第3章 シュワルツシルト解と事象の地平面
一般相対性理論が発表されると、すぐに一つの重要な解が見つかった。
それが「シュワルツシルト解」である。
名前だけ聞くと、何やら難しそうである。実際、数式としては簡単ではない。しかし、その意味はきわめて大きい。シュワルツシルト解は、球対称で回転していない質量が、周囲の時空をどのように曲げるかを示したものである。そしてこの解の中に、のちにブラックホールと呼ばれる存在の基本構造が現れていた。
シュワルツシルト解を見つけたのは、ドイツの天文学者カール・シュワルツシルトである。彼は第一次世界大戦中、戦地にいながらアインシュタインの方程式を解いた。戦場で時空の方程式を解くというのは、なかなか普通の精神状態ではない。こちらが帳簿の数字で頭を抱えている間に、彼は宇宙の構造を計算していた。人類には時々、妙にすごい人が現れる。
シュワルツシルト解から導かれる重要な概念が、「シュワルツシルト半径」である。
ある質量を、一定の半径より内側に押し込めると、その内側からは光さえ脱出できなくなる。この半径がシュワルツシルト半径である。太陽程度の質量なら、半径約3キロメートルまで圧縮すると、ブラックホールになる。地球なら、半径約9ミリメートル程度まで圧縮する必要がある。
この数字を見ると、ブラックホールがどれほど極端な天体かがわかる。
地球をビー玉よりも小さな領域に押し込める。
太陽を町一つほどの大きさに押し込める。
そこまで圧縮されて初めて、事象の地平面が生じる。
ただし、ここで誤解してはいけない。
ブラックホールは、単に「ものすごく硬く圧縮された球」ではない。中心に物質がぎっしり詰まった黒い石のようなものでもない。重要なのは、質量が小さな領域に集中した結果、周囲の時空の構造が変わってしまうことである。
シュワルツシルト半径の位置に現れる境界が、「事象の地平面」である。
事象の地平面とは、外へ情報を送ることができるかどうかの境界である。
この外側で起きた出来事は、光や電波によって外部へ伝わる可能性がある。
しかし、この内側で起きた出来事は、外部へ伝わらない。
だから「地平面」と呼ばれる。
地球上の地平線の向こう側は、単に見えないだけである。歩いていけば向こう側へ行けるし、飛行機で上空から見れば見渡すこともできる。しかし、ブラックホールの事象の地平面は違う。向こう側は、努力すれば見えるという場所ではない。そこから発せられた光が、原理的にこちらへ届かない。
つまり、事象の地平面は「観測の限界」であると同時に、「因果関係の境界」でもある。
因果関係とは、ある出来事が別の出来事に影響を与える関係である。
たとえば、誰かが手紙を出せば、相手に届く。電話をかければ、声が届く。光を出せば、遠くの観測者に届く。これらは、情報が伝わることで因果関係が成立している。
しかし、事象の地平面の内側では、外部へ情報を伝える道がない。
どれほど強い光を出しても、どれほど強力な電波を送っても、外には届かない。
宇宙最強の「既読スルー」である。しかも相手が無視しているのではない。時空の構造上、そもそも届かないのである。
ここが、ブラックホールの恐ろしさであり、面白さでもある。
事象の地平面は、物理的な壁ではない。
そこに硬い表面があるわけではない。
宇宙船がそこへ到達したとき、船体が「ゴツン」とぶつかるわけではない。
十分に大きなブラックホールであれば、落下する観測者は、事象の地平面を通過する瞬間に特別な変化を感じない可能性がある。もちろん、潮汐力が強ければ別である。小さなブラックホールでは、足元と頭の重力差が極端に大きくなり、物体は引き伸ばされる。いわゆるスパゲッティ化である。名前は少し間抜けだが、現象はまったく笑えない。
大きなブラックホールでは、事象の地平面付近の潮汐力は比較的小さい場合がある。そのため、通過する本人には、境界を越えた瞬間がわからないかもしれない。だが、外から見れば、その人は二度と戻ってこない。
ここで、外部観測者と落下者の見え方が大きく分かれる。
外部の観測者から見ると、落下する物体は事象の地平面に近づくほど時間が遅く進むように見える。物体から出る光は重力赤方偏移によって波長が伸び、赤くなり、暗くなる。やがて観測できなくなる。
一方、落下している本人にとっては、自分の時計は普通に進む。
そして有限の時間で事象の地平面を越える。
これは矛盾ではない。
相対性理論では、観測者の立場によって時間の見え方が異なるからである。
では、事象の地平面の内側では何が起こるのか。
古典的な一般相対性理論では、内側に入った物体は中心へ向かって進む。そこには「特異点」があるとされる。特異点とは、密度や時空の曲率が無限大になる場所である。
ただし、この「無限大」は慎重に扱わなければならない。
