アルゴリズムは分断を生む——ルワンダにならないために
私は、思想的には右でも左でもない。
「どっちだよ?」と聞かれたら——たぶん、どっちも。
真ん中に立って、両方を眺めているような感じだ。
noteを始める前は、今よりもう少し保守的だった気がする。
日本が大好きだから、日本を貶めるような発言をする国は苦手だった。
でも、noteを書き始めてからSNSを離れ、
政治系の動画や「日本大好きチャンネル」を見なくなって、
気がつけば“穏やかな右”になっていた。
やっぱり母国だからね。
私にとって日本より美しい国はない。
そう思う気持ちは今も変わらない。
ただ、たまに帰省すると、両親の話に驚くようになった。
いつのまにかすっかり右寄りになっていて、
「毎日YouTube見てるとそうなるのかな」と笑って聞いていたけれど、
ふとXを開くと、そこにも同じような思想の投稿が溢れていた。
もちろん、全部が悪いわけじゃない。
でも、この数年で明らかに右傾化した言葉が増えたように感じる。
いろんな意見があることは本来おもしろいはずなのに、
ツイッター時代よりも“異なる意見”に対して
一斉に石が投げられるような空気ができてしまった。
そこで私なりに両親が右傾化した理由を考えてみた。
SNSが右傾化を強める構造
Xは、怒り・不安・恐怖といった感情の強い投稿ほど拡散される仕組みになってる。
だから、田舎やテレビ中心の層が「外国人犯罪」「治安悪化」「移民陰謀論」みたいな投稿を見続けると、
現実以上に「外国人=危険」という印象を持ちやすくなる。
しかも今は、高市氏の台頭や政権交代が話題になって、
“ナショナリズムを刺激する投稿”がアルゴリズム的に上位に出やすくなってる。
それが「右傾化してる」という空気を増幅してるのかもしれない。
田舎での「恐怖」と「実体験」のギャップ
私の両親のように、身近に外国人が少ない人ほど「未知=怖い」と感じやすい。
一方で、実際に外国人と接してる人は、
「優しい」「礼儀正しい」「一緒に頑張ってる」という体験から、
“人としての個別の顔”を知っている。
ここに心理学的な分断がある。
つまり「接していない人ほど恐れる」「接している人ほど理解できる」。
高市政権と右派ムードの連動
高市早苗は、「保守派の象徴」として長年メディアで描かれてきた。
そのため、
• 保守層・排外的な層が“待ってました”と声を上げやすくなる。
• SNS上で「日本を取り戻す」「国を守れ」といったスローガンがバズる。
• 逆に、穏健派やリベラル層は疲れて発信を控える。
結果、SNS上の空気が右傾化しているように見える現象が起きる。
実際の世論全体が同じ方向に動いてるわけではないけど、
ネット空間では“音量の大きい人”の意見が可視化されやすい。
ルワンダみたいにならないように
私が恐れているのは、今の状態がずっと進むと「ルワンダみたいにならないか」っていうことだ。
noteは比較的に若い世代が多いから軽く説明します。
🇷🇼 ルワンダ虐殺(ルワンダ大虐殺)とは
発生時期:1994年4月〜7月(約100日間)
場所:アフリカ中央部の国・ルワンダ共和国
犠牲者:およそ80万人以上(推定)
背景
ルワンダには、主にフツ族(多数派)とツチ族(少数派)という民族がいた。
もともと両者は文化的に大きな違いはなかったが、
植民地時代(ベルギー統治下)に「ツチ族優遇政策」が取られたことで、
社会に深い亀裂が生じた。
独立後、その反発からフツ族主導の政権が誕生し、
ツチ族への差別と迫害が続くようになった。
きっかけ
1994年4月6日、当時のジュベナール・ハビャリマナ大統領(フツ族)の乗った飛行機が撃墜され、暗殺される。
これをきっかけに、
極端な民族主義を唱えるフツ族過激派が「ツチ族を皆殺しにせよ」と煽動。
政府軍、民兵、一般市民までもが殺害に加わった。
メディアの役割
