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第17章 ブラックホール情報パラドックス

ブラックホール研究の中で、最も深く、最も厄介な問題の一つが、情報パラドックスである。

名前だけ聞くと、少し抽象的に感じるかもしれない。
情報とは何か。
パラドックスとは何か。
なぜブラックホールと関係するのか。

しかし、この問題は単なる言葉遊びではない。
一般相対性理論、量子力学、熱力学、時空の本質が正面からぶつかる、現代物理学の中心問題である。

簡単に言えば、問いはこうである。

ブラックホールに落ち込んだ情報は、どうなるのか。

たとえば、一冊の本をブラックホールへ落としたとする。
その本には、文字が書かれている。
紙の配置、インクの分布、分子の状態、原子の位置、電子の量子状態。
細かく見れば、その本には膨大な情報が含まれている。

あるいは、石でもよい。
水でもよい。
星でもよい。
ゴルフクラブでもよい。
もちろん、ゴルフクラブは落とさない方がよい。特に気に入っているウェッジなら、情報パラドックス以前に本人の精神的損失が大きい。

どんな物体にも、それを構成する粒子の状態という意味で情報がある。

その物体がブラックホールに落ち込むと、外からは見えなくなる。
事象の地平面の内側へ入った情報は、外部宇宙へ戻れない。
古典的な一般相対性理論では、外部から見えるブラックホールの性質は、基本的に質量、回転、電荷に集約される。

つまり、本が落ちても、石が落ちても、水が落ちても、外から見えるブラックホールは、少し質量が増え、場合によっては回転や電荷が変わるだけである。
本の内容が何だったのか、紙の分子がどう並んでいたのか、その細かな情報は外からわからなくなる。

ここまでは、まだ理解できる。

問題は、ホーキング放射を考えたときに深刻になる。

前章で見たように、量子論を考慮すると、ブラックホールは完全な黒ではなく、ごくわずかな放射を出すと考えられる。
この放射によって、ブラックホールは少しずつエネルギーを失う。
エネルギーを失えば、質量も減る。
長い時間がたてば、ブラックホールは蒸発する可能性がある。

では、ブラックホールが完全に蒸発したあと、落ち込んだ本の情報はどこへ行くのか。

ここが問題である。

もしホーキング放射が完全に熱的で、落ち込んだ物質の情報をまったく含まないなら、ブラックホールが蒸発したあと、情報は消えてしまう。
最初に何が落ち込んだのかを、最終的な放射から復元できない。

これは、量子力学の基本原理と衝突する。

量子力学では、情報は基本的に失われないと考えられている。
ある状態が時間とともに別の状態へ変化しても、その変化は原理的には逆にたどれる。
難しい言い方をすれば、量子力学の時間発展はユニタリーである。

要するに、完全な情報を持っていれば、過去から未来へ、未来から過去へ、状態の対応をたどれるということである。

もちろん、現実にすべての粒子の状態を測定することはできない。
部屋に落とした一枚のレシートを、空気分子の運動まで含めて完全に追跡することなど不可能である。
しかし、原理としては、情報は消えないとされる。

ところが、ブラックホール蒸発では、情報が本当に消えるように見える。

これが、ブラックホール情報パラドックスである。

この問題の怖さは、どちらを選んでも困るところにある。

情報が本当に消えると考えれば、量子力学の基本原理を修正しなければならない。
一方、情報は消えないと考えれば、ブラックホールや事象の地平面、ホーキング放射の理解を変えなければならない。

どちらにしても、物理学の土台に手を入れることになる。

これは、小さな計算ミスではない。
宇宙の設計図の一部が合わないという話である。

ブラックホール情報パラドックスの出発点には、三つの考え方がある。

第一に、一般相対性理論によれば、事象の地平面の内側から情報は外へ出られない。
第二に、量子論を考慮すると、ブラックホールはホーキング放射を出して蒸発する。
第三に、量子力学では情報は失われないはずである。

この三つを同時に成り立たせようとすると、矛盾が生じる。

どこかを見直さなければならない。

では、どこを見直すのか。

一つ目の可能性は、情報は本当に失われるという考えである。

これは、ホーキング自身が当初強く示した方向である。
ブラックホールに落ちた情報は、最終的に消える。
ホーキング放射は熱的であり、落ち込んだ物質の詳細を運ばない。
ブラックホールが蒸発すれば、情報も失われる。

この考えは、一般相対性理論の古典的な見方とは相性がよい。
事象の地平面の内側から情報は出てこない。
ブラックホールが消えれば、情報も消える。
ある意味では単純である。

しかし、量子力学とは相性が悪い。

情報が本当に消えるなら、量子力学のユニタリー性を捨てるか、少なくとも修正する必要がある。
これは非常に大きな代償である。
量子力学は、原子、分子、半導体、レーザー、MRI、化学結合など、非常に多くの現象を正確に説明してきた。
その根本原理を変えるのは、そう簡単な話ではない。

