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【探究学習】未来を使う時代――『攻殻機動隊』から考える、SFが基礎教養になる理由

先日、中国製ルーターに、外部から遠隔操作できるような仕組みが組み込まれていたというニュースを目にしました。
詳しい意図については慎重に考える必要があるのでしょうが、利用者から見えない場所に、外部と通信する強力な機能が存在していたというだけでも、かなり不気味な話です。
こうしたニュースを見ると、中国製のスマートフォンやルーター、生成AIなどに対して、どうしても警戒感を持ってしまいます。
ただ、中国企業の製品が単純に粗悪なのであれば、話はそれほど難しくありません。使わなければよいだけです。
厄介なのは、優れた製品やサービスを作る企業が、実際に数多く存在することです。
安く、高性能で、開発速度も速い。だからこそ世界中で使われ、社会の奥深くにまで入り込んでいく。
粗悪だから危険なのではなく、優秀で便利だからこそ、私たちは多くの情報と権限を預けてしまう。
そこに、この問題の難しさがあるように感じます。

ルーターの中にあった「サイバーパンク」
ルーターは、家庭内のインターネット通信が集まる場所です。
スマートフォン、パソコン、テレビ、ゲーム機、場合によっては防犯カメラやスマート家電まで、あらゆる機器がそこを通って外部とつながっています。
そのルーターが外部から操作される可能性があるとすれば、これは単なる家電の不具合ではありません。
家庭という空間の入口に、目に見えない侵入経路が作られていることになります。
こうした話を見ていると、自分の暮らしている世界も、いよいよ『攻殻機動隊』をはじめとするサイバーパンクSFの世界へ近づいてきたのだと感じます。
もっとも、現実のサイバーパンクは、ネオンの輝く巨大都市や義体化した人間という姿ではやって来ませんでした。
自宅のWi-Fiルーターや、スマートフォンの利用規約、クラウドサービスのデータ保存方針といった、実に地味な姿で現れています。
未来の外見は、まだそれほどSF的ではありません。
しかし、未来の社会構造だけが、先に到着し始めているのです。

スマートフォンは「外付けの電脳」なのか
十代の頃、『攻殻機動隊』に登場する「電脳ハック」という言葉に、とても興奮した記憶があります。
人間の脳がネットワークにつながり、そこへ外部から侵入される。
記憶を書き換えられ、自分の見ている現実さえ操作される。
当時は、あくまで遠い未来のフィクションとして、その世界をありありと想像していました。
しかし現在の私たちは、記憶、写真、連絡先、位置情報、決済手段、交友関係、検索履歴などを、スマートフォンとクラウドへ預けています。
身体の脳に直接ケーブルがつながっているわけではありません。
それでも、人間として生活するために必要な機能のかなりの部分が、すでに身体の外へ移されています。
そう考えると、スマートフォンを乗っ取られることは、単に一台の機械を奪われることではありません。
その人の社会的な人格や記憶、人間関係の一部へ侵入されることに近い。
完全な「電脳ハック」ではないにしても、その入口くらいには、すでに立っているのかもしれません。
さらにAIが、メールを書き、予定を調整し、買い物をし、本人に代わって誰かと交渉するようになれば、ハッキングの対象はデータだけではなくなります。
その人の判断や行動そのものが、外部から操作される可能性が出てくる。
十代の頃に想像していた「電脳ハック」が、スマートフォンやAIエージェントという別の姿を取りながら、部分的に現実化しているようにも見えます。

過去に想像した未来を、現在の自分が生きている
不思議なのは、こうした状況に恐怖を感じる一方で、どこか面白おかしく眺めている自分もいることです。
もちろん、個人情報の流出や不正アクセスは笑い事ではありません。
それでもニュースを見ながら、
「ああ、いよいよ攻殻の世界になってきたな」
と、少し興奮してしまう。
十代の頃、フィクションとして何度も頭の中で思い描いた世界が、何十年かたって現実の側から追いついてきたような感覚があります。
これは、ある種のノスタルジーなのかもしれません。
ただし、普通の意味での懐古とは少し違います。
懐かしんでいるのは、過去の出来事だけではありません。
過去の自分が思い描いていた未来を、現在の自分が生き始めたことへの郷愁です。
かつて画面や本の外側から眺めていた物語の中へ、いつの間にか自分も登場している。
十代の自分と現在の自分が、時間を越えて同じ景色を見ているような、不思議な気分になります。

