見出し画像

映画「アメリカン・ユートピア」徒然草──バーンの脳みそのダンス《拡張版》


デヴィッド・バーンは脳ミソ🧠の模型を手に、

『ここには広い領域が残っている  そしてここが生き続けている  あなたを愛する人に目をやってください  どこにいても安全です』

と歌い出す
🎵「Here」(ここ)から始まるユートピア。
思わず頭から取り出してスクリーンの前に差し出すと、
僕の脳みそ🧠は嬉しそうに躍動し始めた。

このオープニングの演出は、2018年のブロードウェイショーから引き継がれたものだが、映画版では脳の可塑性と人間の可能性への問いかけがより鮮明に浮かび上がる。バーンが手にする脳の模型は、私たちの思考の柔軟性と変化への可能性を象徴的に示している。

テレビからコンサート会場に連れ出してくれたジョナサン・デミの「ストップ・メイキング・センス」から35年、スパイク・リーは「アメリカン・ユートピア」で客席からステージに引き上げてくれた。デミが1984年に確立した音楽映画の文法を、リーは2020年のパンデミック前夜に撮影されたこの作品で見事に更新してみせた。

一体何台のカメラがあるのだろうか、
上から横から寄って引いて、細かいカット割りの連続でステージを立体的に体感させてくれる。
11台のカメラを駆使したという撮影は、まるで観客が舞台上を自由に浮遊しているかのような感覚を生み出す。
でも決してグルーヴを殺がれることはない。
むしろ、リーの編集リズムは音楽のビートと完璧にシンクロし、視覚的なポリリズムを作り出している。

「ストップ~」同様、客席は最後まで一切映らない。
ステージのみを360度、予想もつかない撮影編集技法で見せつけてくれる至福の135分。
しかし、この選択には深い意図がある。
観客席を最後まで映さないことで、スクリーンの前にいる私たち自身が真の観客となり、ユートピアの一員として招待されるのだ。

主役はデヴィッド・バーン、その声は美しくまろやかで円熟の極みながら、パフォーマンスの独特のエッジは変わらず、むしろ切っ先鋭くなっているのではないか。
68歳(撮影当時)のバーンは、裸足で舞台を駆け回り、時に激しく、時に繊細に、まるで20代の若者のようなエネルギーを放出する。にもかかわらず「ストップ~」の時とは比較しようもない絶対的な安定感と主役感、やはり円熟というにはあまりに強いオーラ。


話は逸れるが、かつて80年代、故・渋谷陽一と故・今野裕二がヘッズの「リメイン・イン・ライト」を巡って論争したことを思い出した。

バーンのアフロ音楽へのアプローチを手放しに褒め称えた今野に対して、渋谷が「借り物だ!植民地主義的だ!」と噛みついたこと。

おそらく当時の文化人的スノビズムの象徴みたいな今野が気に入らず、ついでにトーキングヘッズを批判しただけだろうが。この論争は、当時の日本の音楽批評界における文化的アプロプリエーション(文化の盗用)への意識の萌芽でもあった。

今のバーンは、中南米アフリカそしてテクノロジーを自分のものにし、と言うより完全に融和している。
いやもっと言えば完全に吸収されていて、音楽やパフォーマンスの躍動感は極めて肉感的。
40年の歳月を経て、バーンは「借り物」という批判を完全に乗り越え、真の意味でのワールドミュージックの体現者となった。そうだ、でっかいスーツで奇天烈なアクションしてた頃から彼は肉体派だったのだ。


その他の登場人物は12人のプレイヤー。
ユートピアらしく、国籍とジェンダーを飛び越えて集まった楽団員たちの一糸乱れぬパフォーマンス。
驚く。
ブラジル、フランス、カナダ、アメリカと多様なバックグラウンドを持つミュージシャンたち。
特筆すべきは6人のパーカッショニストで、彼らは楽器を持ちながら振り付けされたダンスを完璧にこなす。全員がワイヤレスで繋がり、舞台上に配線は一本もない。この技術的革新が、自由な動きと親密さを生み出している。

