「信心」現代に至っての二面性
釋徹信 綴る
・現象としての信心 = 自然法爾、その現象を信心と呼ぶ
・呪いと化した信心 = 条件付け、獲得物としての信心
・現象としての信心
現象としての信心は他力の信心、阿弥陀を聞くことによって生じた心、物事の見方の変容がある。
浄土和讃にありますね。
「解脱の光輪きわもなし 光触かぶるものはみな 有無をはなるとのべたまう 平等覚に帰命せよ」
つまり中観という観方を得ることになる。それは龍樹菩薩の言う様な厳密で明確なフラット感ではない、また完全で常にでも無い、意図せずにそのように思わせられるのである。
当に「自然法爾」である、他力の信心であるといえる。
それは「浄土を心理的フィールドとして開く」という感覚。
コレを中観的に言うなれば、いま自分が囚われている思考を発見した時となります。ならなくていいものや、しなくてもよい事を何故か煩悩のままに行なっている事を見ます。
その時に、フラットな心持ちに完全ではないのですが引き戻されます。
私は車好き(サーキットなどを走るほう)だったのです。今、欲しい車はありませんし、それについて施したいチューニングがあったとしてもしません。
何故ならば、既に趣味ではないし、目的もありませんから。
欲しいと思っても、まだ習気(行為のクセ)があったのだなと省みるだけです。
そういう自分の状況を考えると仮を見ている自分に気付きその時のフラットに戻ります。
・呪いと化した信心
呪いと化した信心は獲得すべき物となった信心であり、そこには条件付けがされる。
「下品下生者にならなければいけない」「自力を尽くしてからの他力」「劇的な変化や感動がないといけない」「本当の苦しみが分からなければ本願には出会えない」
などである。いずれも私の耳に直に入った言葉たちだ。
・「下品下生者にならなければいけない」
悪人にならねばならないということでも聞きますが、大元でしょうね。
どうしてわざわざ自らを貶めて痛めつけようとするのか?
高僧和讃に
「如来清浄本願の 無生の生なりければ 本則三三の品なれど 一二もかわることぞなき」
九品はそれぞれの持つ状況を言っているのであり、その状況にかかわらず必ず阿弥陀は届く、心を至しているのである。
これは私の側から行けば個々人の差がでる、しかし阿弥陀が個々人に影響力を及ぼす点おいてそれは平等になる。そう言う本願の性質を言っている、これが如来回向だ。
何故ならは衆生はもともと真理に背く、背くから輪廻をしているのですから、もともと真理に背く意味での悪人なのです。
だから本願が建てられたのです、あなたに届いている光に目を向けましょう。
・「自力を尽くしてからの他力」
素直になれない、自己のはからいが破れる時は自力が無効になるときだから体験をしないといけない様に思うのでしょうけど。
しかし私たちはいつでもままならないところを生きている、そのような事は身に染みているはずだ。
なぜそこで自力を尽くしてからのというのか?既に思い通りになっていない、思い通りにしようとして苦しみを味わっているはずだ、条件付する理由などないのである。
仏法を聞くことで観方が変化したならば、それは私のはからいではないでしょう。
祖師方は苦悩と行き詰まりを経ての本願に出遭ったということがある。私たちは祖師の苦労をなぞる必要はない。まさか、楽になってはいけないと遠慮でもしているのか?祖師が切り拓いてくれた道を直進しないことこその不敬(遠慮)ではないかな?
後の人が自身と同じ様に苦悩に沈まないように祖師方は既にある道を知らしめ、すぐさまに大乗に本願に出逢ってほしいと思い論を尽くしているのでは無いのか?阿弥陀を聞くことによって生じた変化、物事の観方は自力で起こしたものではなく、賜ったものに他ならないのだ。
その心を曇鸞に聞くと。
曇鸞の指摘、「千歳闇室 一灯破闇」「千歳(1000年)」という長い時間(自力の蓄積や迷いの長さ)が、一瞬の光の前では何の意味も持たないという、「自力を尽くしてからの他力」という条件付けを無効にするものです。これが光に出逢い道を得る破闇満願でしょう。
・「劇的な変化や感動がないといけない」
その様に感動を受ける人もいるでしょう、劇的な変化のある人もあるでしょう。
それを望んではエンタテインメント的な消費となるでしょう。
「私を感動させて!」と言っているのであり、いよいよ我を立てて苦を味っているのです。もしより感動したいと言うならばマウント取りに終始してしまうでしょう。
それでは仏法を仏法として聞けていませんね。
そうではないでしょう平生業成です。
劇的な感動は非日常ですからそれを求めるということは日常(平生)が否定されますから苦しいのです。
感動というモノサシで勲章化するのでしょうか?人と比べるのですか?苦しいのでは無いかな?そもそもはかれる様なものでも無いのです。
そして変化というのは法を聞いたことによって今まで見えていなかった事が見える、考えた事もなかったことを考えた。その現象に尽きるのである。ただ聞くこれだけです。
・「本当の苦しみが分からなければ本願には出会えない」
本当の苦しみとは何でしょうか?人は常々何らかの悩みを抱え苦しみの中にいるのです。それをレベル分けでもするのでしょうか?
