救済の心理学 不合理な愛の物語

 神について関心がある。なぜ関心があるのかというと「神が存在しなければ、一切が虚しく、生きている意味が一切ない」し、「神が存在すれば、一切に意味があり、何も虚しくない」ということになるから。神という言葉でなくても「大いなるもの」でも「宇宙」でもいいのだけれど、何かそういった「聖なるもの」に関心がある。

 「眼に見えないものを信じ込む」ということはできなかったので「感じる」ということにシフトした。主に「宗教の勉強」と「哲学」と「瞑想」を通じて探求したが、様々な宗教文化に通底する構造があり、自分でもそれを体験できると知った。

真理感覚。──「では試してみよう」と応えることが私に許されるあらゆる懐疑を、私は称賛する。だが、実験を許さないどんな事物もどんな問題も、私は金輪際聞きたくない。これが私の「真理感覚」の限界である。というのも、そこでは勇敢さが権利を失っているからである。

喜ばしき知恵
フリードリヒ・ニーチェ

 様々な言葉を集めたが「重力ー恩寵 自我ー無我 煩悩ー涅槃 傲慢ー謙虚 不信仰ー敬虔 恐怖ー愛 無神論ー有神論 緊張-弛緩」という風な構造がある。仏教的に言えば「自我ー無我、煩悩ー涅槃」になり、倫理的に言えば「傲慢-謙虚」になり、信仰的に言えば「不信仰-敬虔」になり、感情で言えば「恐怖-愛」になり、理論で言えば「無神論-有神論」になり、身体で言えば「緊張-弛緩」になる。ゲーテは「収縮-拡張」と言っているらしい。これらは同じものを指しており、例えば倫理的に謙虚になれば、身体的に弛緩するようになり、感情的に言えば愛の状態になる。

 浄土真宗に「落ちる釣瓶が上がる釣瓶」という卓越した比喩がある。井戸の「釣瓶」というバケツは、片方が落ちれば、片方が上がる、という構造をしているらしい。浄土真宗では「二種深信」といって「自分は救われない」という自覚と「仏のお助け」の自覚がセットになっているという教義がある。教義というか、そういう体験が語り継がれているんだと思う。自分の「はからい」が減るほど、仏の臨在を感じるようになる。なぜ感じるのかといえば、全ての人は元々仏だから、とか神の子だから、としか表現できないが、そう表現せざるを得ない感覚があるらしい。

 ヴェイユはそのあたりの事情をこう書いている。

報酬をぜひ欲しいと思う気持ち、与えたものと同じ価値のものを受け取りたいという欲求。だがもし、この気持ちをむりにおさえて、真空にしておくと、一種の誘いの風が生じて、超自然的な報酬が不意にやってくる。ほかに報酬のある場合はやってこない。真空がそれを招き寄せるのである。

重力と恩寵
シモーヌ・ヴェイユ

 「俺が」とか「得したい」という「我」がへし折れると、その場所に「真空」ができて、その真空に恩寵が流れ込む、という。浄土真宗の説明と同じだと思う。一方の釣瓶が下がると、もう一方の釣瓶があがる。

 「信仰」には「お話」がある。浄土教では「無限の過去に自分のために功徳を積んでくれた仏様がいるから、念仏をするだけで救われる」という話を聞くことになる。誰でも「疑い」が湧いてくる話だが、聞いている内に「疑いの蓋」が取れて、救われるということになっている。
 キリスト教では「不合理故に我信ず」という言葉があるが、「自我」というものは「不合理」に耐えられないので、同じ話を何度も聞くことによって、自我が粉砕されていくんじゃないだろうか。仏教には「公案」といって「片手の拍手の音は如何?」という答えのない謎々を延々と考えるという修行があるが、これも原理は同じだと思う。「分かる」ということは「支配欲」の形態であるので、「分からない」という不合理で不快な状態に自我を置いていると、自我が融けていく。自我の融けた場所に真空が出来て、その真空に恩寵が入り込む。無知の知!
 「不合理な愛の物語」というのは自我の対極にある。自我というのは「冷酷な合理性」であるから、そういった物語に親しむことで自我が溶解するということは在り得る。

