしてきたのか。
どのような作業なら無理なくできそうなのか。
最初は、公園の設備確認や資料整理など、人との摩擦が起きにくい短時間の活動を紹介する。問題なく参加できれば、少しずつ人と関わる活動へ広げていく。
活動後には、参加者と受け入れ側の双方からAIが聞き取りを行う。
「頼まれていない指示を繰り返した」
「個人的な連絡先を聞かれて困った」
「次回は一人で対応したくない」
そうした報告をAIが整理し、次回の活動内容や配置に反映する。
参加者から過剰な要求があった場合も、現場の人間がすべてを直接受け止めるのではなく、まずAIが規則を説明し、要求を整理する。
AIは、相手が同じ話を何度繰り返しても疲れません。怒鳴られて精神的に傷つくこともありません。
人間なら消耗してしまう反復的な説明、記録、分類、一次対応をAIが担い、本当に人間の判断が必要な場面だけを担当者へ渡す。
これはかなり相性のよい使い方なのではないかと思いました。
AIは「儲からない仕事」にこそ向いているのかもしれない
現在、AIは文章作成や画像生成、プログラミング、企業の業務効率化など、主に生産性を高める道具として語られています。
しかし本当に社会的な価値が大きいのは、別の領域かもしれません。
福祉、介護、行政窓口、生活相談、孤立した人への声かけ、クレームの一次対応。
どれも必要な仕事ですが、直接利益を生みません。
一件ごとに時間がかかり、同じ説明を何度も繰り返し、怒り、不安、孤独、依存まで受け止めなければならない。
そのため人員を増やしにくく、現場の職員や家族、地域の世話好きな人の善意に依存しがちです。
そして社会は、その善意を、尽きるまで使ってしまう。
AIは、そうした精神的な負担が重く、採算の取りにくい仕事にこそ向いているのかもしれません。
AIに人間関係をすべて任せるということではありません。
扱いにくい人や孤独な人を、AIの中へ隔離することでもありません。
AIが受付、説明、記録、整理を担い、人間は判断や関係づくり、例外対応を担う。
つまりAIは、人間に代わって人間らしさを引き受けるのではなく、人間が人間らしく対応する余力を残すために使われるのです。
善意が食い潰されないためのAI
今回の話は、老後にどのような趣味を持てばよいか、というところから始まりました。
それが、時間を持て余す高齢者の社会参加へ進み、さらに、精神的負担の重い仕事をAIがどう支えられるか、という話にまで広がりました。
まったく意図していなかった方向です。
ただ、考えてみれば、AIの重要な役割は、生産性の高い人をさらに効率化することだけではないのでしょう。
これまで誰かの我慢や忍耐、責任感によって、どうにか維持されてきた仕事を、少しでも持続可能にする。
社会に参加したい人と、助けを必要としている場所を結びつける。
そして、その間に生じる摩擦や感情的負担を、現場の誰か一人に背負わせない。
AIは、人間の善意を代替するものではありません。
むしろ、善意が食い潰されず、長く続いていくための境界線や緩衝材になるものなのかもしれません。
カフェで退屈そうに本へ蛍光ペンを引いていた男性を見たところから、ずいぶん遠くまで来てしまいました。
まあこれも、徒然なるままに考えを巡らす楽しみなのだと思います。