当に権威化です、それも卑下慢です。
「あなたは解らない、体験していないのだから私の主張を聞くしかないよね」と言う様なものです。
「お前の苦しみなんて、まだ浅い。付け加えた苦悩だ」
「本当に地獄を見た人間でなければ、この教えの深さは分からない」
より強い悲劇が優れているようなのです。
特に定義されにくい感情的な言葉たち、例えば「いのち」という文脈でのマウント取りがあるのではないでしょうか?
体験や知識をマウントの材料として他者より勝るのです。
悲しい事です、それこそが本願を貶めるどころか、むしろいのちを貶めるために本願を使っているかのようです。
そこには問いを抱くに至ったその人の背景が軽んじられ、正当な考えとして押し付けられているように思います。
それが平等なのかな?履き違えです。
私に届いているものは何でしょうか?
・なぜ呪い化したのか?
これは蓮如上人のいう「信心決定せよ」とか「信心獲得」を間違った方向性で運用したからであろう。
蓮如上人が言った意味は「聞きそびれるな」、そして「埋没するな」という意図があるとみている。その時の社会情勢は戦国の世、いのちが何時まであるかもわからない、無常感の色濃い時代であったのだ。そこにある意味有効なキャッチコピーとして言ったのだと。つまり蓮如上人が「信心」を強く言うのは方便であると考えるのだ。
しかし後の時代では「信心」という言葉によって布教者を権威化した事が想像される。
人は権威の言葉を信じるというのはよく見られる心理現象です。現代的に言えばメディアや当に権威のある人の意見です。
脳が楽なのです、自分で考えなくてもよいという事です。
そして人は不安がって「私に信心はありますか?」などと聞くような状態を作り出してしまったのだ。
誰があなたには信心がありますと太鼓判を押すのだろうか?
不安を煽って、難解な教学を宣布し、頷けば信心を獲得した、というのだ。
いわゆるマッチポンプ(自作自演)である。これは現代的に言ってもよくある商売の構造である。
・「信心」への執着
「信心」という言葉に執着させられているのではないか?と思います。
信心を得たとか得てないとかなんてどうでもいいでしょう?私には信心などどうでもいい事です。
もともと持っているものでも無いし、それは如来によって起こる心の現象なのですから、私という我が入る余地など始めからありません。
現に体験していることや、仏法によって見えてきたものや見方が変わったならそれを出逢っていると言えるですから。
そこに劇的な何かを求めるようになってしまっているのは何故かな?
それらは教学の問題ではない。
あくまで誤った教学解釈によってスクリュープロシティー(宗教的な罪悪感、強迫観念)のような精神病を引き起しています。誤解による行き詰まり感を蔓延させているのではないかな。
病巣が植わってしまっていると考えます。
コレね、ちゃんとやらないと死人が出ますよ。
*資料
・有無見、有無の邪見、両極端なものの見方
主にアートマン(自我)について言われる。
自我は永遠不変であるという常見と死んだらすべて終わりで何も残らないという断見をいう。
仏教ではこの両極端を執着とし、「生も死も永遠でも断絶でもない」という「不断不常」と見る中道を説いた。
つまり、諸行無常ゆえに必ず変化をする。ゆえに諸法無我、固定的な実態はなくただ縁(関係性)によって現象が起こることをいう。
龍樹に至ってはこれを中道といい中観を建てた、空観(実態は無く関係性のみがある)と仮観(その現象を自分の解釈で観る)によって生活の中で何らかの意味を見出している事をいう。
中観とは空観・仮観のバランスをとって「現実でありながら幻」を生きていると観る。
バランスをとるとは、「空」だとこれが真実だと居座るでもなく、いま現前にある事を自分の解釈に過ぎない「仮」と観ることでその観方を自在に変化させる視座。
・八不中道
不生・不滅 : 生じることも滅することも固定的にない。
不常・不断 : 永遠不変でもなく、完全に途切れるものでもない。
不一・不異 : 他のものと同一でもなく、全く別のものでもない。
不来・不出 : 来ることも去ることもない(固定した場所や実体がない)。
中道 : 両極端からの離脱、快楽主義と苦行主義、有と無、断(消滅)と常(永遠)といった対立する二つの極端な立場に偏らない、バランスの取れた状態や実践。
・聖典(大谷派)p549-550 唯信鈔文意
「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという。すなわち往生すというは、不退転に住するをいう。不退転に住すというは、すなわち正定聚のくらいにさだまるとのたまう御のりなり。これを「即得往生」とはもうすなり。
・聖典(大谷派)p586 御消息集(善性本)
信心というは、智なり、この智は他力の光明に摂取せられまいらせぬるゆえに、うるところの智なり、仏の光明も智なり、かるがゆえに、おなじというなり。おなじというは、信心をひとしというなり。
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