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朝聞いた栗の話が、帰り道の栗につながった

今朝、バスを待っていたら、後から来た知らない女性が声をかけてきました。

「栗を拾ったのよ」と、うれしそうに見せてくれたのです。

栗を調理したことがない私には、正直あまりピンとこなかったのですが、その人はバスが来るまでずっと、栗の話や、年金が少なくて大変な話なんかを楽しそうにしていました。

それだけなら、ただの「バス停での何気ないひとコマ」のはずでした。

でも、帰り道に駅を降りたら、お店が出ていて。

なぜか、そこで栗を売っていたのです。

いつもだったら、駅前でそういうものを見ることすらしないと思います。でも、その日はたまたまぐるっと見てしまって、「あ、朝見せてもらったのと同じような栗だ」と気づきました。

そして、つい、買ってみました。

朝にたまたま聞いた話が、なんとなく心に残っていた。 帰り道で、その栗を見つけた。 「あ、朝の栗だ」と気づいた。 ちょっとおもしろくなって、買ってみた。

もし朝の出来事がなかったら、その栗を見ても「栗、売ってるな」で終わっていたと思います。同じ栗がそこにあっても、拾える状態になっていたから、拾えた。そんな感じがします。

しかも、話はこれで終わりません。

家に帰ってから、栗を調理したことがないくせに、調理法を検索している自分がいました(笑)。「拾ったら、その先が始まった」という感じです。

今回よかったのは、「運を拾うぞ!」と意識していたわけじゃなかったこと。

知らない人から、ふと栗の話を聞いた。 その話が、なんとなく残っていた。 帰り道、いつもなら見ないところを、たまたま見た。 「栗がある」と気づいた。 買ってみた。 調理法まで調べた。

この「なんとなく」の連鎖が、自分でもおもしろいなと思います。栗を探していたわけじゃないのに、栗が目に入った。脳が栗を引き寄せたわけではなく、朝に栗という情報が入っていたから、帰り道でそれを「栗として認識できた」だけなのだと思います。

そして、認識して終わらずに、「せっかくだから買ってみよう」と、自分で一歩動いてみた。

これが、私にとっての「運を拾う」の、すごく日常的な例なのかもしれません。

栗を見せてくれたおばさんは、まったく知らない人です。次に会っても、たぶん気づかないと思います。私の人生にずっと関わる人でもありません。

でも、その人が何気なく話してくれた栗のことが、その日一日の中に、ちゃんと残っていました。

朝、たまたま会った人から栗の話を聞いた。 帰り道、たまたま栗が目に入った。 そして私は、たまたま買って帰った。 家に帰って、栗の調理方法まで検索している(笑)。

何か特別なことをしたわけではありません。

ただ、朝に聞いた栗の話が、なんとなく心に残っていた。だから、帰り道で栗に気づいた。

もしかしたら「運を拾う」って、こういうことなのかもしれません。

何かがやってくるのを待つのではなく、目の前に来た小さなものに気づいて、「ちょっと拾ってみようかな」と動いてみる。

今日の私は、栗をひと袋、拾ってきました。🌰

さて、どうやって食べようかな。

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