小説『ぼくはぬいぐるみ』 ⚠️注意事項あり| 朗読可[フリー朗読台本]
⚠️注意事項
本作には、心理的な支配・依存・狂気的な執着を想起させる描写が含まれます。一見やさしい言葉の中に、じわじわとした不穏さや恐怖を感じる可能性があります。苦手な方はご注意ください。
利用規約
本作品は朗読可能です。なお、利用規約は予告なく変更される場合があります。ご利用の際は、事前に下記リンク先の利用規約をご確認ください。利用は自己責任でお願いいたします。
※本作品『ぼくはぬいぐるみ』は3章構成ですが、全章ではなく読みたい章だけ朗読しても大丈夫です。
📕『ぼくはぬいぐるみ』
第一章 ぼくはぬいぐるみ
今日も、ぼくは部屋の片隅で目を覚ました。
そこは、いつもの場所。ぼくはこの部屋が好きだった。だって、ここには彼がいるから。彼は、ぼくのことを見てくれる。ときどき頭を撫でてくれる。そのたび、ぼくはうれしくてたまらなくなる。ぴょんと跳ねたくなるけれど、ぼくはぬいぐるみだから、じっと喜びをかみしめるだけ。動けなくても彼のぬくもりはちゃんとわかってる。
この部屋はいつもとても静かだ。時計の音も、外の音もあまりしない。時間の流れがふわふわしていて、やさしい。ここにいれば、ずっとこのままでいられる気がする。
でも、彼がいないとき、部屋の中の空気がすこし別のかたちになることがある。そんなときには決まって彼女が来る。彼女は、ぼくを見つけて手を伸ばす。指先が、ぼくのふわふわの毛をなぞる。彼女は少しだけ笑うけれど、その笑顔には小さな棘みたいなものが混ざっている。手が触れるたび、ざわざわとした気持ちが広がる。でも動けないからそれを止めることもできない。「代わりになりたくない」そう思う。
彼女は、満ち足りたような目でぼくを見る。彼のことを知っている悦びを、ぼくに見せつけるみたいに笑う。それが怖かったけれど、彼女の中にある寂しさを思うと平気だった。彼女は決して彼に届かない。彼が見ているのは、ぼくだけだから。
やがて彼女は、ぼくをぎゅっと抱きしめて、いつもの儀式を終えると静かに去っていった。足音が消えると、また静けさだけが残る。ぼくは身だしなみを整えられ、元の場所に戻されていた。そこには彼の香りがまだ残っていて、ぼくはそれを大事に吸い込む。やがて彼が帰ってくる。ぼくの名前を呼びながら、やさしく語りかけてくれる。ときどき、耳元で囁く。
「きみは、ぬいぐるみだよ」
ぼくは心の中でうなずく。そう、ぼくはぬいぐるみ。彼のそばにいられる、それだけでいい。ここはぼくの世界。彼がすべて。だけど時々思うんだ。もし、ぼくが動けたら。もし、ぼくが言葉を持っていたら。この奇妙なやさしさの正体を伝えられたのかな。ぼくはただのぬいぐるみ。ただ静かに、彼を、彼女を、見守るだけ。
そして今日も、ぼくの好きなこの部屋で、
やさしい時間が、静かに流れていく。
第二章 あれはぬいぐるみ
彼の部屋は、静けさで満ちている。
その空気が、私は好き。音もほとんどなく、匂いも穏やかで、外の時間がまるでどこかに消えてしまったような感覚に包まれる。ここにいると、彼に少しだけ近づけた気がする。彼がいないときにしか、この部屋に入れない。それが、暗黙のルール。彼が決めたルール。破りたいと思ったことは一度もない。だって、彼のルールの中にいる限り、私は彼の近くにいられるから。
ベッドの脇には、ぬいぐるみがいる。あれは、彼のお気に入りだ。いつも手の届くところに置いている。寝るときも、目を覚ましたときも。彼は他のものには興味を示さないのに、あのぬいぐるみだけは絶対に離さない。
最初に見たときに、目が合った気がした。ただの錯覚かもしれない。あれは動けないし、喋らない。呼吸さえしていないように見える、ただのぬいぐるみだから。
