〔仮題〕大阪 都市 概論③
最近、余裕がない日々が続き、せっかくスタートしたこのシリーズをなかなか進められずにいます。
このシリーズを楽しみにお読みいただいている方がおられましたら、本当に申し訳ありません。
今日は、少し趣向を変えて、観光・集客都市としての大阪について、ご説明したいと思います。
大阪は、前回、触れたように、昭和の初め頃まで、人口規模でも、産業面でも、日本一の都市であり、大阪市は“大大阪”と呼ばれていた。
大阪市の人口は1940年に約325万人に達していたが、太平洋戦争直後の1945年に約110万人にまで激減した。
戦後、大阪市の人口は再び増加に転じ、そのピークは1965年頃で約315万人まで戻っている。(現在は280万人余り。)
大阪市は、つまり、これだけ多くの市民が暮らせるだけの、言い方を変えると、“食べられる”だけの稼ぎを生み出せる都市でなければならなかったし、実際、生み出していた。
そして、それだけ、労働の場が集積していたため、市域外から、多くの人々が、昼間を中心に、大阪市内に流入する。
その傾向は今でも変わらない。
夜間人口に対する昼間人口の比率(昼夜間人口比率)を見れば、それは明らかだ。
この数年間の統計データによると、夜間人口では横浜市が大阪市を上回っているが、昼夜間人口比率を見ると、大阪市は東京都区部と並んで、約130弱に達するが、横浜市は90余りと100を割り込んでいる。
これは、横浜市は東京都区部等のベッドタウンの色合いが濃く、大阪市は産業の一大集積地であることを示している。
それだけ多くの人々の生活を支えてきた大阪市の主要産業は、時代とともに、変遷してきた。
江戸時代に“天下の台所”と呼ばれ、全国各地から物資が集まり、中之島には蔵屋敷が建ち並び、堂島には米相場が置かれたことは、これまでに述べたとおりだ。
さらに、大阪市は薬のまちでもある。
大阪都心部の道修町には、江戸時代から薬関連の企業が高度に集積してきた。
塩野義製薬や田辺三菱製薬、住友ファーマ、武田薬品工業、小野薬品工業など、わが国を代表する製薬メーカーがこの地から育ち、今も大手製薬メーカーの本社等、300超の製薬メーカーが集積している。
明治から大正、さらに昭和の初期は紡績業(繊維産業)が主たる産業であり、この頃、“東洋のマンチェスター”とも呼ばれていた。
さらに、大正頃から重厚長大産業も発達した。
戦後から高度経済成長期に掛けては、松下幸之助氏が創業した現パナソニックを始め、シャープ、三洋電機、象印マホービンなど、世界に冠たる家電メーカーが集積し、化学産業や金属工業も発達した。
現在も化学・金属製品の製造は全国トップクラスに君臨しているが、産業の主体は卸売・小売業、さらにはサービス業へとシフトしつつある。
このように、時代、時代で、そのニーズに応じて、産業構造を変遷させ、大阪市は、大阪の人々の生活を支え、国の成長と発展に貢献してきた。
しかしながら、残念ながら、大阪の産業、さらには人口規模等は、この数十年、わが国の大都市の中でも地盤沈下が進んでしまった。
バブル期から、バブルが弾ける頃に掛けては、
「東京に追い付け、追い越せ!」
「わが国は東京と大阪を中心とする複眼的構造だ。」
など、大阪人には
“東京、何するものぞ”
“大阪は東京のライバルだ”
という気概が、間違いなく、あった。
しかし、今となっては、最早、そのような声を耳にすることはなくなってしまった。
大阪人自身が、大阪は地方都市だというマインドに陥ってしまっている。
大阪は、かつて、財閥を始めとする民間人がまちづくりに主体的に私財を投じてきた。
中之島の中央公会堂や淀屋橋等、大阪商人らが、気概を持って、まちづくりに取り組んだ。
大阪が“商人の町”と呼ばれた所以だ。
一方、東京は首都建設と称して、まちづくりに多額の国費が投じられた。
政治や中央官庁が集積するので、情報を求め、許認可等の相談や協議等の利便性を求め、企業の本社機能が東京に集まった。
働き、稼ぐ場が豊富にある東京に、地方から、どんどんと人口が流入した。
つまりは購買層が多く住むようになったので、魅力的な大規模商業施設、さらには、大規模エンタメ施設も蓄積していった。
都市の魅力がどんどん高まり、ますます、東京に行きたい、暮らしたいという人々が増えた。
企業が集まり、人々も集まり、東京都等の税収も著しく豊富になった。
それを原資として、東京都等の行政は、インフラの整備や様々な課題に対応する施策を実施することが可能になった。
魅力的なまちである上、暮らしやすくもなると、ますます、人口が流入する。
こんな循環が生まれ、何十年にも亘り、東京一極集中が進んできた訳だ。
これでは、大阪に勝ち目はない。
そんな中、コロナ禍前から、日本には多くのインバウンドが来訪し、大阪にも顕著にインバウンドが訪れた。
大阪では、それ以前から、都市魅力創造戦略を掲げ、取り組んでいたが、それがインバウンドの著しい増加とともに、成果に繋がったともいえる。
今や、大阪の一大観光拠点といえば、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン、かつてはUSJと呼ばれ、近年はユニバと呼ばれているが、この映画のテーマパークが真っ先に思い浮かぶのではないだろうか?