SFを読んだ人たちが、SFの未来を作り始めた
最近では、イーロン・マスクをはじめ、テック系企業の経営者や起業家には、SF好きが少なくないという話をよく耳にします。
宇宙開発、人工知能、ロボット、脳とコンピューターの接続。
現在進められている事業の中には、かつてSF作品の中で繰り返し描かれてきたものが数多くあります。
ここで興味深いのは、SFが未来を予言しているだけではないことです。
SFを読んだ技術者や経営者が、その作品から着想を得て研究テーマを選び、会社を立ち上げ、資金を集め、製品を作っている。
つまり、SFは現実の未来を予測するだけでなく、未来を作る側の原因にもなっているのです。
以前であれば、現実の科学技術を作家が延長し、遠い未来を描き、読者が夢物語として楽しむという流れだったのでしょう。
しかし現在は、
現実の技術からSFが生まれ、
SFを読んだ人が新しい技術を作り、
その技術によって社会が変わり、
変化した社会から、また新しいSFが生まれる。
そんな循環が生まれています。
しかも、その循環する速度が、どんどん速くなっている。
作品で描かれた技術が、作者や読者の存命中に実現することさえ、珍しくなくなってきました。

SFは「遠い夢」から「社会のプロトタイプ」へ
そう考えると、近年、SFそのものの位置づけも変わってきているのかもしれません。
かつてのSFにおける未来は、現実とは切り離された遠い舞台でした。
しかし現在では、数年先、あるいは数十年先に、本当に実現するかもしれない社会として読まれ始めています。
SF作品は未来を予言するものというより、まだ存在しない社会を先に動かしてみるための、プロトタイプに近づいているのでしょう。
ある技術が普及したら、人間の生活はどう変わるのか。
誰が利益を得て、誰が不利益を受けるのか。
どのような犯罪が生まれるのか。
国家や企業は、どれほど大きな力を持つのか。
人間らしさの定義は、どのように揺らぐのか。
普通の企画書では、技術によって「何ができるか」が語られます。
SFでは、その技術が当たり前になった社会で、人々がどのように暮らし、どのような問題に直面するのかまで考えることができます。
起業家はSFを読んで「これは事業になる」と考える。
技術者は「これは作れる」と考える。
投資家は「ここに新しい市場が生まれる」と考える。
行政は「この技術には新しい規制が必要になる」と考える。
そして一般の市民は、「自分は本当にその社会で暮らしたいのか」と考える。
SFは、さまざまな立場の人間が未来について考えるための、共通言語になり始めています。

警告書が、開発計画に変わってしまう
ただし、ここには大きな皮肉もあります。
『攻殻機動隊』をはじめとするサイバーパンク作品は、電脳化や人工知能の魅力を描くと同時に、監視社会、情報操作、企業権力、格差、人格の乗っ取りといった危険も描いていました。
それは未来への夢であると同時に、警告でもあったはずです。
ところが現実のテック企業が、作品の中から魅力的な技術だけを取り出した場合、ディストピアへの警告書が、そのまま開発ロードマップへ変わってしまうことがあります。
人間の行動をすべて記録できる社会の恐怖が、高精度な広告サービスとして実装される。
記憶を外部化することの危うさが、便利なクラウドサービスとして提供される。
巨大企業が個人の感情や欲望を把握する世界が、効率的なマーケティングとして歓迎される。
作品が批判していた構造を、その作品に魅了された人たちが実現してしまうのです。
だからこそ、未来を作る側だけでなく、その未来を利用する私たちにも、SF的な想像力が必要になります。
この技術は便利か。
この製品は安いか。
それだけでは足りません。
この技術が社会に広がった十年後、誰が大きな力を持つのか。
私たちは何を差し出すことになるのか。
一度普及したあとで、利用を拒否することはできるのか。
そこまで想像するための教養として、SFが必要になるのだと思います。

私たちは「未来を使う時代」にいる
SFは、遠い未来を夢見るための娯楽であり続けるでしょう。
しかし同時に、まだ存在していない社会を現在へ持ち込み、試し、比較し、時には拒否するための道具にもなり始めています。
未来は、ただ待っていればやって来るものではありません。
物語の中で想像された未来の一部が選ばれ、資金を与えられ、研究され、製品となり、私たちの暮らしへ配布されていく。
人間は今、未来を想像するだけではなく、未来そのものを資源として使い始めているのかもしれません。
十代の頃に読んだ『攻殻機動隊』は、当時の私にとって、遠い未来を描いた刺激的な物語でした。
しかし現在、それは懐かしい作品であるだけでなく、自分が暮らしている社会を理解するための参考書にもなっています。
SFを読んでいたから未来を予言できたわけではありません。
ただ、未来が到来したときに、
「これは、あの物語で見た構造ではないか」
と気づくための言葉と想像力を、あらかじめ受け取っていた。
そう考えると、SFはこれからますます、特殊な趣味ではなくなるのでしょう。
未来を作る人にとっての創造の教養であり、他人が作ろうとしている未来を見抜くための批判の教養でもある。
私たちはいま、SFを読む時代から、SFによって未来を使う時代へ移りつつあるのだと思います。

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