小さすぎて報告されない失敗が、いちばん高くつくものですよね
ヒヤリハット。軽微な逸脱。様式の書き間違い。
どれも報告されないまま処理されます。実害が出ていないからです。
失敗の代償が極端に大きいのに事故が少ない組織、例えば、航空母艦の飛行甲板、航空管制、原子力発電所など。これらを高信頼性組織と名づけ、実地に観察したのはカリフォルニア大学バークレー校の研究者です。
その蓄積を以下の5つの原則に整理したのが、カール・ワイクとキャスリーン・サトクリフです。
失敗へのとらわれ ── うまくいっているときほど、小さな失敗を探しにいく。無事だったことを安全の証拠として扱わない
単純化の拒否 ── 起きたことを既存のラベルに素早く収めない。分類することと理解することは別だとみなす
オペレーションへの敏感さ ── 現場でいま何が起きているかを、報告の集計ではなく生の状態で把握し続ける
レジリエンスへの関与 ── 起きることを前提に置き、起きた後に立て直す力のほうに投資する
専門知への敬意 ── 危機の局面では、役職の順ではなく、その事象をいちばん知っている人に判断を渡す 前の3つが予期(悪いことが起きる前に気づく)、後の2つが封じ込め(起きてしまった後に広げない)です。順番があって、予期の側から入らないと、封じ込めに使う材料が集まりません。
「実害がなかった」で閉じると、情報が消える
コンプライアンスの現場で、失敗へのとらわれの原則がいちばん効くのは通報と相談の扱いです。
受け付けた事象は、調査のあと、いくつかの区分に整理されます。規程違反に当たるもの、当たらないもの、実害が生じたもの、生じなかったもの。
このうち「規程違反に当たらない」「実害は生じていない」と整理された事象は、その時点で処理が終わります。記録は残りますが、そこから何かを読み取ろうとする工程が、たいていの会社にありません。
高信頼性組織の考え方では、ここが逆になります。実害が出なかった事象こそ、無料で手に入った情報です。実害が出た事象は、代償を払って手に入れた情報なので、当然に分析されます。無料のほうを捨てているのが、多くの組織の状態です。
ワイクとサトクリフが2番目に挙げた単純化の拒否(reluctance to simplify)も、同じ場所で効きます。小さな事象は、単純なラベルで分類されがちです。「認識不足」「連絡ミス」「うっかり」。この3語で閉じた瞬間、そこにあった構造は見えなくなります。認識不足なら教育、連絡ミスなら周知徹底、うっかりならダブルチェック。処方が先に決まっているラベルは、診断をしていません、思考停止になってしまいます。
このあたり、怒りやストレスに名前をつけるとすっきりするという、個人の快適な状況と相反する話になるので、仕組みが必要になるところです。
「実害なし」は、良くも悪くも安心の材料になる(むしろ悪い方に)
ここに、読み返さないこととは別の、もっと厄介な性質があります。
ジョージタウン大学のキャサリン・ティンズリーとロビン・ディロン=メリルは、実際には事故に至らなかった出来事、いわゆるニアミスが、その後の判断にどう効くかを調べました。NASA・BP・ジェットブルー、航空業界のデータと実験の両方を使った一連の研究です。
結果は直感とは逆で、ニアミスの情報に触れた人は、触れていない人よりリスクの高い判断をするようになります。 危ないと学ぶのではなく、大丈夫だったという方向に解釈が寄るからです。
もう一つ、評価の側にも歪みが出ます。同じ判断をした管理者でも、結果が失敗に終わった人は低く評価され、運よく実害が出なかった人は、成功した人と同じように評価されます。判断の質でなく、結果で見られている。だから、危ない判断をして助かった人は、そのやり方を続けます。
このあたりは仕組みで加速していく構造になっていてヒヤリとしつつ、意識していないことがネジをどんどん回していく形になっていて、興味深く、また自分でも気をつけたいなと感じました。
話を元に戻すと、「実害なし」で閉じた記録は、読み返されないから死んでいるのではなく、読み返しても、安心の材料として処理されてしまうということに問題があるのだなと理解しました。ここが、この原則でいちばん引っかかるところだと思います。
だから、何が起きたかを見るのではなく、起きなかったのはなぜかを聞くことになります。設計で止まったのか、手順で止まったのか、それとも誰かが偶然気づいたのか。
三つ目が多い組織は、次に同じ状況になったとき止まりません。
ただ、起きなかったことを聞くのは、相当に意識・仕組みの双方を鍛え上げる必要があると思っています。
それをどのように実現すればいいか、言うは易し行うは難しのところ、以下のように実務を考えてみています。
契約審査でやってみる
契約審査は、この問いを当てやすい業務です。危ない条項が入った契約が、締結前に直った。ここまでは日常的に起きています。
そこで、なぜ直ったのかを三つで分けます。
設計で止まった。 自社の雛形にその条項がそもそも無く、相手方案との差分として自動的に浮いた。担当者が誰であっても同じ結果になります。
手順で止まった。 審査のチェックリストに項目があり、順に見ていく過程で引っかかった。手順を守れば止まりますが、手順から外れた案件は通ります。
偶然で止まった。 担当者が過去の類似案件を覚えていた、たまたま関連する記事を読んでいた、勘が働いた。次に同じ条項が来たとき、その人が担当でなければ止まりません。
三つ目が多い会社は、契約審査の品質がその人の在籍年数に乗っています。
異動や退職で、品質が下がります。
四半期に一度、修正が入った契約を十件ほど並べて、この三つのどれで止まったかを確認して、偶然が半分を超えていたら、そこは雛形か、チェックリストに移すべき項目が残っているということになります。