 だから、こういった話は結果的に「本当だった」ということになるんじゃないだろうか。その話を聞いていると、自我が融けて神仏を「感じる」ことができるようになるので、話自体が本当だった、ということになっている気がする。史実かどうかは実証することができないが、そういった意味では確実に「本当」と言える。
 浄土真宗では「信心」に二種類あるとされている。「自力の信心」と「他力の信心」だが、前者は「推し活的信仰」と言っても良いと思う。僕はこちらの信仰は大嫌いだ。「傲慢」や「緊張」の状態にある「自我」が「絶対者」に執着して自己を防衛する、という形なので、一番醜い。真宗では「聞いているうちに、信じる力も存在しない自性を知らされて、救われる」というような法話をするが、これも「自我融解」を表現していると思う。「信じる力もない、どうしようもない自性」が明らかになるほど、自我が縮小して、真空に恩寵が入ってくる。

 人間には「有限性」がある。主に現れるのは「死」と「悪」の問題になる。寿命が尽きれば死んでしまうし、人間は常に善を行うことができない。人は普通こういった「有限性」を無視して生きている。永遠に生きるかのように生活しているし、自己が正義だと思っている。が、それは錯誤であり、寿命は有限であるし、人は悪を実行している。ここで「反省」や「自覚」のできる(まともな)人が「ニヒリズム」や「罪悪感」に悩んでいることが多い気がする。キルケゴールの言う美的段階→倫理的段階→宗教的段階がある。「倫理」というものが分水嶺になっていて、罪を「誤魔化す」という生き方が美的段階になるが、人は恐らく罪を「見ないようにする」ということしか出来ないので、無意識に罪悪感が募っていく。昨今の欲望過剰の世の中は「虚無感、罪悪感=自己否定」から目を逸らすために、物質や権力に「依存」しているように見える。

 だから「求める」ことになるのだが、仏教では修行を「聞思修」と分ける。法話を聞き、考え、実行する。プラトンは哲学を「浄化」の営みとしているが、哲学の眼目もここにあると思う。学び、考えることによって、魂が浄化される。今までの言葉遣いでいうと、釣瓶が落ちる、自我が融けて真空ができる。私的な実感を言えば、哲学というのは「物凄く面白い頭の体操」だが、頭の体操がこの世で一番重要でもある。「世界が提出している公案」という表現がしっくりくる。存在とは何ぞや?

哲学者は死を恐れない。死とは魂と肉体との分離であり、哲学者は魂そのものになること、すなわち死ぬことの練習をしているものだから。

パイドン
プラトン

ここにひとつ、私が見てとっていたことがある。それは、以上のことがらに思考を向けているあいだにかぎって、精神はこれら〔富、名誉、快楽〕から自らを引き離し、ひとえに新たなもくろみについて思考していた、ということである。これは私にとって大きな安らぎとなった

知性改善論
バールーフ・デ・スピノザ

ほかのことにかまけてはいられないよ。生き方のすべてが、ますます上の空でいい加減になっていくさ。極端に言えば、一日二十四時間、それ以外のことは考えられなくなっちゃうからね。哲学のすごいところは、そういういわば邪心を哲学すること自体が徐々に克服させていってくれることなんだよ。ただ哲学するだけでいいという境地に、哲学のほうが少しずつ近づけていってくれるんだ。

転校生とブラック・ジャック
永井均

 「不条理」ということを、カミュは「死に物狂いの理性が沈黙している世界と関係すること」と定義しているが、不条理に浸っていると、自我は融ける。「条理がない」ということは「神秘」と表裏の関係だ。

 僕もまだ探求している最中だけど、おおよそこういう構造があるんじゃないかと思っている。一言で言えば道元の「放てば手に満てり」という言葉が正鵠を射ぬいていると感じる。普遍的な心理構造だと思われるので、宗教アレルギーの現代人にもこれは備わっていると思う(一切衆生 悉有仏性!)。科学の言葉で言えば「進化の過程で身に着けた自我=防衛機能が暴走することによって、人は常に不安を抱えているので、内省や行を行うことによって、それを鎮めれば、平安な生活になる」という感じになるかな。

 「出口なし」だと思っていたが、もがいていると案外こういった構造が見えてきた。「もがく」ということが重要であったらしい。

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

マタイによる福音書 7章7節

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