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リクエスト・アワー01 、No.5 noteという文化伝搬の小さな舟  そしてその船頭たちに敬意を込めて 

 リクエストを請うという暴挙に出たtetsuです。みなさまの優しさだけが頼りの「リクエスト・アワー」が、成立いたしました。おかげで、どれから書けばいいか、どのように書いていけばいいかの指針が立ちました。感謝です!


 最初にお披露目するネタは、「5.えんやーとっとが脳内無限ループ 青春の蹉跌 ショーケン 萬屋さん くろいるすけさん」です! でも、これだけだと何のことかわかりませんよね。(萬屋さん、くろいるすけさん、ソウ・マチさん、勝手にご登場していただいてます。申し訳ございません! いっぱい出てきます!)

 何のことだっけ? とぼくも思いました。でも、ちゃんと思い出すためのフックは仕込んであります。そうです。「萬屋さん くろいるすけさん」です。

 お二人の記事をせっせと遡り、これだっけ? あれだっけ? と探して、見つけました。

 事の起こりは、昨年末の萬屋安斎さんの記事です。そうです。みなさんの記憶にも、きっとまだ新しいあの「酒バンバン事件」です。

 まず、萬屋さんの「酒、バンバン買ってこいよ」発言からの、3Lさんが購入してきた「芋焼酎 鉄砲伝来」という展開にのけぞります。なんて素敵なお二人でしょう。意図的な読点ズラし(「酒、バンバン買ってこいよ」→「酒バンバン、買ってこいよ」)も、助詞「を」の省略を前提としています(「酒をバンバン買って来いよ」「酒バンバンを買ってこいよ」)。すべてを了解した上での、3Lさんの切り返しもお見事でした。そして最後は、萬屋さんも、3Lさんも、買われた「鉄砲伝来」も幸せ♡、という三方良しのお話です。

 ですが、主眼はそこにはありません。オノマトペです。うずうずしますよね、オノマトペ。コメント欄も「勝手にオノマトペ会」準備会の様相を呈していました。

 ただ、不思議な点がひとつありました。当日の記事は、まずオノマトペの話題があり「好きです・楽しい」と宣言した上で、具体例として3Lさんとの「酒バンバン事件」だった点です。

 「酒バンバン事件」が強烈で面白すぎるゆえに、この一本の記事は二つのテーマとなり、読後感が統一されません。

 順番が逆であれば、つまり具体例「酒バンバン事件」からの、「オノマトペ楽しい・好き」という意思の表明であれば、焦点は「オノマトペ」一点になり、ずっとすっきりしたでしょう。

 しかし、萬屋さんはそう書きませんでした。ここに、萬屋さんの意図が、深謀遠慮があります。

 その後、いったんオノマトペ熱は沈静化したかに見えましたが、年を越した1月9日。萬屋安斎さんは、満を持して狼煙を上げます。

 そうです。「オノマトペ」(2025/12/20 萬屋安斎さん)は、この「続オノマトペ」に至る伏線だったのです! あの「オノマトペ」は、序章に過ぎませんでした。

 ここで萬屋さんは前の記事に寄せられたコメントを、一つひとつ丁寧に解説し、さらに深掘りし、拡げていきます。これは、昼間フィールドで採集した案件を、テントに帰り、一つひとつ整理していくフィールドワーク・ノートです。分析と整理、ですね。

 そのなかでご自分の「お酒バンバン事件」も、分析・整理なさいます。擬態語として使った「バンバン」が、擬声語として受け取られていた、と。おーっ! そういうことだったのかですね! その分析に唸ります。なぁるほどの、エウレカ! です。さらにnoterさんのコメントに寄せて「五臓六腑にくる」音として、もう一つの擬態語を発見しています。

 寄せられたコメントすべてに対して分析と整理を終えた後は、「そして今もオノマトペを作り続けてるのかもしれないnoterさん。は行パ行が好きかもって教えてくれた。私も今朝作りました」と、新展開を予告します。

 慣用句としてのオノマトペはもちろんですが、日々作られては消えていくオノマトペにまで、その手を伸ばそうとしています。

 お気づきのように「萬屋オノマトペ学」は、まだ端緒についたばかりです。これからさらにフィールドワークを拡げていくのでしょうか? それとも分析からの考察に入られるのでしょうか? これからどのような深まり、広がり、そして新たな発見にいたるのかが期待されます。お楽しみは、これからですね。

