見出し画像

【短編小説】#1 停電する夏 【東京異常気象SFシリーズ】

北海道胆振東部地震8年目に寄せて。
タイトル『わからないふたり』


    一

 はじまりはインターホンだった。

 その朝、いつものようにインターホンを押したのに、鳴った気配がなかった。耳を澄ませて試しにもう一度二度押してみたけれど、やはり音がしない。ただ色褪せたボタンが手元でカタカタと虚しく揺れるばかりだった。大通りから一本入ったせいか周囲はやけに静かで、どこか遠くに蝉の鳴く声だけが作り物みたいに聴こえていた。

 東京スカイツリーが睥睨する、北十間川。そこに架かる西十間橋を渡って少し歩いたところに先輩の家はある。二階建てと一階建ての二棟がくっついたような形をしていて、葭簀に塞がれた窓の前にはいくつもの鉢が跋扈している。ひとりでに増殖したような鉢はそのまま玄関先をとり守るようになって、いかにも歓迎しませんという雰囲気だ。鉢ひとつひとつに違う植物が生えているけれど、私にはその花の葉の名前などひとつもわからない。ただ、出入りする者の存在を拒んでいるようなそののさばり具合は、まさに先輩そのものだという気がする。

 私はインターホンを諦めて、植物の陰に隠れた、これも古い型硝子の扉をバンバン叩いた。

「おはようございます、小伝馬です! 西瓜持ってきましたよ!」

 早朝の住宅街に私の声はやはり虚しく響いた。朝ならいると思ったのに、もしかして出かけてしまったのだろうか。いや、あの先輩に限って朝から活動するなんてありえない。ではまだすっかり眠っているのか……。

 私が足元に置いた大玉の西瓜を見下ろして思わず途方に暮れていると、不意に奥のほうで気配が動いた。それはすぐにはっきりと足音になって、古い扉をがたがたと揺らして開けた。

「澪……? なに、こんな朝から……。」

 顔を出した先輩は、真っ黒な目を眇めて私を見上げた。いつもは一つに結われている綺麗な髪に癖がついて、肩のところでもつれている。寝間着らしい緩いTシャツの裾から裸の脚が無防備に伸びていて、正直かなりぐっときたけれど、なんとか渋い顔を取り繕った。

「ちゃんと事前にメール送ったじゃないですかぁ。寝てるなんてひどいです」
「メール……? それ、いつの話。」

 先輩は怪訝な顔をして、片手に握ったままだった端末を見遣った。

「今朝です」
「はあ? そんなん見てるわけないでしょ。そもそも今日から、……。」

 なにか言いかけて、先輩ははたと口を閉じた。

「もしかして気がついてないの。」
「え? なにがですか?」
「停電。」

 先輩は慎重そうにそう言って私を覗き込んだ。まるで暗くしてしまった部屋を覗き込んだかのような、あの真っ黒な瞳で。

「停電してんだよ、今日から。東京都が、まるっと全部。」

   ☼

 蝉が鳴き始める頃になると、東京はその全域が停電する。そんな風になってもう何年経つだろう。幸い夏の盛りも過ぎているから、昔のように暑さで死ぬようなことはないだろうけれど、天気予報は連日そのことを報じていたはずだ。うっかりしていた。なにしろ残業続きだった。

 とりあえず、入ったら。と先輩は私の足下の大玉西瓜を見て、仕方なさそうに言った。これを抱えてまた帰すのは忍びないと思ってくれたのかもしれない。家のなかは予想した通り生温かった。でも不思議と居心地は悪くない。古い家だからだろうか。

 先輩は床に落ちたジーンズを履きながら振り返って尋ねた。

「あんたアレルギーとかあったっけ。」
「なんでも食べるのが取り柄です」
「じゃあ冷蔵庫のなか見て、食べられそうなもの持って行って。」

 髪を結いながら歩く背中を追ってキッチンを覗くと、先輩は古く大きな冷蔵庫を開けて、こちらをちらと見た。

「朝ごはん。」

 有無を言わさぬ物言い。だが、長い付き合いだから、先輩が親切にしたいときいつもそういう言い方になってしまうことを私はもうわかっている。だから笑って、

「良いんですか? そんなら全部もらっちゃいますよ」

 そんな風に言葉でじゃれてみせたけれど、しかし先輩は「どうぞ」と言って済ませて取り合わない。でもそれもいつものことだ。冷蔵庫のなかには、確かに電気がないなら早く消費したほうがいいものが沢山あった。開封済みの牛乳。ヨーグルト。バナナ。手作りらしい赤いジャムの瓶。ほかにもあるけれど、とにかく甘いものばかり。

