第6話 君が振り向いたから、逃げた
東京に来て、二年が、過ぎた。
最初の頃は、何もかも、初めてだった。 電車の乗り方も、店の多さも、人の歩く速さも。 慣れるのに、しばらく、かかった。 でも、二年も経つと、たいていのことは、ふつうに、なった。 朝、決まった電車に、乗る。 大学に行って、講義を、受ける。 夕方からは、駅前の店で、バイトをする。 終わると、友人と、少しだけ、飲んで、部屋に、帰る。 そういう生活に、僕は、ちゃんと、慣れていた。
東京の雨にも、慣れた。 降っても、すぐに、やんだ。 やめば、流れて、消えた。 どこにも、積もらなかった。 雪の街とは、やっぱり、違った。 雪は、積もって、残った。 東京には、僕の足あとを、残すものが、なかった。 それが、楽だった。 誰も、僕が、どこから来たか、知らない。 誰も、僕が、誰に、何を、したか、知らない。 東京は、そういう街だった。 僕は、その、知られないことに、ずいぶん、助けられていた。 新しい場所でなら、僕は、まだ、悪くない人で、いられた。
千春のことを、思い出さない日も、増えていた。 忘れたわけでは、なかった。 ただ、思い出す回数が、少しずつ、減っていた。 時間というのは、そういうものなのだと、思った。 傷も、たぶん、薄くなってきていた。 そう、思っていた。 正確には、薄くなった、ということに、したかった。 薄くなれば、僕の、したことも、薄くなる気が、した。 傷が薄れることを、僕は、千春のためではなく、自分の許しのために、願っていた。
その間に、人と、付き合うことも、あった。 何人か、いた。 いい人たちだった。 こちらを、大事にしてくれた人も、いた。 それでも、長くは、続かなかった。 理由を、相手のせいには、できなかった。 誰かの隣にいても、僕は、その隣に、別の人の輪郭を、探していた。 探している、という自覚は、薄かった。 ただ、いつも、何かが、足りなかった。 足りない場所の、形だけは、はっきりしていた。 その形を、僕は、見ないように、していた。
その夜は、バイトのあと、友人と、飯を、食っていた。 安い定食屋だった。 テレビが、つけっぱなしに、なっていた。 内容は、誰も、見ていなかった。 地元から、出てきた友人だった。 高校が、同じだった。 だから、たまに、地元の話に、なった。 その日も、そうだった。 誰それが、就職した。 あの店が、なくなったらしい。 商店街の、シャッターが、また、増えたらしい。 そういう、なんでもない話を、流していた。
「そういえばさ」
友人が、何でもない声で、言った。 箸を、動かしながら、こちらも、見ずに。
「千春ちゃん、覚えてる?」
箸が、止まった。 自分でも、わからないうちに、止まっていた。 部屋の音が、少し、遠く、なった。 テレビの音も、店の音も、急に、薄く、なった。
「……覚えてるけど」
僕は、できるだけ、ふつうに、答えた。 ふつうに、答えた、つもりだった。 声が、ちゃんと、ふつうだったかは、わからない。
「千春ちゃんも、東京の大学、行ったらしいよ」
友人は、それだけ、言って、また、定食に、戻った。 たいした話では、なかった。 友人にとっては、本当に、ついでの話だった。 誰それが、就職した、と、同じ高さの、話だった。 僕にとっては、違った。 東京の大学。 それは、広い言葉だった。 東京には、大学が、いくつも、ある。 人も、多すぎるほど、いる。 すれ違う確率なんて、ほとんど、ないに、等しい。 そう、自分に、言い聞かせた。 言い聞かせている時点で、もう、ふつうでは、なかった。
「どこの大学か、知ってる?」
聞いて、しまった。 聞くつもりは、なかった。 ふつうなら、聞かない。 ついでの話に、それ以上、踏み込まない。
「さあ。そこまでは、知らないけど」
友人は、興味なさそうに、言った。 それで、その話は、終わった。 友人の中では、終わった。 僕の中では、終わらなかった。
部屋に、帰っても、その一言が、消えなかった。 千春が、東京に、いる。 ただ、それだけのことだった。 それだけのことが、二年かけて、薄くしたはずのものを、簡単に、また、濃くした。 二年は、何だったのか、と、思った。 二年かけて、僕は、忘れたのでは、なく、ただ、ふたを、しただけだった。 ふたは、一言で、めくれた。
明かりを、消して、横になった。 天井を、見ていた。 東京の天井だった。 雪の街の、あの部屋の天井とは、違った。 それなのに、思い出すのは、あの街のことばかりだった。 商店街の、低い天井。 古い喫茶店の、窓際の席。 両手で、包むように持っていた、手。 振り返らなくなった、背中。 ぜんぶ、終わったことだった。 終わったことの、はずだった。 なのに、僕は、考えていた。
千春は、どうして、東京の大学を、選んだのだろう。