物理学者にとって、量子力学を壊すのは、家の柱を抜くようなものである。
抜けるかもしれないが、屋根が落ちてこない保証がない。

二つ目の可能性は、情報はホーキング放射に含まれて外へ戻るという考えである。

現在、多くの研究者はこちらの方向を有力視している。
つまり、ブラックホールは最終的に情報を失わない。
落ち込んだ情報は、何らかの形でホーキング放射に刻まれ、非常に複雑な形で外へ戻ってくる。

ただし、ここで問題がある。

ホーキングの初期計算では、放射は完全に熱的に見える。
熱的な放射とは、ブラックホールの温度だけで決まり、何が落ち込んだかの細かな情報を含まない放射である。
もし本当に完全に熱的なら、情報は戻らない。

では、どのようにして情報が放射に含まれるのか。

ここで、ホーキングの計算に含まれていない量子重力効果や、微妙な相関が重要になるのではないかと考えられている。
放射一つ一つを見ても熱的に見えるが、全体としては非常に細かい相関を持ち、その相関の中に情報が含まれる可能性がある。

これは、燃えた紙の灰や煙から元の本を復元するような話に近い。
実際にはほぼ不可能に見える。
しかし、原理的にはすべての粒子の状態に情報が残っているなら、完全には失われていないことになる。

ブラックホールの場合、その復元は人間の技術の問題ではなく、物理法則として可能なのかが問われている。

三つ目の可能性は、情報が事象の地平面に保存されるという考えである。

ブラックホールのエントロピーは、体積ではなく事象の地平面の面積に比例する。
これは、ブラックホールの情報が内部の体積ではなく、境界面に関係していることを示唆する。

この考えは、ホログラフィー原理につながる。

ホログラフィー原理とは、ある空間領域の情報が、その境界面に記述できるのではないかという考えである。
ブラックホールの場合、内部に落ちた情報が、事象の地平面の面積に対応する形で保存されているのではないかと考えられる。

ホログラムは、二次元の面に三次元的な情報を記録する。
それに似て、三次元空間内の情報が二次元の境界面に記述されるかもしれない。
これがホログラフィーという名前の由来である。

もちろん、これは普通の写真やシールの話ではない。
時空と量子情報の根本的な関係についての話である。

もしホログラフィー原理が正しいなら、ブラックホールの内部情報は完全に消えるのではなく、境界に何らかの形で記録され、最終的に放射へ移る可能性がある。

これは非常に深い考えである。

空間の中に情報があると思っていたら、実は境界が情報を持っているかもしれない。
宇宙の情報管理は、かなり意外な方式で行われている可能性がある。
書類を机の中にしまったつもりが、実は表紙に全部書いてあった、というようなものである。
ただし、その表紙は量子重力で書かれているので、簡単には読めない。

四つ目の考え方は、ブラックホール相補性である。

ブラックホール相補性は、外部観測者と落下観測者の記述が、互いに矛盾しないように成り立っているという考えである。

外部観測者から見ると、落ち込んだ情報は事象の地平面付近に保存され、やがてホーキング放射として外へ戻る。
一方、落下者本人から見ると、事象の地平面を普通に通過し、内部へ進む。
この二つの記述は異なるが、一人の観測者が両方を同時に検証することはできない。
したがって、矛盾は起きないという考えである。

これは、相対性理論らしい発想でもある。

観測者によって見え方が違う。
しかし、それぞれの観測者にとって物理法則は整合している。
ブラックホール相補性は、この考えを情報問題に応用したものといえる。

ただし、この考えにも問題がある。
特に、量子もつれとホーキング放射を詳しく考えると、後にファイアウォール問題が出てくる。

ファイアウォールとは、事象の地平面に高エネルギーの壁のようなものが生じ、落下者がそこで焼き尽くされるのではないかという仮説である。

これは、かなり衝撃的である。

一般相対性理論の基本的な考えでは、大きなブラックホールの事象の地平面を通過する落下者は、局所的には特別な壁を感じないはずである。
事象の地平面は物質の表面ではなく、時空上の境界である。
だから、通過する瞬間に何かにぶつかるわけではない。

ところが、情報を保存しようとすると、量子もつれの関係に矛盾が生じ、その矛盾を避けるためには、事象の地平面に激しい高エネルギー状態、つまりファイアウォールが必要になるのではないか、という議論が出た。