今では純然たる民間企業であるユニバだが、元はといえば、大阪市が誘致し、周辺整備等にも取り組み、一大出資者として深く関わっていた。
誘致に当たり、大阪市は米国ユニバーサルスタジオの人達を大阪へ招き、様々な候補地を案内したらしい。
例えば、現在の京セラドーム大阪の場所も案内したようだが、ここは狭いと却下されたらしい。
それではと、堺の臨海部等も案内したらしいが、集客圏域の人口が少なすぎると、やはり却下。
当初、想定していた候補地は、どこも、米国ユニバーサルスタジオ側の眼鏡に適わず、いよいよ迎えた最終日。
最後の最後に、何とかここだけでも見て欲しいと案内したのが、此花区の臨海部、工場が集積したものの、工場の撤退等により50ha余りの土地があり、大阪都心部からもJR桜島線で20分もあればアクセスできる、現在のユニバの土地なのである。
ようやく、米国ユニバーサルスタジオの皆さんも、ここならばと納得し、最終日のギリギリのタイミングで、ようやく、ユニバの誘致話が前進し始めたのである。
今のユニバの活況を見れば、この誘致が成功したことは大阪の活性化にとても大きな効果をもたらしたし、政令指定都市にして、西日本一の都市、関西の母都市、関西の成長エンジンを自負していた大阪市の気概と実行力、先見の明に感心するばかりである。
大阪市は天保山周辺の開発に併せ、全国でも有数の水族館“海遊館”の設置なども出掛けている。
大阪府については、大阪、さらには関西の成長と発展の起爆剤となるような、このような話を、残念ながら、聞いたことがない。
都構想が実現すると、大阪市がなくなってしまうのであるが、本当にそれで良いのかと、大阪で生まれ、育ち、暮らしてきた身としては、心配になってしまう。
海外では戦争沙汰の出来事が勃発し、ただでさえ円が安く、物価高で、厳しい経済環境の中、エネルギーの価格高騰も重なることは容易に想像され、大阪の成長と発展のため、観光集客への期待感はより高いものがある。
そんな中、僕が、ずっと、もったいないと思っていることがある。
それは、大阪・京都・神戸・奈良・和歌山など、それぞれに特徴的で魅力に富んだ関西の諸都市が、win-winとなるように、しっかり、連携・協力できていないことである。
もし、それができていれば、来日したインバウンドの方々は関西だけで日本を楽しむことができ、平たく言えば、関西にしっかりお金が落ちるのだが、どの都市も利他という考えが持てないままのように見受けられる。
大阪から京都も、神戸も、特急料金を必要としない電車で30分余りで往来できるし、奈良も、和歌山も、1時間もあれば、往来できる。
コンパクトな範囲内に、エンタメも、物販も、食も、日本の歴史や文化も、日本らしさに富んだ自然も満喫できるのだ。
せっかく、関西広域連合などは設置できているのだし、ぜひ、各都市の首長や行政は、広い視野で、如何に共存共栄を図っていくかを考えて欲しいものである。
今回は、働く場、稼ぐ場としての都市という視点で大阪を、歴史的な視点も入れながら、見てきました。
読んでくださった方にとって、少しでも、気付きや学びがあれば、とてもうれしく思います。
今後も、本シリーズについては、続けていきますので、よろしければ、お付き合いいただけましたら幸いです。
最後まで、お読みいただき、ありがとうございました。
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