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これからの私たち All Shall Be Well 鑑賞した記録

2026年1作目の鑑賞は香港の映画、これからの私たち All Shall Be Well。

長年連れ添った60代の女性同士のカップル(婦婦、ふうふといっていいと思う)の、経済的な支柱のパートナーが急死することから始まる、老境の心を吹き荒れる嵐を描いた作品。

パットとアンジーは長年連れ添っている女性と女性のカップル。二人とも還暦過ぎているように見える。
パットは突然亡くなる。アンジーを残して。
パットはビジネスを成功させさらに未来への展望もあったけれど、唐突なお別れにアンジーは沈む。
悲しみも癒えないうちに、世間も親族も同性のパートナーを透明であるかのように扱う。
お葬式での序列は最後、故人の望む埋葬方法も無視、貸金庫も使えず、銀行からのルールに忠実ゆえの無視も、かわいがっていた姪の本心からくる軽率な提案も、思い出の詰まった家を奪う優しかったはずの親族の冷たい表情も、すべて血を流すように主人公を刺し、えぐる。その血も誰にも見えない、なぜならマイノリティだから、法的には家族になれないから、見えないことにされている。

亡くなったパートナーの親族、義兄家族を良い人々と思っていたのに、いったん家族以外とみなされたら”他人”へのあまりにもあっさりと繰り出される非情な仕打ち。亡くなったパットの所持していたマンションの所持を、アンジーにあきらめて渡せという。話していくとそれは格差による余裕のなさからも来ていて、突然出てきた感情ではないとわかってくる。
憎くてしているのではない。余裕がないのだ。

パットの兄とその妻は経済的な環境に疲弊し子供たちの行く末に失望し続けている。パットとアンジーのカップルの朝ごはんと、親子の夕飯の内容の差に対比がある。
目の前の恵まれた妹(亡くなったパット)の家庭と自らを比べてしまえば嫉妬は育ち、今まで世話になったとしても家族でなければ恩があるという対象からはあっさりと外されてしまう。
パットが持つマンションの権利を巡ってのアンジーと姪との会話で、あなたのお父さんが死んだらお母さんに家を出てもらって、売った分を分けようって言うの?私を他人だからそう言えるのよ、というアンジーのセリフがあるが、それに対して姪は何も言えない。パットとアンジーの二人の歴史は、金銭の前に都合よく矮小化される。姪に楽しかった10代の時期をくれたのはおばたちだったと口にしたばかりだというのに。自分が家族の中とカウントされる人間ではないと思い知った感情がはじけるシーンだ。
アンジーの去った家で、かわいがられていたのに何の悔恨もなく引越しをする甥の表情が恐ろしかった。
パットが生きているうちの親族たちのアンジーへのささやかな応援は嘘ではないだろう。だがパットという接続点がなければあっさり手のひらを返し、後ろめたさは感じられない。アンジーはパットの親友。他人だから。そう、義兄家族は悪役でなくて単に近くにいる他人なのだ。

一方でアンジーに寄り添うレズビアンの友人はみんな自立していて、アンジーのいわゆる”主婦”のような立ち位置では現れない。マイノリティであれば、男女の夫婦という形を取らないならば、自活できていないと生きていけないということだろうか。

血縁家族を優先し風水を尊重するのは中華系の文化的な背景もあるのだろうと思うが詳しくないので、おそらく雪や霧のように人々の周りを漂って吸い吐きされているのであろうという類推にとどめておく。そして現行の体制であればマイノリティをカバーする同性婚の法制度は極めて難しいだろう。
格差を固定する社会構造に問題があるのはわかっているけれど、個人は自分の手の届く範囲でマシな方を選び取らなければならない。そして法に守られないマイノリティはこぼれてしまえば救う手は少ない。

すでに家も家族の一部だというのに、パットを失い、体の一部の住まいも引きちぎられるのは私も直視がつらかった。
カップルは、それぞれ連星のように光ってお互いの引力にひかれて一緒に巡りながら生きていこうとしていたのに、突然の死によって、まるで自分が彼女の衛星でもう光ることも彼女の光を反射することもなく、さらには親族によって星系の外に放り出されるような音のない強い力に、観ているほうも吹っ飛ばされそうになる。

主役のパトラの恬淡とした演技がむごさを和らげもし、だから推測を深くできる。表面が静かでも海のように深い潮流は激しい。

アンジーに寄り添うシスターシップは故人との思い出を埋めるにはあまりにも足りず、だが優しく、終盤の海のシーンは落胆や悲しみに少々の清涼感を与えている。

いつもたどっていた軌道をはずれて、星系の他の惑星の引力にも引っかからず、宇宙を単独航するようなラストに、故人とのみずみずしく甘やか思い出が差し込まれて、私は混乱した。
愛は行動の原動力になるけれど、放擲されたのに思い出だけで生きていくには、この世は辛すぎる。
これが監督の伝えたかった現在の問題と観客へのメッセージなら、抑えた演技の奥に渦巻く悲しみの痛み、怒り、諦念と慕情が突き刺すので、思惑は成功している。

All shall be well、これからみんなうまくいくよ、というのは、現在への皮肉であり未来への願いであるのだろう。
100年後に今中年の人間がだれも生きていないなら、救われない人を減らす枠組みを残すのも今の大人の仕事だと知っていたい。
すべて、の中に悲しみがもう織り込み済みなら、喜びもこれから織り込んでいけないなら、辛すぎるから、覚えておくだけでも。

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