YouTubeでもショウの一端は見れるが、この映画でしか体感できないのはまさに神の視点。
その神の視座にいるのはスパイク・リー。
実は随所に「らしさ」がつまっていて、撮影や編集に限らず、バーンのショウのコンセプトとの親和性は高い。リー特有の「ダブル・ドリー・ショット」こそ使われていないが、彼の社会的メッセージへの鋭い視線は健在だ。

字幕で確認できる楽曲を綴る言葉たちは諧謔に溢れてはいるが、深くて重い。
「Every Day Is a Miracle」での日常への賛歌、

「I Zimbra」でのダダイスティックな言葉遊び、


そして「Burning Down the House」での破壊と再生のメタファー。ああ、この曲はこんな意味だったのかと思うことも屡々。

そして後半の楽曲🎵「Hell You Talmbout」で、誰もがストレートで激しいメッセージに打ちのめされる。

ジャネール・モネイの楽曲をカバーしたこのナンバーでは、警察暴力の犠牲となった黒人たちの名前が連呼される。エリック・ガーナー、サンドラ・ブランド、フィランド・カスティール…名前を呼ぶことで、彼らの存在を忘れさせまいとする。気がつけば例のニュース(ジョージ・フロイドの事件)があたまをよぎり、2021年の残酷な現実に向き合わされる。まるで映画「ファイブ・ブラッズ」(Netflix)や「ブラック・クランズマン」のように。

さらに印象的なのは、コリン・キャパニックのテイク・ア・ニー(膝をつく抗議)への言及だ。バーンは静かに膝をつき、スポーツと政治、エンターテインメントと社会正義の境界線を問い直す。

大方の予想通り、「ストップ~」同様ホール全体が俯瞰して映し出され、ショウはステージを飛び出したバーン一座と客席が一体となって、例のあの大ヒット曲「Road to Nowhere」と共に終焉を迎える。


チェーンで囲われた舞台から解放され、劇場全体がユートピアと化す瞬間。しかし、この「どこへも続かない道」というタイトルは、アメリカン・ドリームへの痛烈なアイロニーでもある。

果たしてアメリカン・ユートピアとはなんだったのか、
その問いかけ自体がこの映画の本質ではないか?
移民の国アメリカが理想とする多様性と調和、しかし現実には分断と対立が深まる社会。
バーンとリーが提示するユートピアは、実現不可能な理想郷ではなく、私たちが日々の選択で作り上げていくべき「プロセス」なのかもしれない。

取り出した僕の脳ミソは、相変わらず錆び付いてはいたが、少し元気になったようだ。脳ミソを頭のなかに収めると、身体も少し元気になってきた。

なぜかオリンピッグ事件(東京五輪の演出家が性差別騒ぎで辞任したが、ことの本質はMIKIKOのAKIRAを模した素晴らしい演出に嫉妬してのパワハラではないか、というクリエイティブの劣化)に思いが及ぶ。

MIKIKOが構想していた多様性と包摂性に富んだ開会式案は、まさに「アメリカン・ユートピア」が体現する価値観と共鳴していた。結果として実現した開会式との落差は、日本社会が抱える創造性への不寛容さを露呈した。

脳を劣化させてはいけない。
柔軟性を失った思考は、新しい可能性を見出すことができない。バーンが冒頭で示した脳の模型のように、私たちの思考には「広い領域が残っている」のだ。

さもなければ眼を見開いても、真実を見ることはできない。

この映画は、2020年のブロードウェイ閉鎖直前に撮影された奇跡的な記録でもある。パンデミック後の世界で観ると、人々が密集し、歌い、踊る光景がいかに貴重だったかを思い知らされる。それもまた、失われたユートピアへの郷愁なのかもしれない。

徒然なるままに。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集