もしファイアウォールがあるなら、落下者は地平面を何事もなく通過できない。
これは一般相対性理論の等価原理と衝突する。

またしても、どちらを選んでも困る。

情報を守ると、地平面が普通ではなくなる。
地平面を普通に保つと、情報が危うくなる。
量子もつれを守ると、別の原理が揺らぐ。

ブラックホールは、物理学者に対してかなり意地悪な試験問題を出している。
しかも選択肢が全部難しい。
「全部正しいようで全部まずい」という、試験としては最悪の形式である。

ファイアウォール問題は、情報パラドックスがまだ完全には解決していないことを示している。

別の解決案として、ファズボール仮説がある。

これは弦理論から出てきた考え方の一つで、ブラックホールの内部は古典的な意味で空っぽの領域と中心特異点からなるのではなく、弦やブレーンの複雑な量子状態で満たされた構造になっているという考えである。
つまり、事象の地平面の内側に何もないのではなく、ブラックホール全体が情報を持つ量子構造になっている。

この考えでは、古典的な事象の地平面や内部構造のイメージが修正される。
情報はブラックホールの微視的状態に保存され、完全には失われない。

ただし、ファズボール仮説もまだ完全に確立された結論ではない。
ブラックホール情報問題に対する有力な理論的アプローチの一つである。

さらに近年、情報パラドックスに関して大きな進展をもたらしたのが、ページ曲線、島公式、レプリカワームホールと呼ばれる考え方である。

まず、ページ曲線について説明する。

ブラックホールが蒸発するとき、外へ出ていくホーキング放射のエントロピーはどう変化するのか。
もし情報が失われるなら、放射のエントロピーは増え続ける。
ブラックホールが消えたあとも、放射は混合状態のままで、情報は戻らない。

一方、情報が保存されるなら、放射のエントロピーは途中までは増えるが、ある時点から減り始め、最終的には全体として純粋状態に戻るはずである。
この形をページ曲線という。

つまり、ページ曲線は、情報が戻るならホーキング放射のエントロピーがどのように変化すべきかを示す目安である。

長い間、重力を含む理論からこのページ曲線を導けるかが大きな問題だった。

近年の理論研究では、島公式やレプリカワームホールを使うことで、重力を含む系でもページ曲線が再現されることが示され、大きな注目を集めた。

島とは、ホーキング放射のエントロピーを計算するときに、ブラックホール内部の一部領域も放射側に含めて考える必要があるという考え方である。
これは非常に直感に反する。
外へ出た放射の情報を計算しているはずなのに、ブラックホール内部の領域が計算に関わる。

レプリカワームホールは、その計算に現れる幾何学的構造である。
ワームホールと聞くと、SFの抜け道のように思うかもしれない。
しかしここでのワームホールは、宇宙船が通る通路というより、量子重力の経路積分に現れる数学的構造である。

これらの進展は、情報は失われないという方向を強く支持していると考えられている。

ただし、注意が必要である。

これで情報パラドックスが完全に終わったわけではない。
ページ曲線を再現する理論的仕組みは見えてきたが、ブラックホール内部の具体的な物理、事象の地平面の局所的な性質、情報がどのように放射へ符号化されるのかについては、まだ多くの課題がある。

つまり、近年の進展は非常に大きい。
だが、すべての疑問が解決したわけではない。

ここは正直に言う必要がある。

ブラックホール情報パラドックスは、かなり解決に近づいた部分がある。
特に、情報が保存される方向の理論的支持は強くなっている。
しかし、完全にわかったと言い切るにはまだ早い。

物理学の最前線では、「だいぶ見えてきた」と「完全にわかった」の間に大きな谷がある。
この谷を雑に飛び越えると、だいたい足を滑らせる。
ブラックホール相手に足を滑らせるのは、あまりおすすめしない。

情報パラドックスを理解するうえで、量子もつれも重要である。

量子もつれとは、二つ以上の粒子の状態が、離れていても一つの全体として結びついているように記述される現象である。
ホーキング放射では、外へ逃げる粒子と、ブラックホール内部へ落ちる対応する自由度がもつれていると考えられる。

蒸発の初期には、このもつれによって外部放射のエントロピーが増える。
しかし、情報が保存されるなら、蒸発の後半では新しく出てくる放射が、すでに出た放射と相関を持たなければならない。
ここで、量子もつれの一夫一妻制のような性質が問題になる。

一つの量子系が、二つの別の系と同時に最大限にもつれることはできない。
この性質が、ファイアウォール問題の背景にある。

つまり、情報パラドックスは、単に「情報があるかないか」だけではない。
量子もつれがどのように分配されるのかという、量子情報理論の問題でもある。

このため、近年のブラックホール研究では、量子情報理論の考え方が非常に重要になっている。

エントロピー。
もつれ。
符号化。
量子誤り訂正。
ホログラフィー。
ページ曲線。

これらは、かつての天体物理学の言葉とはかなり違う。
ブラックホール研究は、宇宙を見る望遠鏡の問題であると同時に、情報をどう保存し、どう読み出すかという量子情報の問題にもなっている。

