神は存在するか? 宗教心理学
宗教的なパラメータとして「重力ー恩寵 自我ー無我 煩悩ー涅槃 傲慢ー謙虚 不信仰ー敬虔 恐怖ー愛 無神論ー有神論」がある。どれも指しているものは同じで、同じ現象に様々な言葉がある。根底には「自力」と「他力」があり、自力だと「自我-無我」という表現になり、他力だと「不信仰-敬虔」という表現になる。ただ無我と敬虔という現象は、どちらも同じだと思う。一般的な語彙だと「恐怖-愛」「傲慢-謙虚」のような言葉になる。古代人が「神を知らない人は危険だ」と言った理由もそこにある。
荘子に「大鵬と小鳥」の話がある。大鵬という大きな鳥が空を飛ぶと、小鳥はこう言う。
鵬が飛び立つ姿をみながらヒグラシとハトが笑ってこう言った。「おれたちはニレやマユミの木の間を飛べれば充分だし、たまにおっこちたりもしているけど、あの鳥は九万里の先を目指そうとしている、なんてバカなマネをしているんだろう。」
最近までこの寓話の意味が分からなかったのだが、「自我ー無我」の話をしているらしい。無我のパラメータが大きい人は、自我のパラメータの大きな人の気持ちが分かるが、その逆はないらしい。恐らく無我の人は自我を通り抜けて無我にいるので、自我の気持ちも無我の気持ちも分かるということだろう。実際に人と話していてもそう感じる。このパラメータはどちらかが増えるとどちらかが減るという構造になっていて、傲慢が80だと謙虚が20 傲慢が50だと謙虚が50、となるようになっていると思う。
ヒンドゥー教は宗教の体系として優れていると思うが、神を求める道に4つあるという。
①カルマ・ヨーガは行為の道で、献身的に行為をすることで、無我パラメータを上げる。
②ジュニャーナ・ヨーガは学問の道で、学問を学んだり考えたりすることで、思い込み=自我を無くす。
③バクティ・ヨーガは信仰の道で、神を愛することによって自我を無くす。
④ラージャ・ヨーガは瞑想の道で、呼吸法や瞑想によって自我を無くす。
実際に、現代で天才的な哲学者は神を知っている。古東哲明や永井均、池田晶子には神秘的な傾向がある。デカルトもスピノザもライプニッツもそうだ。神を知っているということは=で「無知の知を知っている」ということなので、他の自称哲学者がそうでないことが不思議だ。
この4つでほぼ人間の行為は尽きている。日本にも「茶道」や「華道」、「剣道」や「柔道」など、芸事や武術によって「道を求める」という伝統がある。献身的に、誠実に生きていたら自然に無我になると思うのだが、そうならないということは不誠実に生きている人が多いのだと思う。
キルケゴールの「美的生活-倫理的生活-宗教的生活」という区分けも参考になる。サイコパスの人以外はみんな倫理を持って生きているので、罪の自覚をすべきなのだけれど「罪を抑圧すること」によって、美的生活に依存している。昨今のスマホ依存やアルコール依存の問題は、究極的には「罪」の問題だと思っている。実際に依存症の人は「罪悪感」や「恥」の感覚を持っている人が多いらしい。アルコール依存解消のプログラムも参考になる。「大いなるものに委ねる」ということが依存症解消にとても有効な手段とされている。
なぜ無我や神といったものが重要なのかというと「自我-無我」というのは「恐怖-愛」であり「傲慢-謙虚」だからだ。対自的には恐怖に彩られた人生になり、対他的には非倫理的な人間になる。だから人生で一番重要なことなのだけれど、自分と向き合うということは恐ろしいことであるので、ほとんどの人は快楽的な人生を送っているように見える。ただ、自分から逃げることは絶対にできないので「恐怖」を動機にした人生を送ることになる。それが悲劇だし、喜劇でもある。
「神は存在するか?」という問いには、厳密に言えば「分からない」ということになる。
念仏は地獄へ行く悪い言葉という者があるようだが、そういうことなのか、それとも20年間教えてきたように、極楽へ往くたねか、今さらこの親鸞に、言わせるおつもりか。まったくもって親鸞の知るところではない。
「罪や重荷を任せる」ということが重要で、その対象が存在するかどうかということは分からない。
懇願の態度。必然的に私は自分自身以外のものに頼らなければならなくなる。自分自身から解放されることが問題なのだから。
私自身のエネルギーを用いてこの解放をこころみるとすれば、それは牝牛が足にくくりつけた綱を引っ張って、そのために膝をついてころぶようなものだろう。
シモーヌ・ヴェイユ
「自分で自分を解放する」ということはできない。だから自然に「大いなるもの」という感覚が必要になる。
一番重要なのは「求めること」であるらしい。僕の感覚だと、死を凝視すると、自分の罪が見えてくる。罪を凝視していると、任せざるを得なくなる、ということになる。仏教でいえば「無常観」と「罪悪観」が重要になる。ウィリアム・ジェイムズの「宗教的経験の諸相」という本を読んでも、罪悪感が究極まで煮詰まった結果、大いなるものを感じるようになったという記述が多かった。
これが一番重要なことで、芸術や哲学などはどうでもいい。茶道、華道など「どうでもよいこと」に本気になることが「無我」に導くのだと思う。だから哲学や芸術、坐禅なども本質的に「くだらないもの」だ。「役立つもの」であれば「自我」へ回収されてしまうので「くだらないものに本気になる」という構造が必要になる。哲学や芸術などは、現代では「売り物」になっていて「役立つもの」になっているという点で、堕落している。
キリスト教は教義ではない。かく言うことで私が意味していることは、こうである。キリスト教は、人間の魂に生じたこと、そして、人間の魂に生じるであろうこと、についての理論ではなく、人間の生活において事実として生じたことの、記述である。なぜならば、〈罪の意識〉は、事実として生じることであり、そして、絶望も信仰による救いも、そうであるから。(バニヤンのように、)罪の意識について、そして、絶望と信仰による救いについて、語る人々は、──人は何て言おうと──端的に、彼らに生じたことを記述しているのである