 そっと視線だけを向けると、先輩は三徳包丁を片手に大玉の西瓜を手元でくるくると回しながら、切り込む場所を探しているようだった。ごく普通の包丁なのに、大玉の西瓜に立ち向かうには不釣り合いに小さく見える。それを構えて立つ躰も、こうして見るとやけに小さくて、

「先輩、」

 私は思わず口を開いた。

「私は鐘子しょうこ先輩のこと好きですよ」

 けれど今日も先輩は返事をしなかった。代わりに、ぐっと肩から力を込めて、包丁を俎板に押し付けるように切り込んだ。パキ、と軽い音が鳴ってひらいた西瓜が、赤い身を晒す。それは二等分とは程遠い、片方の西瓜がやけに薄い、二対一くらいに割れた、あまりにも不格好な西瓜だった。ちょっと信じがたいほどの不器用さだ。

「……。こんなに西瓜切るの下手なひと、いるんですね。初めて見ました」
「う……るさいな。しょうがないでしょ、初めてなんだから。」
「え? それなら、」言ってくれれば私がやったのに。

 しかしそう言い終える間もなく、先輩はまた不格好な果肉のうえに包丁を立てて、たちまち細かく切り分けてしまった。それらを皿に転がして、キッチンと隣り合った和室のテーブルに置いた先輩は、振り返らないままこう言った。

「べつにいい。これで誰も困らない。」


   二

 ジャムトーストに西瓜にカフェラテという甘ったるい朝食のあと、東京の街に出るとさらりとしていた。玄関を出たときには涼しいと思ったのに、歩いているうちにだんだんと躰に熱が籠もってきて、喉が乾いてきた。日が高くなってきたせいかもしれない。私の住む学生寮を過ぎて北十間川に沿って歩いていく道すがら、覗いた店はどれもみんな閉まっていた。スカイツリーだけが陽を受けてきらきらとしている。

「本当にみんなやってないんですねえ、日曜なのに……」

 先日できたばかりのカフェもやはり暗い。未練がましく店先を覗き込んでいると、硝子に映った先輩は知らん顔をして畳んだ紙の地図で扇いでいた。

「日曜って言ったって、電気がないんじゃあ商売にならないよ。」
「それでどうやって暮らしていくんですか?」
「そういう澪は、停電のあいだバイトどうするの。」
「お休みっていうか無職です。……ああ、なるほど。そういうことですね」
「そういうこと。」

 先輩は地図を広げながら、ちらと上目に私を見た。

「ていうか、あんた、どこまでついて来るの。」
「だって停電なんて初めてなんですもん……。こんなんひとりにされたら死んじゃいます」
「ま、水も買えないんじゃあね。」

 我ながら情けない声を出すと、大きな溜息を吐かれた。振り返るとバサバサと地図を広げて、先輩は顔を隠してしまった。

「じゃあ今日は隅田公園を確認しに行く。」
「……え?」
「初めてなんでしょ。案内する。」

 そう言った声が少し微笑んでいると思ったのは、気のせいだろうか。

   ☼

 それから朝になるたび、私は先輩の家を訪ね、一緒に朝食を摂り、一緒に街へ出た。停電期間は電波も使えないから、先輩が持っていた紙の地図を広げて、二人でああでもないこうでもないと言いながら歩いた。

 交差点はどこも『歩行者天国』の看板が車道を塞いでいて、駅はJRも地下鉄も入口にシャッターを下ろして『本日運休』の掲示を出していた。ときおり自転車がチェーンを細かく鳴らして通り過ぎていくばかり、私たちの靴底がアスファルトに擦れる音がするばかりだった。街はいつでも静かだった。耳元で渦巻く風の音だけがやけに大きい。

