デヴィッド・フィンチャー:管理される社会の美学
【序】トランプ氏を追い込むエプスタイン問題 消えぬ「顧客リスト」の亡霊
エプスティーン元被告の捜査資料にトランプ氏の名前と米紙報道 ホワイトハウスは強く反発 - BBCニュース
ジェフリー・エプスタインの“ブラックブック”に、アンドリュー王子の名前がありました。
あの島で撮られた写真はいまも消えない。
そこに映るトランプの笑顔もまた、ログの網から逃れられなかった。
権力者はかつて、秘密を秘密のまま葬る術を持っていました。
でも、監視カメラ、フライトログ、SNS——
もはや何も完全には消せない。
管理する側だと思っていた人たちが、
もっとも深く管理される時代になったのです。
【起】フィンチャーが描いてきた“網”
この構図を、デヴィッド・フィンチャーは何十年も前から描き続けています。
『セブン』では、殺人犯が仕掛けた“七つの大罪”の罠に街全体がからめ取られ、刑事たちは「事件を追っている」つもりで、実は犯人のシナリオに乗せられていました。

『ゾディアック』では、記事や証拠、地図やメモを重ねるたび、警察も新聞記者も自分たちが情報の囚人になっていくんです。

『ゴーン・ガール』では、失踪した妻エイミーがニュースとSNSを操り、夫も世間もぜんぶ、自分の物語の登場人物にしてしまいます。

管理する者とされる者の境界が、音もなくひっくり返る瞬間です。
【承】映画の話で済ませられないのはなぜか
こうした“管理”の感覚は、いまの日本にもそのまま響きます。
安倍政権が進めた共謀罪や監視強化。

マイナンバーと銀行口座の紐づけ。
そして参政党が掲げた「真実を取り戻せ」という言葉。

きれいな言葉ですが、そこには必ず“網”があるのです。自由や真実を名乗りながら、人を囲い込む網が。
無論、イコール管理だなどと言うつもりはさらさらありませんけど、真顔でアツく「真実が!」とか「正義とは!」なんて語られると怪しいと思った方がいい、まあ、少なくともその場はやり過ごしてあとでゆっくり考えてみる、ってことでいいのでは?と思うだけです汗
で、『マインドハンター』という作品

FBIは連続殺人犯の心理をプロファイリング=管理しようとしますが、やればやるほど、突き詰めれば突き詰めるほど、彼ら自身の心が侵食されていくんです。管理しようとすればするほど、管理されていく、その皮肉が、現実と重なります。
【転】冷たく完璧な画面のこと
さてさて、フィンチャーの映画は、とにかく“整いすぎて”います。
『ドラゴン・タトゥーの女』のモニターの青い光、

『セブン』の終わらない雨、

『マインドハンター』の取調室の無機質さ。

でも気づきます。
私たちが毎日見ているスマホの画面も同じだと。
冷たく、完璧で、無感情で、すべてを記録し続ける。
現実のほうが、もうフィンチャー映画みたいになってしまったんですね。
【結?】管理したいのは、誰か
ここまで書いて、ふと立ち止まります。
映画館に行く。
ニュースを観る。
SNSをのぞく。
気になることがあればなんでも検索する。
それってつまり、
「知りたい」「見たい」「確かめたい」
という衝動ですよね。
ということは、恐れている“管理”の網を、最初に欲したのは、私たち自身なのかもしれない。
フィンチャーの映画が本当に怖いのは、スクリーンを覗き込む自分の目が、「管理を求めている」ことに気づく瞬間です。
次回は『ファイト・クラブ』を取り上げます。管理された世界に拳を突き上げた男たちの話です。
気長にお待ちください。
(その前のあげたいネタがたまってて😅)