コンプライアンスの手続でも同じ形になる
同じ問いは、他の手続にも当てられます。
贈答・接待の事前申請。 基準を超える贈答が実行前に止まった。申請システムが金額で弾いたのか(設計)、上司が申請を見て気づいたのか(手順)、本人が迷って相談してきたのか(偶然)。三つ目が多いなら、その基準は本人の慎重さに依存しています。
利益相反の申告。 兼業や取引先との関係が問題になる前に把握できた。定期申告の様式が拾ったのか、異動時の手続で出たのか、噂で耳に入ったのか。
支払・与信。 二重払いや与信超過が実行前に見つかった。システムが弾いたのか、照合手順で出たのか、経理担当が違和感を持ったのか。
どの業務でも、聞き方は変わりません。止まったのは、仕組みが止めたからか、人が止めたからか。
5原則を、実務の言葉に置き換える
この5つには順番があります。失敗へのとらわれ、単純化の拒否、オペレーションへの敏感さは、悪いことが起きる前に気づくための原則です。レジリエンスへの関与と専門知への敬意は、起きてしまった後に広げないための原則になります。気づく側から入らないと、広げないために使う材料が集まりません。
実務の言葉に置き換えると、こうなります。
失敗へのとらわれ ── 実害の出なかった事象を、四半期に何件読み返しているか。ゼロなら、この原則は入っていません。読むなら10件まとめてです。1件ずつでは、同じ部署・同じ業務・同じ時期に寄っていることが見えません。読む場には、その業務の担当者を1人入れます。管理部門だけで読むと、記録に書かれたことしか出てきません。そして、読む10件は評価に使わないと先に決めておきます。使わないと決めた情報だけが、正直に集まります。
単純化の拒否 ── 原因欄に「認識不足」「連絡ミス」と書かれた案件が、全体の何割か。3割を超えていたら、直すのは現場ではなく様式のほうです。「何を認識していなかったのか」「その情報はどこにあったのか」の2欄を足すだけで、書ける内容が変わります。
オペレーションへの敏感さ ── 直近3か月で、コンプライアンス部門の人が現場の作業を横で見た回数。ゼロなら、見ているのは報告書だけです。月次の件数表からは、同じ作業がいまどれくらい詰まっているかは出てきません。
レジリエンスへの関与 ── 不祥事が起きた場合の初動を、手を動かして試したことがあるか。手順書があるかではなく、演習をやった回数です。一度やれば、誰が何を持っていないかが分かります。
専門知への敬意 ── 直近の有事対応で、意思決定の場に、その業務の担当者が入っていたか。役員と管理部門だけで回していたなら、この原則は入っていません。
五つのうち、最初に動かすのは失敗へのとらわれです。ここが動くと、残りの4つに使う材料が集まります。新しい会議も要りません。既存の会議体の枠を30分借りれば足ります。
「事故が起きていない」には、二つの意味がある
冒頭に挙げた三つに戻ります。ヒヤリハット、軽微な逸脱、様式の書き間違い。実害が出ていないから報告されない、と書きました。
ここまで見てきたことを踏まえると、順序が逆かもしれません。報告されないから、実害が出ていないことになっている。 誰かがその場で処理して、記録に残らず、実害という形にならなかった。空母の飛行甲板でも、原子力発電所でも、彼らが探しているのは、まさにその、実害という形にならなかった出来事のほうです。
そうすると、うちは事故が起きていない、という状態は二つの意味を持ちます。起きない設計になっているのか、起きかけたものを誰かが毎回止めているのか。 前者なら安心してよく、後者なら、その人が異動した日から数字が変わります。どちらなのかは、記録を眺めているだけでは分かりません。設計で止まったのか、手順で止まったのか、偶然だったのかを、一件ずつ聞かないと出てきません。
「実害なし」で閉じた記録の山は、安心の在庫ではなく、まだ読まれていない情報の在庫だと考えることが大事だと理解しました。
読めば、自社が設計で持っているのか、人の力で持っているのかが分かります。
そして、それを知らないまま持っている状態のことを、事故が起きていないと呼んでいるかもしれません。
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出典
Catherine H. Tinsley & Robin L. Dillon-Merrill ほかによる近接誤り(ニアミス)研究。"How Near-Misses Influence Decision Making Under Risk: A Missed Opportunity for Learning", Management Science, 2008 ほか。ニアミス情報に触れるとその後の判断がリスク寄りになること、結果が良ければ同じ判断でも高く評価されること(結果バイアス)について。実務向けの整理は Tinsley, Dillon & Madsen, "How to Avoid Catastrophe", Harvard Business Review, 2011年4月号。 https://hbr.org/2011/04/how-to-avoid-catastrophe
Karl E. Weick & Kathleen M. Sutcliffe, Managing the Unexpected: Assuring High Performance in an Age of Complexity, Jossey-Bass, 2001(邦訳『不確実性のマネジメント』ほか).
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