「伴走支援」という言葉への違和感 そこに愛はありますか
私は前職において、販売代理店様の営業支援を担う立場にありました。
会社から私に課せられていた役割は、販売代理店様を通じて売上を上げることです。
ここでいう売上とは、単に数字を積み上げることではありません。
販売代理店様が予算を達成すること、私自身が会社から求められている目標を達成すること、そして最終的に会社全体の売上を達成すること。これらはすべて一本の線でつながっていました。
つまり、
販売代理店様・私自身・会社の三者は、一蓮托生の関係にあったのです。
極端な話ではありますが、販売代理店様の成功は私の成功であり、販売代理店様の失敗は私の失敗でもありました。
拠点での評価、私自身の給与、さらには会社や株主からの評価までもが連動しており、責任の所在は常に明確でした。
だからこそ、必死に働きました。
ハードワークだったと思いますし、決して楽な仕事ではありませんでした。しかし、代理店様と共に考え、共に汗を流し、時には共に悩み、時には共に喜ぶ──そんな「共同体験」が確かにありました。
私はその時間の中で、単なる「支援」や「サポート」という言葉では表しきれない、共に育ち、共に責任を背負う感覚を得ていたのだと思います。この経験は、今でも私の大きな財産です。
ところが、起業に際して、大きな違和感を覚える経験をしました。
それは、私と同じようなスタンスで仕事に臨もうとする方と、ほとんど出会うことがなかったという点です。
もちろん、代表者である以上、自社に対する最終責任はすべて私にあります。それ自体は当然のことです。
しかし、私が感じたのは、責任の向きが一方向にのみ流れているような構造でした。
私が成功した時に、その成功に対して「自分も一端を担っている」という感覚を、取引先の方が持つことはあるでしょう。
一方で、何か問題が起きたときの責任は、すべて代表者である私に集約されます。
実は、これを強く実感する出来事がありました。
ある事業において、外部から関与していた方の判断やミスリードによって、結果として事業融資がうまく進まなかったことがあります。しかし、その結果責任は最終的に私に帰属しました。
その支援者は、お役所から「無料派遣」という形で関与していた方でした。
私は事実関係を整理したうえで、お役所側にも正式に申し入れを行いましたが、返ってきたのは「お詫びの言葉」のみであり、「責任を取ることはできない」という回答でした。
理屈としては理解できます。
しかし、ミスリードによる責任だけが一方的に代表者へ集約されるこの構造に、私は強い違和感を覚えました。
近年、「伴走支援」という言葉を耳にする機会が増えています。
けれども私が引っかかるのは、この言葉が責任の所在を曖昧にしたまま、「寄り添っている」ように見せてしまう危うさを含んでいる点です。
本当の意味での伴走とは、何なのでしょうか。
成果だけでなく、失敗や痛みも含めて、どこまでを「自分ごと」として引き受ける覚悟があるのか。その問いから逃げないことこそが、伴走の本質なのではないかと、私は考えています。
私は今も、その答えを探し続けています。
次回は、「責任を引き受ける支援者とは何者か」について、お話をさせていただきます。
本日はご覧いただき、有難うございました。