 もしかしたら本当は、私たちはこの街ごと深く深く海の底に沈んでしまったのではないか。
 そんなばかげた夢想をしてしまうほど。

「首都がまるごと停電するだなんて、やっぱりおかしいですよ」

 ときどき私は怖くなって、わざとそんな風に拗ねてみせた。

「しかたない。ないもんはない。」
「こんな砂漠みたいな街、ひとが死んだりしないんですか?」
「するんだろうけど。あ、病院は涼しいよ。」
「そりゃそうでしょう……」
「たった一か月の辛抱だよ。」

 そういうときはいつも、先輩の声は少し優しかった気がする。

「大学始まる頃には全部元通りだから。去年もそうだった。」

 しかしそう言いながら、沈黙する街で、先輩はただでさえ内向きな自己の内側にさらに深く沈み込んでいくように見えた。向かいからひとが来ると、先輩はさりげなく顔を背けて道を変えた。ただでさえ少ない口数がさらに少なくなった。それでも私には何も言わない。

「心配いらないよ。」と先輩はいつもそっぽを向いて言った。

 商業施設もお店もみんな閉まっていたけれど、封鎖された車道を歩いていると、道ばたに長テーブルを出して物を売っているひとびとがいた。聞けば冷蔵庫の在庫処分なのだという。私はポケットの奥から小銭を見つけて、ようやく水分にありついた。生温いお茶を買って飲みながら歩いていると、まるで泡になろうとするように肌にぽつぽつと汗が滲んだ。私はその度さりげなく余所を向いて、胸元にかいた汗を襟首を広げて拭った。

「なんか変にのどかですよね」

 いつも最後に辿り着く隅田公園はここだけ賑わっていて、芝生にはいつ来てもたくさんのひとが転がっている。まるでただひなたぼっこでもしているみたいに。

「ただの日曜日みたい」
「うん……。」

 気がつくと先輩は、少し離れて余所を見ていた。どこを見ているのだろう。わからない。なにを考えているのだろう。わからなかった。

 私は肩を叩こうと手を伸ばしたけれど、しかし結局空中で止めてしまって、その代わりにいつもより明るく声をかけた。

「せーんぱいっ」

 先輩は首だけでこちらへ振り向いた。

「見てください! そこの駄菓子屋さんでハッカパイプ売ってました。一個あげますよ!」
「はは、こどもかよ。」
「いいじゃないですかぁ。たまには童心に返りましょうよ!」

 私にヤイヤイ言われた先輩は渋々ハッカパイプを受け取って、「スースーする。」と言って笑った。
 その日はふたりでハッカパイプをふかして歩いて終わった。そんな風に呑気でいるのが、私にできる唯一のことだと思った。


   三

 肩を叩かれて振り返ったときのことを夢に見た。その手から伸びていた人差し指に頬を突かれて、驚いて見ると、先輩がにやにやしていた。悪戯が成功したこどもみたいな笑み。なにするんですかぁ、と私が笑うと、あの灰色のセーラー服を着た先輩は嬉しそうに口を開いて、

 ……なんと言ったのだったっけ。

 目を覚ますともうすっかり日が暮れて、部屋は真っ暗だった。疲れてまどろんだまま、カーテンも閉めずに寝入ってしまっていたらしい。窓硝子の向こうには街灯もない街が沈黙している。北十間川の水面だけが月なのか星なのか空の明かりを反射して光っている。

 今夜は星がよく見えそうだった。

 私は先輩が譲ってくれた古い電池式のランタンを携えて、そっと部屋を出た。夜の空気はとっぷりと湿ってつめたかった。そっと足音を忍ばせて外階段を降りると、思った通り、夜空に敷き詰められたように星が出ている。天の川。彦星。織姫。はくちょう座、カシオペア座、ペガスス座に、なんとさんかく座の暗い星々まで見える。ランタンの灯りが目に直接触れないように、手を垂らしたまま私はしばらくそれを眺めた。