「自由ラジオ・テレビ・ミルコリン(RTLM)」というラジオ局が、
連日ヘイトスピーチを流し、ツチ族を「ゴキブリ」と呼び、暴力を扇動した。
これが虐殺拡大に大きく影響したとされている。
国際社会の対応
国連や主要国は介入をためらい、虐殺は約100日間も続いた。
のちにポール・カガメ率いるRPF(ルワンダ愛国戦線)が首都キガリを制圧し、終結。
しかし、国民の間に深い傷が残り、約200万人が難民となった。
🔥 ルワンダと「右傾化の心理」
1994年のルワンダ大虐殺は、もともと宗教でも民族でもない、
“普通の隣人同士”の対立から始まった。
最初はごく小さな分断だった。
「彼らは危険だ」「俺たちの仕事を奪う」「国を汚している」——
そんな言葉がラジオや新聞で毎日流され、
人々は知らないうちに、怒りの正当化を信じるようになった。
そして、ある日それが一線を越える。
「自分は悪いことをしていない。国を守っているだけだ」と思いながら、
普通の人が隣人を殺していった。
今の日本の空気に通じる“静かな予兆”
もちろん日本が同じ道をたどるとは限らないけど、
空気の質が少し似てきているのは確かだと思う。
• 「あの人たちは日本を壊す」
• 「外国人が治安を悪くしている」
• 「リベラルは売国奴だ」
そういう言葉が、メディアとSNSで日常的に流れるようになると、
人々は次第に思考を停止し、
“誰を憎めば安心できるか”という回路で動き始める。
怒りを共有することで、共同体の一体感が生まれてしまう。
それが分断の本質であり、ルワンダでも起きたことなんだ。
メディアの役割と「情報の暴力」
ルワンダでは、国営ラジオがヘイトを煽った。
「敵を駆除せよ」と呼びかけ続け、
それを聞き続けた人々が憎悪を日常語として学習した。
今の日本では、それがテレビやYouTube、X(旧Twitter)に置き換わっている。
画面越しの“言葉の刃”を毎日浴びていると、
知らないうちに他者への耐性が薄れていく。
ヘイトは、国家ではなくアルゴリズムが運ぶ時代になった。
だからこそ、冷静な個人の判断力が前よりずっと大事になっている。
「ホテル・ルワンダ」
政治的な話はnoteでするのは躊躇したが、ルワンダのことを思い出して突発的に書いてしまった。
もしよければ「ホテル・ルワンダ」という映画があるので、見てみてください。
かなり刺激的なシーンありますが、極端な思想が行き着くところはこうなるのではと自分の戒めのために私は見ました。
無関心という暴力
『ホテル・ルワンダ』の中で、忘れられない場面がある。
諸外国の人々が食卓を囲み、テレビに映るルワンダの惨状を見ながら、
淡々とフォークを動かしている。
誰も怒鳴らない。
誰も泣かない。
ただ、「ひどいね」と言いながら、
ニュースをBGMのように流しているだけだった。
あの沈黙は、銃声よりも冷たかった。
“直接手を汚さない”という形で、
世界がゆっくりと虐殺に加担していく様子を、あの食卓は象徴していた。
30年が経った今、私たちはスマートフォンの画面を前に、
同じように「見ているだけの観客」になってはいないだろうか。
誰かが叩かれ、誰かが傷つき、誰かが沈黙に追い込まれていく。
タイムラインを指でなぞりながら、「かわいそう」と呟く。
そして次の投稿へと滑っていく。
私たちの無関心は、もう銃を必要としない。
それでも、確実に誰かを傷つけている。
ポール・ルセサバギナがホテルで人々を守ったのは、
特別な力を持っていたからではない。
彼はただ、「見ないふり」をしなかった。
あの静かな勇気こそが、
世界が失いつつあるものではないかと思う。
映画『ホテル・ルワンダ』の中で、支配人はただ静かに人を守り続けた。
今の私たちにも、言葉で人を救う力が残っていると信じたい。
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