 ……などと思っていると、


 それから一週間後の1月16日、事件は起こります。
 くろいるすけさんから届けられた一冊のnoteでした。


 前記、萬屋さんの「オノマトペ」「続オノマトペ」にあった、ソウマチさんのコメント「どんぶらこっこが好き」、それに対する萬屋さんのコメントに、無意識に反応したのでしょう。きっと「続オノマトペ」を読んで以来、くろさんの頭のなかでは「どんぶらこっこ」が繰り返し鳴っていたはずです。

 どんぶらこっこ~、どんぶらこ
 どんぶらこっこ~、どんぶらこ
 どんぶらこっこ~、どんぶらこ
 どんぶらこっこ~、……

 そこからアナグラムへの飛翔が始まります。まずオノマトペの中毒性に染まり、そこから変化への希求が生まれます。オノマトペは、わずかなズレ(音韻的なズレ、意味的なズレを含む)を起こすことで、アナグラムへと変貌を遂げます。単純なリズムにつまずきが生まれ、それがアクセントとなり、全体としてのグルーブが動き出します。

 まるで人類の言語史を見ているかのよう、あるいは音楽の発生を見ているかのような展開です。

 萬屋さんの「オノマトペ論」は研究的なベクトルを持っていました。それを感受した、くろさんは斜め上に飛び出し、「遊」に展開してみせたのです。

 くろさんは、ズレと飛躍を使い倒します。音韻的なズレも、意味的な飛躍も、一歩間違えば文脈という一本の糸から切り離されて、空中分解してしまい、遊びにはなりません。それをギリギリのところでくいとどめ、必ず「どんぶらこっこ、どんぶらこ」の基本リズムに戻るという、「遊んでてもいいけど、お母さんの声が聞こえるところにいてね」的な、必ず戻ってくるよ的な安心感に包まれた「遊」です。

 もちろん、それだけでは終わりませんでした。

 翌日のことです。


 もう、何も言うことはありません。考えてみれば、オノマトペもアナグラムも書き言葉の文化ではなく、口承の、話し言葉の文化です。言葉として発して口が気持ちいい、音声として聞いて耳が心地よい。そこにスタート地点があります。

 くろいるすけさんは、音として生まれたはずのオノマトペとアナグラムを、文字という記号から解き放ち、元来の形に落ち着かせました。

 感動です。大団円です。


 ……大団円、でしょうか? いやいや、これからですよね? 「萬屋オノマトペ学」「くろいるすけ音楽発生史学」も、スタートしたばかり。ファトラジーや「おっさん学」を巻き込みながら、硬直した言葉の世界をしなやかに遊び倒してくれるはずです。



 ……萬屋さんの「オノマトペ」の余波は、ぼくにもありました。

 それ以来、頭のなかで「えんやーとっと、えんやーとっと」と繰り返し呟いているのです。もちろんこれはオノマトペではありません。伝馬船を漕ぐ漁師のかけ声なのでしょうか? どのようなリズムで漕ぐのかはわかりませんが。

 これは「斎太郎節さいたらぶし」の囃子ことば、かけ声ですね。「まつしまぁ~の」と始まる「斎太郎節」は、宮城県松島地方の民謡として知られていますが、ぼくの頭のなかから聞こえる「えんやーとっと」は、民謡のそれではありません。

 これです。


 ぼくの頭に映る風景は上のものではなく、ショーケンが混雑する駅のホームを歩く(登ってくる?)シーンです。そこに、この彼の唄? 呟き? がかぶさっていたように記憶しています。上の画面を見るともちろんカラー映画だったのでしょうが、ぼくの記憶のそれはモノクロームです。

 ショーケンの口元が動いていたか否かは記憶にありません。ストーリーもよく覚えていません。上に映っている桃井かおりさんを殺す(いえ、桃井かおりさんを殺したわけではありません。彼女が演じている役の女性を殺す)直前か直後のシーンだったかもしれません。

