『見えないものを語る人』
スピリチュアルなものを信じる人がいる。
その一方で、それを否定し、検証し、暴こうとする人もいる。
どちらにも、それぞれの正義があるように見える。
信じる側には、
「科学で説明できないからといって、存在しないとは限らない」
という考えがある。
否定する側には、
「存在するというなら、まず証拠を示すべきだ」
という考えがある。
どちらも、人間が世界を理解しようとする行為には違いない。
ただ、ふと考える。
こうした構図は、本当に現代になって突然生まれたものなのだろうか。
昔から、人間の社会にはシャーマンと呼ばれるような存在がいた。
病気になったとき。
自然災害が起きたとき。
誰かが死んだとき。
理由の分からない出来事が起きたとき。
人間は、それを自分たちだけでは説明できないことがあった。
そこで、見えないものと人間の間を取り持つ者が現れる。
「これはこういう意味だ」
「こういう存在が関わっている」
「こうすればよい」
そうやって、理解できないものに意味を与える。
もちろん、シャーマンが扱っていたものが本当に超自然的なものだったのかは、別の問題だ。
重要なのは、
人間が昔から、世界の分からない部分を解釈してくれる存在を必要としてきた
ということなのかもしれない。
現代になると、その役割は細分化された。
病気なら医者。
心の問題なら心理職。
人生の意味なら宗教や哲学。
未来の不安なら占い。
超自然的なものならスピリチュアル。
そして、それらを批判し検証するデバンカーも現れる。
形は変わっても、
「自分には分からないものを、誰かに説明してもらう」
という構造そのものは残っている。
そして、そこにはもう一つ、静かに、しかし確実に流れているものがある。
収益化である。
シャーマンも、医者も、宗教者も、占い師も、思想家も、そしてデバンカーでさえ、生きるためには、その営みで対価を得てきた。
だから、収益化そのものは、新しく生まれた歪みではない。
「見えないものを語る」ことと、
「それで生計を立てる」ことは、
昔からずっと隣り合わせだった。
ただ、今は違う部分がある。
人を救うことも。
不安を取り除くことも。
生きる意味を与えることも。
かつてより速く、大規模に、そして自動的にできるようになった。
それは同時に、不安や恐怖を利用して、人を依存させることも、これまでにない速度と規模で可能にした。
「信じれば救われる」
という言葉も、
「そんなものに騙されるな」
という言葉も、
人を集める力を持つ。
そして、人が集まれば、それは経済的な価値にもなる。
そう考えると、スピリチュアルとデバンカーは正反対に見えて、意外なところで似ている。
片方は「信じること」を商品にし、
もう片方は「疑うこと」を商品にできる。
どちらも、人間の
「分からないものを知りたい」
という欲求を扱っている。
だからこそ、信者になることには危うさがある。
一つの答えを信じ始めると、世界のすべてがその答えに回収されていく。
都合のいい情報は証拠になる。
都合の悪い情報は敵の工作になる。
疑問を持つことさえ、信仰が足りないとされる。
けれど、それはスピリチュアルに限らない。
「全部インチキだ」と最初から決めてしまえば、デバンカー側でも同じことが起こる。
「信じる」と「疑う」は正反対に見える。
しかし、どちらも極端になれば、一つの答えに世界を閉じ込めてしまう。
だから、
「分からない」を残しておくこと
には意味があるのかもしれない。
幽霊がいるのか。
霊的な現象が本当に存在するのか。
人間にはまだ知られていない何かがあるのか。
今の自分には分からない。
でも、分からないからこそ、想像する余地がある。
そして、人類は昔から、その「分からないもの」を誰かに語らせてきた。
昔はシャーマンだった。
やがてそれは、共同体全体の意味づけを担う宗教者になった。
一人で世界の理を考え抜こうとする思想家になった。
特定の領域を深く掘り下げる専門家になった。
その専門を大衆に翻訳して届ける評論家になった。
そして今は、誰もが発信者になれる時代の中で、個人が直接、不特定多数に向けて、
「これはこういうことだ」
と語るインフルエンサーへと、その役割の担い手が移っている。
権威が一箇所に集中する時代から、
無数の「語る人」が並び立つ時代へ。
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