彼はあれにやさしく話しかける。撫でる。笑う。私はその様子を思い出して、静かに手を伸ばす。ぬいぐるみの頭に触れる。彼の真似をする。彼の気持ちを、少しでもなぞりたくて。そのたびに胸の奥で何かがざらりとした。その感覚が何なのかは、もうわかっている。
あのぬいぐるみが彼の世界の中心にいること。それが私にはわかる。あれ以外、彼の目には映らないこと。そして私が代わりになれないこと。私は知っている。あのぬいぐるみが、ただのぬいぐるみではないことを。それを知っているのは、私だけ。その事実がどうしようもなく嬉しくて。
だから、私は静かに笑う。彼の世界を壊さないように、そっと優しくぬいぐるみに触れながら。彼が触れたときと同じように。同じ場所に、同じ強さで。何度も、何度も、何度も。私の手は、きっと冷たい。ぬいぐるみは何も言わない。当たり前だ。動かない、喋らない。きっと彼が教えた通り。
私はゆっくりと立ち上がり、部屋を出る。後ろ手でドアを静かに閉めると、薄暗い廊下の中に、微かに私の笑みが残る。次に来るときまで、変わらずそこにいて。彼のそばで、彼の愛をしっかり受け取めて、他の誰にも渡さないで。ぬいぐるみがあれば彼はこの世界から出られない。きっと、また来る。
私はこれからも、ただ、ずっと彼を見てる。
第三章 きみはぬいぐるみ
この部屋は、完璧だ。
音を遮断する壁。鍵のかかるドア。一定の温度と湿度。刺激が少ない環境は、彼を安定させる。なにより、彼に必要なのは「安全な居場所」だからだ。
最初は怯えていた。当然だ。誰だって、自分の“本当の役割”を急に告げられて、すぐに納得できるわけがない。
でも、少しずつ教え込めば大丈夫。大事なのは繰り返しと、一貫性。優しく、丁寧に、根気よく。
彼は、ぬいぐるみだ。
そう、ぬいぐるみ。
動かなくていい、喋らなくていい、考えなくていい。ただそこにいて、見守ってくれていればいい。ぬいぐるみは、それでいいんだ。はじめは泣いたり暴れたりもした。でも、今はもう落ち着いている。こちらが目を合わせれば、目を伏せる。撫でれば、安心したような顔をする。呼べば、すぐにこちらに笑顔を向ける。
きみは、僕のぬいぐるみ。
名前もあるにはあるけれど、もう呼ばなくなった。言葉を与えると、自分を「人間」と誤解するから。もう間違えなくていい。役割を与えられるというのは、幸福なことだ。何者でもなくなることは、自由になることだ。
外の世界では、誰も彼を見ていなかった。家族も、友人も、ただ「存在しているだけ」の彼を、本当には見ていなかった。でも、僕は違う。ちゃんと見つけてあげた。ちゃんと、必要としている。だから彼も僕を必要としている。それは当然のことだ。
彼女は時々やって来る。鍵は渡していない。合鍵を勝手に作ったんだろう。注意するつもりはない。彼女は、僕のことをよく見ている。執着というのは美しい形をしている。
彼女は、ぬいぐるみに触れるとき、嫉妬しているだろう。だけど同時に誇っている。「わたしは知っている」と。「あなたと私だけの秘密」と。そう思わせておけば都合がいい。彼女はそこから出られない。僕の世界の外には戻れない。それでいい。この部屋は、選ばれた者のためにある。それに何をしようとこのぬいぐるみは自分以外には反応しない。それを確かめるためにも彼女は本当に都合のいい存在だった。
……ぬいぐるみを撫でる。
柔らかくて、温かい。目を閉じて、呼吸の音を聞く。この音が好きだ。ちゃんと生きている。でも、「自分で生きている」とは、思っていない。それが大切だ。役割を受け入れた者だけが幸せになれる。そしてまた今日も、ぬいぐるみは隣で静かに佇む。なにも喋らず、なにも拒まず。完璧な存在として。
かわいいな。
ほんとうに、かわいい。
明日も、ちゃんと可愛がってあげよう。
もっと、ちゃんと。
彼が完全なぬいぐるみになる、その日まで。
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