科学において無限大が出てくるとき、それはしばしば「本当に無限大のものがある」というより、「この理論ではこれ以上説明できない」という警告である。ブラックホール中心の特異点も、その可能性が高い。一般相対性理論は重力を非常によく説明するが、極端に小さな領域では量子力学の効果を無視できない。
つまり、特異点は、現代物理学の宿題である。
ブラックホールの外側については、一般相対性理論で非常に正確に説明できる。
事象の地平面付近の光の曲がり、星の運動、重力波、ブラックホール・シャドウなどは、観測によって強く支持されている。
しかし、中心で本当に何が起きているのかは、まだ確定していない。
ここで重要なのは、「事象の地平面」と「特異点」を混同しないことである。
事象の地平面は、ブラックホールの外部から意味を持つ境界である。
そこを越えると、外へ情報が出られなくなる。
一方、特異点は古典理論上、中心に現れる極限的な場所である。
外から観測できるのは、基本的には事象の地平面の外側までである。
特異点そのものを直接見ることはできない。
したがって、ブラックホール研究では、「観測できる境界」と「理論が予言する中心」を分けて考える必要がある。
シュワルツシルト解は、回転していない理想的なブラックホールを表す。
しかし、現実の宇宙にあるブラックホールは、多くの場合、回転していると考えられる。星も銀河もガス雲も、宇宙の天体はたいてい回転している。完全に回転していないブラックホールの方が、むしろ珍しいかもしれない。
それでも、シュワルツシルト解は非常に重要である。
なぜなら、ブラックホールの基本概念を最も単純な形で示しているからである。
事象の地平面。
シュワルツシルト半径。
外から見た時間の遅れ。
中心の特異点。
光の脱出不能。
これらの基本は、シュワルツシルト解によって明確になった。
ここで、もう一つ大切な視点がある。
ブラックホールは、外から見ると非常に単純な天体である。
古典的には、ブラックホールを特徴づける量は、質量、回転、電荷だけだと考えられている。これを「ブラックホールには毛がない」と表現することがある。
毛がない、という言い方はかなり独特である。
普通、天体にはさまざまな個性がある。星なら温度、組成、明るさ、磁場、表面活動などがある。惑星なら大気、海、山、雲、衛星がある。ところがブラックホールは、外から見る限り、落ち込んだ物質が何でできていたかという細かい情報をほとんど見せない。
鉄が落ちても、水素が落ちても、本が落ちても、ゴルフクラブが落ちても、外から見えるブラックホールの基本的性質は質量や回転に集約される。もっとも、ゴルフクラブは落とさない方がよい。買い直すのも大変だし、何より回収不能である。
この単純さは、ブラックホールの魅力でもあり、情報問題という大きな謎にもつながる。
もしブラックホールが、落ち込んだ物質の細かい情報を外へ出さないなら、その情報はどうなるのか。完全に失われるのか。それとも、どこかに保存されるのか。これは後の章で扱う「ブラックホール情報パラドックス」につながる。
つまり、シュワルツシルト解は単なる数学的な解ではない。
それは、現代物理学の大問題への入口でもある。
シュワルツシルト半径の内側に入ると、外へ戻れない。
事象の地平面の内側の出来事は、外部の宇宙へ情報を送れない。
中心には、古典理論では特異点が現れる。
そして、落ち込んだ情報がどうなるのかという問題が残る。
このように、ブラックホールの基本構造を理解すると、ブラックホールが単なる「強い重力の天体」ではないことが見えてくる。
それは、時空の境界であり、因果関係の境界であり、情報の境界である。
私たちの日常では、境界とはたいてい越えられるものだ。県境を越える。国境を越える。海を越える。山を越える。手続きや体力やお金は必要かもしれないが、原理的には越えられる。
しかし、事象の地平面は違う。
内側から外側へは越えられない。
それは、単なる距離の問題ではない。
エネルギーの問題でもない。
時空の構造そのものが、外へ戻る未来を許さないのである。
この一点を理解すると、ブラックホールの見方は大きく変わる。
ブラックホールとは、宇宙に浮かぶ黒い球ではない。
それは、未来の向きが変わってしまう領域である。
そこでは、外へ出ることが「できない」のではなく、外へ出る未来そのものが存在しない。
シュワルツシルト解は、この驚くべき構造を最初に明らかにした。
次章では、ブラックホールの構造をさらに詳しく見る。
事象の地平面だけでなく、光子球、降着円盤、ジェット、ブラックホール・シャドウなど、外から観測できるブラックホール周辺の姿を整理していく。
ブラックホールは見えない。
しかし、その周囲では、光も物質も時空も、普通ではありえない振る舞いを見せる。
見えない本体を、周囲の現象から読み解く。
そこに、ブラックホール研究の面白さがある。