 どこかに座って、ランタンを消して、そうして見たらきっともっと綺麗だろう。でも、停電で車通りがないとはいえ、いや人通りがないからこそ、道端に適当に座って過ごすのはなんとなく恐ろしい。遊歩道に降りてベンチに座っているほうが、いくらか安全な気がした。

 西十間橋を渡り、しばらく北十間川に沿って歩いて、遊歩道へ降りた。目が慣れてきたのでランタンを消してみると、川面はやはり星空を映して明るい。波がその一瞬一瞬に白く光る。満天の星の下を歩くのは、一滴もアルコールを入れていないのに、不思議な酩酊感があった。現実味がなかったと言い換えても良い。半分夢のなかにいるような気分で、それでも、ひとの気配はわかった。

 ベンチがある辺りに近づくうち、そこにひとつひときわ濃い影があるのが見えてきた。私は先客を驚かせないよう遠くから明るく声をかけた。

「こんばんは! 良い夜ですね」
「……澪?」

 返ってきたのは聴き慣れた声だった。驚いて足早に近づくと、暗くて表情まではわからないものの、そこに座っているのは確かにいつもの先輩の影だった。

「先輩! なんだ、びっくりしました。なにしてるんですか、こんなところで?」
「そっちこそ、なにしてるの、こんなところで。」
「私は星でも見ようかと」

 その答えのなにが引っかかったのだろう、先輩は少し沈黙してからやけにゆっくりと言った。

「星、そういえば好きなんだっけ。毎晩見てるの?」
「いえ、さっき気がついて。停電してるなら星もよく見えますよね。そんなことすっかり頭になかったんですけど」
「ああ、そう。もっと早く教えてやればよかったね……。」

 先輩が少しずれた気配がしたので、私はベンチの片側に腰掛けた。ランタンを点けたほうが良いかとも思ったけれど、先輩が消しているのだから、私が点けては邪魔になるだろうと思い直した。そうして私が星を眺めているあいだ、先輩も黙っていた。透明な水に触れたように、やわらかな風がそっと私たちの輪郭をなぞっていく。昼間とは違う虫が小さな声でリリリリと鳴いている。暗い星も小さな星もあんまりよく見えるので、かえってどれがどの星なのかわかりづらい。

「澪」と、不意に先輩の声が私を呼んだ。
「はい」
「澪はさ、どうして毎日うちに来るの。」

 先輩はやはりやけにゆっくり、慎重に声を出しているようだった。どうしたのだろう。

「迷惑でしたか?」
「迷惑では、ない。けど……。わからなくて。私、」

 先輩は言葉に迷うような様子だった。

「私、なんにもわかんないから。」
「えぇ? あは、」

 なーに言ってんですか、といつも通りに笑おうとしたとき。
 ぐしゅ、と濡れた音がして、先輩が泣いているかもしれないことに私はようやく気がついた。

 なにも言えなくなった。なにか言わなければと思ったけれど、できなかった。

 あの朝。小さな包丁で西瓜を切ろうとした先輩の思い詰めたような横顔のことを急に思い出した。以前訪ねたときと違って、たったひとりでキッチンに立っていた先輩のことを。いつも余所を向いて「心配ないよ」と言う先輩の背中を。

 私がどれだけ好きだと言っても、たとえ愛していると言ったって、このひとには届かないのだと、そんなことにようやく気がついた。

 私じゃだめなんだ。


   四

 翌朝。目を覚ますとやはり静かだった。

 まっしろなワンルームに据えられた、小さなテレビの黒い画面だけが私を見ていた。目覚まし代わりに朝の番組を自動で点けるようにしていたのだけれど、停電が続いているのだろう。リモコンのボタンを押しても、うんともすんとも言わない。奇妙な気分だった。

 私は身支度をする気にもなれず、ただ布団のうえに座って、部屋に射し込む朝陽をぼうっと眺めた。窓を開けていたから、風が通ってさわやかだった。やけにさわやかな朝だった。まだ高校生だったあの夏、先輩とラジオ局へ通っていた日々と同じように。