地元にも、大学は、あった。 わざわざ、東京に出る理由は、なくても、よかったはずだ。 それなのに、東京を、選んだ。 ここで、ふつうの人間なら、こう思う。 千春にも、千春の人生が、ある。 東京を選んだのは、千春自身の理由だ。 自分とは、関係ない。 でも、僕が、思ったのは、そうでは、なかった。
もしかしたら。 もしかしたら、千春は、僕が、いるから、東京を、選んだのではないか。
その考えが、浮かんだ瞬間、自分でも、いやな感じが、した。 そんなわけは、ない。 あんなに、寂しい思いを、させて、最後は、振り返られも、しなかった。 追いかけてくる理由なんて、千春には、ひとつも、ない。 わかっていた。 頭では、ちゃんと、わかっていた。 それでも、その「もしかしたら」を、僕は、完全には、消せなかった。 消したくなかった、のかもしれない。 千春の中に、まだ、僕が、残っている。 そう思えることが、正直、いやでは、なかった。 それが、どれだけ、みっともない望みなのか。 その夜の僕は、まだ、半分しか、わかっていなかった。 半分は、わかっていた。 半分は、わかっていて、それでも、その望みを、抱いたまま、眠った。
それから、僕は、その駅へ、行った。
行く理由は、本当は、なかった。 連休が、明けたばかりの頃だった。 五月の、少し湿った空気。 雨は、降っていなかったが、降りそうな匂いだけ、ずっと、していた。 千春が、その駅の近くの大学らしい。 そう、聞いたわけでは、なかった。 誰も、そこまでは、教えてくれなかった。 ただ、いくつかの、なんでもない話の断片を、僕が、勝手に、つなぎ合わせた。 つなぎ合わせて、たぶん、このあたりだろう、と、当たりを、つけた。 そんなことを、する必要は、どこにも、なかった。 それでも、僕は、その駅へ、行った。
用事が、あるふりを、自分に、した。 近くに、行きたい店が、あった気がする。 そういうことに、しておいた。 本当は、店の名前も、決めていなかった。 探しに行ったのでは、ない、と、僕は、思っていた。 ただ、通りかかった、だけ。 たまたま、その駅に、いた、だけ。 そう思えるように、わざと、目的を、ぼかしておいた。 そういうやり方を、僕は、いつからか、覚えていた。 探していないことに、すれば、見つけても、偶然になる。 偶然なら、自分のせいには、ならない。 五月の連休の頃に、千春に、会った。 あの、最初の夏も、五月だった。 僕は、その五月を、もう一度、なぞろうとして、いた。 なぞって、どうするつもりも、なかったのに。
駅前は、人が、多かった。 夕方だった。 帰る人と、これから出る人が、混ざっていた。 誰もが、自分の行き先を、持って、急いでいた。 その中に、千春が、いた。 すぐに、わかった。 人混みの中で、顔が、見えたわけでは、ない。 ただ、立ち方で、わかった。 急いでいる人たちの中で、その人だけが、少しだけ、ゆっくりだった。 昔と、同じだった。 ミルクティーを、両手で持って、急がずに、歩いていた、あの頃と。
千春は、淡い色の上着を、着ていた。 高校のときとは、少し、違った。 髪も、服も、雰囲気も。 大人になっていた、というほどでは、ない。 ただ、もう、高校生では、なかった。 頬に、薄く、色が、のっていた。 化粧をしているのだと、すぐには、わからないくらいの、薄さだった。 そういう、ちょうどいい薄さを、選べる人に、千春は、なっていた。 僕の知らない時間が、千春にも、流れていた。 当たり前のことだった。 その当たり前が、なぜか、少し、こたえた。 僕は、千春の時間が、止まっていることを、どこかで、望んでいた。 最低な望みだった。
僕は、足を、止めた。 人の流れの中で、そこだけ、止まっていた。 誰かが、肩に、ぶつかった。 それも、よく、わからなかった。 このまま、何もしなければ、千春は、僕に、気づかない。 人は、多かった。 千春は、こちらを、見ていなかった。 すれ違って、それで、終わる。 何も、起きずに、終わる。 そのほうが、いい。 頭の、冷たいところは、そう、言っていた。 それなのに、僕の口は、勝手に、動いた。
「千春」
声は、思ったより、小さかった。 人混みの中で、消えても、おかしくない、大きさだった。 それでも、届いた。 千春が、振り向いた。
その一瞬を、僕は、たぶん、一生、覚えている。
千春は、僕を、見た。 僕も、千春が、僕を見たことを、わかった。 目が、合った。 すれ違いの、あいまいなものでは、なかった。 お互いが、はっきりと、相手を、認識していた。 千春は、僕が、誰か、わかっていた。 僕は、千春が、それを、わかったことを、わかっていた。 そこに、嘘は、なかった。 ほんの、数秒だった。 何も、話していない。 名前を、呼んだだけだ。 千春は、まだ、何も、言っていない。 それなのに、その数秒で、ぜんぶ、伝わってしまった気が、した。