 ぼくは映画に詳しいわけではありません。でも、ときどき映画のあるシーンが、記憶の幕に映ったままになります。同じ深作監督の『赫い髪の女』も石橋蓮司さんが立ち小便(おぉ、この言葉がまだ生きている時代でした!)するシーンばかりを繰り返し思い出します。『激流』でメリル・ストリープがふと振り返ってキッチンを見たところとか、『フォロー・ミー』の植え込み越しのミア・ファローだとか、『逃亡者』で麦畑の向こうを歩いていた男の立ち姿とか、ですね。筋はなにも覚えていないのに、そのシーンだけを鮮明に覚えているのです。その記憶は時間のなかで偽造されたものかもしれませんが。でも、そのシーンを求めて映画を見ているような節があります。

 何が残るか、映画を観た時にはわかりません。映画を観て、数ヶ月、時には数年経ってふと思い浮かぶシーン。それから繰り返し浮かんでくるシーンが、ぼくは好きです。

 おっと、話を戻しますね。

 みなさんは、ショーケンこと、萩原健一さんをご存じですか? ザ・テンプターズというグループサウンズのヴォーカリストだった、あの萩原健一さんです。


 若くしてG・Sブームの頂点に立った彼は、その終焉から迷走を始めます。テンプターズで脚光を浴びたのが16歳、解散が20歳の時ですから無理もありません。新しいバンド活動をはじめ、女優と浮名を流し、映画やテレビドラマに俳優として出演しました。ただ、そのどれも(たぶん)、彼に熱中を与えませんでした。もっと、我を忘れられるもの、忘我の域に入ることのできる何かを探していました。この時代の彼は、ひたすら痛々しい。

 神代辰巳監督との出会いが、萩原健一を変えます。そこで何が起こったのかは知りません。ただ彼は言葉によってではなく、神代辰巳という存在に強く共鳴したのだと思います。ショーケンは、言語的な人ではありませんでしたから。

 名盤のほまれ高い『Don Juan』『Don Juan Live』を聴いてくだされば、彼の表現者としての存在感、当時の充実ぶりがご理解できるはずです。

 歌い手であれ、俳優であれ、何かを演じるプロになることを、彼は潔しとはしませんでした。彼は身体まるごとで何かを表現する、「演じる」という留保なしに全身を投げ出して表現する人になりました。残念ながら、言葉には、そのような変化を導く力はありません。そのような変化には、実在する人、師の存在が必要です。きっとショーケンにとって、神代辰巳監督は師の役割を果たしたのでしょう。


 あーっ😱、迷走しているのは、ぼくでした! 

 違うのです。ぼくが書きたかったのは、萬屋さんに発したオノマトペの波がいろんな人に伝わり、その途中で形を変えていく、文化伝搬の姿です。

 萬屋安斎さんの「オノマトペ」が、ソウ・マチさんによって「どんぶらこ~」となり、くろいるすけさんに伝わってアナグラムに変化する。ぼくのところでは、「えんやーとっと」の呟き(暗いね)の記憶を蘇えらせていた、ということです。

 わたしたちは、このnoteを通じて、ミニマムな文化を作っているんだなぁという実感です。大きい小さい、有名無名は、文化の価値を証しません。文化の価値は、個人の必然性、個人の愉しさの深さ、人生との関わり方によって決定します(ここまですべて勝手な断言です・笑)。それぞれのnoterは、独自のネットワークに向けて開いていますが、そのあいだの繋がりが可視化される一瞬があります。開きつつ、一瞬、閉じる。そこに何かが生まれるような気がします。

 文化は伝搬の過程でさまざまに変化するのですね。当事者にとっては、その変化が愉しい。

 「楽しいなぁ」のひとことで充分なことに5025字も使ってしまいました。すんません🙇🙇


 ……おかげさまで、これで下書きメモを一つ消すことができました。でも、ショーケンについて何か書きたいというネタが発生しています。これではエンドレスです。困った😅



 映画『青春の蹉跌』に鋭く反応してくださったTakashiさん、リクエストありがとうございました。

 映画や映像のお話に興味のある方は、ぜひこちらへ。観たことある映画が出てくると、単純に嬉しい‼️  いつもバックナンバーを漁らせてもらっています。みなさまご存じのTakashi Hashiwakiさんです。いつも楽しく読ませてもらっています。感謝です。突然の無断掲載、失礼します。


 Takashiさん、ショーケンについて書いてくれませんかねぇ……。




 リクエスト・アワーは、こんなところから始まりました。


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