【探究学習】AI時代に「つくる人」の意味はどう変わるのか——デザイン、文章、動画から考える
先日、東京商工リサーチが発表した、デザイン業の倒産増加に関する記事を読みました。
2026年上半期のデザイン業の倒産は40件。前年同期と比べて大幅に増えており、その多くを従業員数の少ない小規模事業者が占めているといいます。
もちろん、すべてがAIの影響による倒産というわけではありません。
紙媒体からデジタル広告への移行、住宅業界の不振、物価や人件費の上昇など、複数の要因が重なっています。
それでも、AIやデザインソフトの普及によって、これまで外部のデザイン会社に発注していた仕事を、企業が社内で制作できるようになってきたことは大きいのでしょう。
いよいよデザインの世界にも、AIの影響が具体的な数字となって表れ始めたのだと感じました。
最初に減るのは「デザイン」ではなく、制作工程
AIによって、いきなりデザインという行為そのものがなくなるわけではないと思います。
最初に影響を受けるのは、バナーやSNS画像、簡単なチラシ、プレゼン資料、サムネイル、画像の切り抜き、サイズ違いの展開といった、比較的定型化しやすい制作工程でしょう。
以前であれば、
「専門会社に頼むほどではないが、社内の人間だけでは作れない」
という仕事が数多くありました。
ところが現在は、AIに文章や画像を生成させ、Canvaなどのツールで整えれば、専門的な訓練を受けていない人でも、それなりに見栄えのするものを作れます。
私自身、noteの記事を書く際には、AIと相談しながらサムネイルを作っています。
記事の内容を渡し、横長の比率や文字を配置する範囲、全体の雰囲気などを指定すれば、かなり完成度の高い画像が短時間で出てきます。
以前なら、記事を読み、コンセプトを考え、素材を探し、構図を決め、文字を配置し、色を調整する必要がありました。
現在のAIは、単に画像を作るだけでなく、構図や演出、文字の優先順位といった、アートディレクションに近い部分まで担い始めています。
デザイナーは「作る人」から「決める人」へ
こうなってくると、デザイナーという言葉が意味するところも変わってきそうです。
これまでのデザイナーは、大ざっぱに言えば、
「専門的なソフトや技術を使って、見た目のよい成果物を作る人」
として認識されていました。
しかし、一定水準の画像やレイアウトを誰でも作れるようになると、「作れること」だけでは、専門性として成立しにくくなります。
代わりに重要になるのは、
何を作るべきなのか。
誰に向けて作るのか。
どの案を選ぶのか。
何を修正し、何を捨てるのか。
その表現は本当に適切なのか。
といった判断です。
デザイナーは、造形する人から、編集する人、意味を設計する人、最終的な責任を引き受ける人へと近づいていくのかもしれません。
デザインそのものも、完成したポスターや画面だけを指すのではなく、
「どのようなルールで表現を作るか」
という仕組みの設計へ移っていくのでしょう。
企業が毎日大量のSNS画像を発信する場合、デザイナーが一枚ずつ制作するのではなく、使用する色、写真の雰囲気、文字量、余白、禁止表現などを決め、AIや社内担当者がそのルールに沿って量産する。
その場合、デザイナーが作っているのは画像ではありません。
画像を生み出すための文法や環境です。
文章にも同じことが起きている
この変化は、デザインだけに限った話ではないように思います。
文章についても、AIはすでに要約、構成、言い換え、紹介文、説明文などをかなりの速度で作れます。
読みやすい文章を書くこと自体は、以前ほど特別な能力ではなくなりつつあります。
しかし、AIが文章を書けるようになったからといって、書き手が不要になるわけではありません。
むしろ重要になるのは、
何を問題として取り上げるのか。
どの体験を中心に置くのか。
どの視点から語るのか。
どこまで書き、何を書かないのか。
なぜ今、この文章を書くのか。
といった部分でしょう。
AIは文章を整えることはできます。
しかし、カフェで見かけた高齢者の姿から社会の問題を考えたり、一つの株価の動きから人口動態へ話を広げたり、一向宗からRPG、さらにAIへと連想をつないだりするのは、その人自身の経験や関心です。
文章を書く人の役割も、文字を並べることから、現実の中から意味を切り出し、読者に渡せる形にすることへ変わっていくのだと思います。
動画は「編集する人」から「時間を設計する人」へ
動画も同様です。
カット編集、字幕作成、ノイズ除去、色補正、素材生成、BGMの選定など、これまで編集者が手作業で行っていた工程は、急速に自動化されています。
しかし、映像制作の本質は、ソフトを操作することだけではありません。
どこから始めるのか。
何秒間見せるのか。
どこで情報を伏せるのか。
視聴者の注意をどこへ向けるのか。
どの順番で感情を動かすのか。
動画とは、映像素材を並べる作業というより、人間の注意や感情を時間軸上に配置する行為です。
AIが大量の映像を作れるようになればなるほど、何を選び、どの順番で見せるかを判断する編集者の役割は、むしろ重要になるのかもしれません。
制作物が不足する時代から、過剰になる時代へ
デザイン、文章、動画に共通しているのは、制作コストが急激に下がっていることです。
これまでは、一つの成果物を完成させるだけでも、時間と技能が必要でした。
そのため、「作れる人」であること自体に価値がありました。
ところが今後は、画像も文章も動画も、簡単に大量生産されるようになります。
問題は、制作物の不足ではなく、過剰になるのでしょう。
画像が多すぎる。
文章が多すぎる。
動画が多すぎる。
どれを見ればよいのか分からない。
どれを信頼すればよいのか分からない。
そのような時代には、生成する能力以上に、選び、整理し、意味を与え、責任を持つ能力が重要になります。
クリエイターの仕事の中心は、
「制作」から
「編集・選択・判断・責任」へ
少しずつ移動していくのだと思います。
技術は不要になるのではなく、基礎教養になる
ただし、従来の制作技術が不要になるわけではありません。
一度も文章を書いたことのない人は、AIが作った文章の不自然さを見抜きにくいでしょう。
映像編集を経験していない人は、AI映像のテンポやつながりの悪さに気づきにくい。
造形の経験がなければ、AIが作った画像の構図や視線誘導の問題を、うまく説明できないかもしれません。
これまでの技術は、
「自分の手ですべてを作るための技術」
から、
「AIの出力を評価し、修正し、方向づけるための基礎教養」
へと位置づけが変わっていくのでしょう。
一方で気になるのは、若い制作者が経験を積む場所です。
これまでは、切り抜き、文字修正、テロップ制作、画像のサイズ展開など、比較的単純な仕事を経験しながら、少しずつ全体の仕組みを学んでいきました。
その入口をAIが引き受けるようになると、熟練者は効率よく制作できても、次の世代の熟練者が育ちにくくなる可能性があります。
「何を作ったか」より「なぜ作ったか」
AI時代には、完成したものだけを見ても、人間が作ったのかAIが作ったのか、分からなくなっていくでしょう。
そのとき重要になるのは、完成品の技術的な出来栄えだけではありません。
誰が、どのような経験から作ったのか。
なぜ、そのテーマを選んだのか。
その人は世界をどのように見ているのか。
作品の背景にある視点や経験が、これまで以上に価値を持つのだと思います。
AIによって「作ること」は民主化されます。
デザインする人、文章を書く人、動画を作る人は、これまで以上に増えていくでしょう。
しかしその一方で、何を作るべきかを考え、その表現が本当に適切なのかを判断できる人は、むしろ希少になります。
AIによってクリエイターが消えるというより、クリエイターという言葉の意味そのものが変わっていく。
私たちは今、その変化の入口に立っているのかもしれません。
