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穴は、今日も動いている ── 監査に通った工場で不正が起きる、本当の理由

飛行機は、なぜ墜ちないのか

航空安全に、「スイスチーズモデル」という考え方があります。

イギリスの心理学者ジェームズ・リーズンが示したものです。 組織の防御は、何層ものチーズのスライスでできている。方針、監督、現場の手順、最後の一線。どのスライスにも穴が空いていて、完璧な層はありません。ふだんは、あるスライスの穴を、次のスライスが塞ぐ。すべての層の穴がたまたま一直線に並んだとき、事故は貫通します。

コンプライアンスやリスク管理に関わる方なら、この型に見覚えがあるはずです。不正のトライアングル ── 動機、機会、正当化の三つが揃ったとき、不正は起きる。

スイスチーズの穴も、三つの条件も、「悪人が一人いた」ではなく、「条件が揃った」で出来事を捉えます。 ここまでは、よく語られる相似です。本当に効くのは、この先でした。

穴を空けているのは、現場ではない

リーズンの核心は、「穴には二種類ある」という区別だと感じています。

一つは、現場の目に見えるエラー。手が滑る、確認を飛ばす。
もう一つは、遥か上流で、ずっと前に空けられた穴 ── 彼が「潜在的条件(latent conditions)」と呼んだものです。

無理な納期、薄すぎる人員、曖昧な権限設計。事故が起きるずっと前から、静かに現場のチーズに穴を空け続けています。 不正のトライアングルも、同じ。動機を生むのは、達成できない目標を課す評価制度。機会を残すのは、権限が一人に集中する設計。正当化を許すのは、「みんなやっている」を黙認する空気。

三つの条件を作っているのは、その人の資質よりも、上流の設計です。

だから、不正のたびに現場の担当者を探すのは、墜落の原因をパイロットの操縦だけに求めるようなもので、無慈悲だなと思います。
その穴を空けたのは、たいてい、ずっと上流にいる別の誰かです。
多くの品質不正やコンプライアンス違反を見てきた経験から、膝を打つ思いでした。

監査は、その穴を見ていない

なぜ監査に通った工場で、不正が起きるのか。監査が、上流の穴を見に行っていないからです。

監査が見るのは、監査できるもの ── 記録、署名、規程、逸脱の件数。無理な納期が現場に強いる歪みや、評価制度が生む沈黙は、記録に残りません。測れないものは、監査の対象になってこなかった。

しかも、監査に備えるほど、現場は「監査可能な形」に整えられ、本当の穴は測定の外へ押し出されます。

だから「監査に通った」は、脆弱性がなかった証明にはなりません。監査が届く範囲に、たまたま穴がなかった、というだけのことです。

罰しても、穴は塞がらない

もう一つ、「ジャスト・カルチャー」という考え方があります。
要点は、すべての失敗を同じ箱に入れないこと。避けようのなかった判断ミスと、意図的なルール破りを、分けて扱う。

罰する前に、まず「その状況で、その人に何が見えていたか」を確かめます。 なぜか。罰から入ると、現場は報告しなくなるからです。ミスを隠し、ヒヤリハットを飲み込む。穴のありかを教えてくれる唯一の情報源 ── 現場の声 ── が、消える。報告が上がらなければ、上流の穴は永遠に見えません。

ただし、穴には意志がある

安全工学とコンプライアンスには、決定的な違いがあります。

チーズの穴に、意志はありません。金属疲労は、儲けたくて割れるわけではない。ですが不正には、意図がある。安全の現場なら、ルールを外れる工夫は、たいてい「うまく回すため」の善意です。

不正では、同じ「工夫」が、私腹を肥やす抜け道になる。「現場のやり方には正しい理由がある」と決めてかかれば、裏の悪意を見逃します。

それでも、上流を見る視点は変わりません。その悪意さえ、多くは上流が育てている。達成できない目標が、数字を作る動機になる。告発は損という空気が、見て見ぬふりを最適解にする。結果だけを問う評価が、手段を選ばせなくする。

悪意は、その人の生まれつきというより、それを促す環境から出てきます。

輸入したモデルも、いつかチーズになる

最後に、ここまで書いたこと自体の弱点にも触れます。

スイスチーズも、ジャスト・カルチャーも、輸入した瞬間から、新しい儀式に堕す危険があります。
「ジャスト・カルチャーを導入した」がスローガンになり、「潜在的条件をチェックする」が新しいチェックリストになれば、穴を持った四枚目のチーズになる。
責めない文化も、いつのまにか「誰も責任を問われない」隠れ蓑になります。

輸入した考え方を、その考え方自身で疑い続ける。 それをやめた瞬間、深いはずのモデルも、ただの形式に変わります。

だから、足すのではなく

穴を塞ごうと、層を足す。監査を増やし、規程を重ね、承認を一段深くする。

ですが、層を足すほど、システムは絡み合い、誰も全体を見渡せなくなる。残るのは、「これだけやったのだから大丈夫」という、根拠の薄い安心だけです。

統制を足すことは、かえって脆さを育てます。

本当に見るべきなのは、上流に空いた穴です。評価制度、納期、権限、空気。それを、監査の届かない場所ごと、見ようとしているか。問われるのは、そこだと思います。


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出典

  • スイスチーズモデル/潜在的条件(latent conditions): James Reason『Human Error』(1990)/「Human error: models and management」BMJ(2000)。現場のactive failure ↔ 上流のlatent conditions の区別。

  • 不正のトライアングル: 理論=Donald Cressey『Other People's Money』(1953)。三角形としての図示・命名=Steven Albrecht(1991)。

  • 監査が「監査可能なもの」を見る構造: Michael Power『The Audit Society: Rituals of Verification』。

  • ジャスト・カルチャー: James Reason(1997)/Sidney Dekker。

  • 統制の複雑性が脆さを生む: Charles Perrow『Normal Accidents』(1984)。


本稿は「コンプライアンスの地図」マガジンの記事です(🔭越境回)。


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