千春が、口を、開きかけた。 何か、言おうとしていた。 怒っているふうでは、なかった。 泣きそうでも、なかった。 ただ、何かを、言おうとしていた。 たぶん、また、僕を、責めない言葉だった。 そういう人だった。 こんなときでも、たぶん、こちらを、気づかう言葉を、選ぼうとしていた。
僕は、その続きを、聞かなかった。
僕は、逃げた。
走った、わけでは、ない。 ただ、目を、そらして、人混みの中へ、体を、入れた。 千春の、見えないほうへ、まぎれて、いった。 聞こえないふりを、した。 気づかなかったふりを、した。 人が、多いから、しかたない、というふりを、した。 そういうふりを、いくつも、重ねて、僕は、その場から、離れた。
なぜ、逃げたのか。 歩きながら、自分に、聞いた。 答えは、すぐに、出た。 出てしまったことが、いやだった。
千春が、もう、平気なら。 あのことを、とっくに、乗り越えていて、ふつうに、笑えるなら。 そのとき、僕は、千春にとって、ただの、過去になる。 もう、何でもない人に、なる。 それは、いやだった。 千春が、まだ、平気でないなら。 あの寂しさを、まだ、どこかに、残しているなら。 そのとき、僕は、それを、させた人間だと、はっきり、する。 加害者に、なる。 それも、いやだった。 どちらでも、僕は、いやだった。 過去になるのも、加害者になるのも、どちらにも、耐えられなかった。 だから、聞かなかった。 聞かなければ、どちらにも、ならずに、済む。 千春の口から、答えが、出る前に、僕は、逃げた。
それは、千春のためでは、なかった。 ぜんぶ、自分のためだった。 自分が、どちらの自分にも、なりたくなかった。 ただ、それだけだった。 千春は、振り向いて、くれた。 僕が、振り向かせた。 そして、振り向いた千春から、僕は、逃げた。 その順番だけは、どう言い換えても、変わらなかった。
駅から、だいぶ離れたところで、立ち止まった。 息は、切れていなかった。 走ってなど、いないからだ。 逃げたのに、走ってすら、いなかった。 そのことが、いちばん、こたえた。 本気で、逃げたのでも、なかった。 ただ、向き合わない、ということだけを、選んだ。 それを、何年も、繰り返すことに、なるとは、その時は、まだ、思っていなかった。 空を、見た。 まだ、雨は、降っていなかった。 降りそうな匂いだけ、ずっと、していた。 東京の雨は、降れば、すぐに、流れて、消える。 それなのに、その匂いだけは、長く、消えなかった。

僕は、逃げた。 それを、僕は、認める。 このときばかりは、言い訳を、しなかった。 できなかった。 できなかったのに、僕は、その日のことも、結局、なかったことに、しようとした。 家に帰って、いつもどおり、眠った。 いつもどおり、眠れたわけでは、なかった。
あとがき ―― 第6話によせて
後半の入り口です。前半と、空気を、変えました。
東京の二年間を、わざと、平坦に書きました。慣れた生活、薄れた傷、忘れたつもり。そこへ、友人の「千春ちゃん、覚えてる?」が、何でもない声で、落ちてくる。箸が止まり、部屋の音が遠くなる。治りかけていたものが、たった一言で、また濃くなる――その落差を、いちばん効かせたい場面でした。政人にとって、二年は、忘れた時間ではなく、ふたをしていた時間だった。ふたは薄く、一言でめくれる。そう書きました。
この章の、いちばん醜いところは、「千春は、僕がいるから東京を選んだのではないか」という期待です。地の文で激しく罵りはしません(設定どおり、静かに腐る範囲を守ります)。ただ、「消したくなかったのかもしれない」「いやではなかった」という鈍い肯定で、その醜さを、読者の前に、置きました。
千春は、ここでは、大人びた姿で、登場します。淡い色の上着、薄い化粧。けれど、本質は、変わっていません。人混みの中で、ひとりだけ、急がずに歩いている。ミルクティーを両手で持っていた、あの頃と、同じです。そして、再会の数秒で口を開きかけたとき、彼女が言おうとしたのは、たぶん、また「政人を責めない言葉」だった――そう書くことで、千春の全肯定の優しさを、最後まで、保ちました。
逃走の理由は、二択の卑怯さに、集約しました。平気なら自分は過去になる。平気でないなら自分は加害者になる。どちらにも耐えられないから、聞かない。そして最後に、「千春のためではなく、ぜんぶ自分のためだった」と落とす。走ってすらいなかった、という一行で、彼の逃げが、本気の逃走ですらない、ただの「向き合わない」だったことを、刻みました。
次は、最終章です。現在の三十二歳へ戻ります。ミルクティーが、可愛さの記憶から、無理解の証拠へと、反転します。そして政人は、検索窓を、最後にもう一度、開いて――閉じます。救いは、置きません。彼は、立ち直らないまま、明日も、生活していきます。