ブラックホールは、天文学者だけのものではない。
相対論研究者、量子情報研究者、弦理論研究者、熱力学研究者、数理物理学者が入り乱れる巨大な研究テーマである。

なかなか混雑している。
宇宙で最も暗い天体の周りに、研究者はかなり明るく集まっている。

ここで、情報パラドックスの主な論点を整理しておこう。

第一に、ブラックホールに落ち込んだ物質には情報がある。
第二に、古典的な一般相対性理論では、その情報は事象の地平面の内側から外へ出られない。
第三に、ホーキング放射によってブラックホールは蒸発する可能性がある。
第四に、ホーキング放射が完全に熱的なら、落ち込んだ情報は失われるように見える。
第五に、情報の消失は量子力学のユニタリー性と矛盾する。
第六に、情報が保存されるなら、放射の中に何らかの形で情報が含まれなければならない。
第七に、ホログラフィー原理は、情報が境界に記述される可能性を示す。
第八に、ブラックホール相補性は、外部観測者と落下者の記述を両立させようとする。
第九に、ファイアウォール問題は、情報保存、等価原理、量子もつれの間に緊張があることを示す。
第十に、ページ曲線、島公式、レプリカワームホールの進展は、情報保存の方向に大きな手がかりを与えている。

では、結局、情報は失われるのか。

現時点での大きな流れとしては、情報は失われないと考える方向が強い。
ブラックホール蒸発は、最終的には量子力学と整合する形で進み、情報はホーキング放射に非常に複雑な形で含まれて戻ると考えられている。

ただし、その仕組みの完全な理解には、量子重力理論が必要である。

情報が消えないとしても、どこにどのように保存され、どのように放射へ移るのか。
落下者の視点と外部観測者の視点はどう両立するのか。
事象の地平面は本当に滑らかな境界なのか。
内部時空はどう記述されるのか。
ホログラフィーは現実の宇宙にどこまで適用できるのか。

これらは、まだ研究中である。

情報パラドックスの面白さは、ブラックホールが単なる天体ではなく、物理法則そのものを試す装置になっているところにある。

ブラックホールに本を落とす。
一見すると、ただ本が消えるだけの話である。
しかし、その本の情報がどうなるかを考えると、量子力学、重力、時空、熱力学、情報理論の根本に触れることになる。

一冊の本が、宇宙の法則を問い直す。
もちろん実験として本を投げ込む必要はない。もったいない。
だが、思考実験としては非常に強力である。

ブラックホール情報パラドックスは、科学における「わからないこと」の質をよく示している。

単にデータが足りないからわからないのではない。
理論同士が、それぞれ非常に成功しているにもかかわらず、組み合わせると矛盾が出る。
このタイプの問題は深い。

一般相対性理論は正しそうである。
量子力学も正しそうである。
熱力学も正しそうである。
しかし、ブラックホールでは、それらを同時に使うと難問が生じる。

つまり、ブラックホールは、現在の理論体系の継ぎ目を見せている。

服でいえば、縫い目である。
普段は見えない。
しかし強く引っ張ると、そこに負荷がかかる。
ブラックホールは、物理学の縫い目を強く引っ張る存在である。

その縫い目が破れるのか。
より強い理論で縫い直されるのか。
そこに量子重力のヒントがある。

この章の結論は、次のようにまとめられる。

ブラックホール情報パラドックスとは、ブラックホールに落ち込んだ情報が、ホーキング放射と蒸発の過程で失われるように見える問題である。
もし情報が失われるなら、量子力学の基本原理が揺らぐ。
もし情報が失われないなら、ブラックホールの地平面、内部、放射の理解を深めなければならない。

現在の理論研究は、情報は失われないという方向へ大きく進んでいる。
ホログラフィー原理、ページ曲線、島公式、レプリカワームホールなどは、その重要な手がかりである。
しかし、完全な理解には、まだ量子重力理論が必要である。

ブラックホールは、物質を飲み込むだけではない。
情報をめぐって、物理学の常識を飲み込み、より深い理論を要求している。

情報は消えるのか。
消えないなら、どこに隠れているのか。
ホーキング放射は、どのように情報を運ぶのか。
事象の地平面は、単なる境界なのか、それとも情報を記録する面なのか。
時空そのものは、情報から生まれるのか。

この問いは、次章の量子重力へつながる。

次章では、ブラックホールと量子重力を扱う。
一般相対性理論は、特異点で限界に達する。
量子力学は、情報の保存を要求する。
この二つを統一する理論は、ブラックホールをどう描くのか。

ブラックホールは、宇宙の暗闇ではない。
それは、まだ完成していない物理学の輪郭を照らし出す、最も鋭い光なのである。

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