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「なんかわからないけど、面白かった」でいいじゃないか

最近、いろんなエンタメを見ていると、やたらと「説明」を求められることが増えたように思う。

「これはどういう意味ですか?」

「元ネタがわかりません」

「なぜこれが面白いのか説明してください」

もちろん、「誰にでもわかるお笑い」が悪いとはまったく思わない。

むしろ、誰が見てもすぐに意味が伝わって、老若男女が一緒に笑えるお笑いは、とても優れたものだと思う。

テレビのお笑いなんて、そういう「共有できる面白さ」が大きな魅力だったりする。

ただ、それとは別に、

「誰にでもわからなくてもいいお笑い」があってもいい。

私はそう思う。

そして、もうひとつ。

そもそも、面白さをいちいち説明させること自体が、野暮なんじゃないか。

と思うこともある。

以前、私は「お笑いの蛸壺化」について書いた。

同じ芸人が好き。

同じライブを観ている。

同じネット文化に触れている。

そういう人たちの間でしか通じない「共通認識」だけで笑いが成立してしまうと、そこにいない人には何が面白いのかわからない。

私は、そういう閉じた笑いが増えていくことには、今でも少し危惧している。

でも、ここは区別しておきたい。

「知識が必要な笑い」と「仲間内でしか通じない笑い」は、同じではない。

私は前者まで否定したいわけではない。

むしろ、好きなのだ。

「昔は良かった」と言った瞬間、人は老いるという。

それはわかっている。

わかっているけれど、私は昔の「なんとなくみんな知っている知識」を前提にしたお笑いも好きだった。

「後藤」が出てきたら、待っちゃうだろうし、

ピアノの前で沈黙するなら、4分33秒の間座っているだろう。

文学、哲学、映画、音楽、美術。

昔の演者には、そうしたものをある程度共有している人が多かったように思う。

観客の側にも、

「そのくらいは知っている人が客席にいるだろう」

という感覚があった。

もちろん、全員が同じ本を読んでいたわけではない。

知らないものだって出てくる。

でも、そこで、

「意味がわからない。説明してくれ」

とはならなかった。

「なんだろう、これ?」

で終わる。

そして家に帰って調べる。

元ネタを知る。

作家を知る。

映画を見る。

本を読む。

そうやって、あとからわかる。

私は、この「あとからわかる」という楽しみも、エンタメの一部だったと思っている。

ところが今は、「わからない」ことそのものが、作品側の落ち度として扱われることがある。

「初見の人にもわかるようにしろ」

「元ネタを知らない人にも伝わるようにしろ」

「説明がないから不親切だ」

もちろん、作品によっては正しい指摘だ。

観客に最低限必要な情報を渡さなければ成立しない作品もある。

だから、説明するなと言いたいわけではない。

ただ、

「わからない人がいる」ことと、「わからないものを作ってはいけない」ことは、別の話ではないか。

と思う。

そして、もうひとつ。

「わからない人がいること」と、「わからない人を最初から相手にしていないこと」も、別の話だ。

ここは、前回書いた「蛸壺化」ともつながってくる。

「この芸人の過去ネタを知っている人ならわかる」

「このライブをずっと追いかけてきた人ならわかる」

「この界隈のネットミームを知っている人ならわかる」

そういう笑いは、知らない人を「観客」にするのではなく、「部外者」にしてしまう。

私はそこが嫌なのだ。

一方で、

「この映画を知っていると、もっと面白い」

「この文学作品を知っていると、ここで笑える」

「この音楽を知っていると、意味が変わって見える」

という笑いは、むしろあってほしい。

なぜなら、それは知らない人を締め出す知識ではなく、

知れば、世界が少し広がる知識

だからだ。

そして、お笑いの面白さというのは、そもそも説明できるものばかりではない。

「なぜ面白いんですか?」

と聞かれて、

「こういう文脈があって、ここでこの知識を引用しているからです」

と説明した瞬間、急に面白くなくなることがある。

間。

空気。

表情。

言葉の響き。

客席との共有。

笑いには、理屈だけでは説明できないものがいくらでもある。

落語のオチを逐一解説することが「野暮」だと言われるのも、たぶん同じ理由だ。

解説を読んで理解が深まることはある。

元ネタを知って、二度目に見たときもっと面白くなることもある。

でも、

「説明されて理解すること」と「自分で見つけること」は違う。

自分で調べて、

「ああ、これか!」

と気づく。

その瞬間には、作品だけではなく、自分の中にも小さな発見が生まれている。

私は、その発見まで含めてエンタメだと思っている。

だから、観客にはもう少し、

「わからないままでいる自由」

があってもいい。

100人全員が同じところで笑わなくてもいい。

100人のうち20人しかわからなくてもいい。

その20人が笑えばいい。

残りの80人は「なんだったんだ?」と思っていればいい。

そのうち10人が調べればいい。

そして、

「ああ、そういうことだったのか」

とわかったところで、もう一度笑えばいい。

その一方で、20人だけが笑って、80人を「こんなこともわからないのか」と見下し始めたら、それはまた別の話だ。

それは「知識」ではなく、「内輪意識」だからだ。

わからない人がいてもいい。

でも、

わからない人を外に追い出していいわけではない。

ここを混同したくない。

私は、もっと知識を根拠にしたお笑いがあっていいと思う。

文学でも、映画でも、音楽でも、美術でも、哲学でもいい。

知らなければわからない。

知っていれば、もっと面白い。

調べたら、世界が少し広がる。

そんな笑いがあっていい。

誰にでもわかる必要なんてない。

でも、閉じている必要もない。

「この界隈の人ならわかる」ではなく、
「知らないけど、なんか気になる」

くらいが、ちょうどいいのではないか。

エンタメには、少しくらいこちらを置いていくものがあっていい。

こちらが追いかける。

追いつけない。

でも、なんとなく気になる。

あとで調べる。

数日後に突然、

「あれはそういうことだったのか」

と気づく。

その瞬間に、もう一度笑う。

そういう余白があっていい。

すべての作品が親切である必要はない。

すべてのネタに説明書が必要なわけでもない。

「なんか知らないけど、めちゃくちゃ面白かった」

で終わってもいい。

「意味はわからなかったけど、あの瞬間は笑った」

でもいい。

そして、

「面白さを説明しろ」と迫ることが、いちばん面白くない。

そういう意味での「野暮」は、もう少し大切にされてもいいと思う。

「誰にでもわかるお笑い」もあっていい。

「わかる人にだけわかるお笑い」もあっていい。

「あとからわかるお笑い」もあっていい。

説明されなくても、なぜか笑ってしまうお笑いもあっていい。

その全部が、同じ場所にいていい。

問題なのは、

「誰にでもわかるお笑い」が増えることではない。

「誰にでもわからないものには価値がない」という空気が強くなることだ。

そして同じくらい、

「その界隈に属していなければわからないもの」ばかりになることも、私は怖い。

開かれていることと、わかりやすいことは違う。

親切であることと、説明することも違う。

そして、

わからないことは、不親切なのではない。

ときには、それがエンタメの入口になる。

知らない。

気になる。

調べる。

知る。

そして、もう一度笑う。

そのくらいの余白を、私は残しておいてほしい。

「わからない」を許容できることも、文化の豊かさなのではないか。

私は、そう思う。


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