 私がラジオ局のスタジオで喋っているあいだ、ずっと音声調整卓コンソールにいた先輩の、あの慎重な視線のことを思い出す。あの頃はただ同じ空間にいるだけで満足だった。気持ちが伝わっているかどうかなんて思い悩むことはなかった。こちらを向いてほしいなんて、そんな風に思うようになったのは、いつからだろう。わからない。私にはなんにもわからない。

 それでも、顔を合わせればきっと私は笑って今日も当たり障りのないことを話し始めるだろう。

 そう思っていたのに、いざ家に着いて扉を叩いても誰も出てこなかった。おはようございますと大きな声を出してみても、返事がない。いつまでもどこにも気配の動く様子がない。

 試しにそっと扉を引いてみると、なんと鍵がかかっていなかった。覗き込んでみたけれど、やはりひとの気配はない。

「先輩、おはようございます。……鐘子しょうこ先輩?」

 返事はない。居間はもぬけの殻だ。キッチンにもいない。風呂場でもトイレでもない。襖を開けて寝室を覗いても誰もいない。布団は寝ていたひとがあったらしい形のままでいる。

 焦る気持ちを抑えて見回していると、居間の畳の上に紙の地図がぽんと放り出されているのが目に入った。昨晩、家に送った先輩が別れ際に私の顔を見ずに言ったことを思い出した。

『忘れて。』

   ☼

 湿った風がつよく吹いていた。私の耳を塞ぐように、渦巻いて離れない。

 どうせただの気まぐれだ。どこかのんびり朝の散歩でもしているんだ。すぐに戻ってくる。入れ違いになるほうが困る……と、そんなことを思いながらも、私は居ても立っても居られず、結局家を出てしまった。連絡をとろうと咄嗟に思ったけれど、端末は圏外だった。停電しているから電話もメールもできないのだと、そんなことを今更思い出した。行き先も、考えてみたけれどわからない。

 だからいつもふたりで携えていた紙の地図を抱えて、このひと月のあいだ巡った道を辿り直した。北十間川から、隅田公園まで。いない。隅田川に架かるリバーウォークを渡って、浅草駅前。いない。また隅田川を渡って、両国国技館の脇を抜けて、錦糸公園まで歩く。いない。

 どこにもいない。

 立ちすくんだ私の目の前、まっすぐ伸びていく道の先に、スカイツリーだけがきらきらとしていた。通りの両脇、歩道のところに転々と四角いものが置いてあって薄明るい。ぼんやり眺めるうちに、灯籠だ、と気がついた。夏の終わり、街の住人が絵を描いて飾る日があるのだと、いつだったか先輩が言っていた。

 そのあいだをとぼとぼと歩いていくうち、やがて日が暮れて、街はだんだんと薄い青色のなかに沈み込んでいった。この時間に停電する街を歩くのは初めてだった。それも、ひとりで。周りを見渡してもやはり、行き交うひとはいない。灯籠の薄明かりだけが遠くまで続いていく。動くもののない静けさだけがそこにある。それはなんだかとても恐ろしいことのような気がした。

 全体が暗く薄青い陰になってしまった街のなかで、スカイツリーと、高いところにある雲だけが、夕陽を受けてやけに鮮やかだった。

 スカイツリーだけが私を見ている。


   五

 街をひと回りして戻った先輩の家は、まだ灯りがなく静まり返っていた。私は鍵の開いたままになっている玄関に、靴もぬがないままうずくまって先輩を待った。

 どれくらいそうしていただろう。

 やがて夢うつつ、硝子戸がガタガタと揺れて動く音がした。気配が隣に座った気がして、少し顔を上げると、ひとの形をした影がひとつそこに座っているのだった。

「澪。」と影は先輩の声で私を呼んだ。
「どうしたの。あんたなにしてるの、ひとのうちで?」
「先輩? 本当に先輩ですか?」

 恐る恐る尋ねると、先輩の声が応えた。

「うん。鐘子しょうこ先輩だよ。……本当にどうした?」

 優しい声。私にだけわかる優しさだ。暗闇なか、ぶっきらぼうな先輩の真っ黒な瞳がそこだけ光を帯びて私を慎重そうに覗き込んでいる。

 私は急にほっとして泣きたくなった。

「どうしたって、探したんですよ。先輩、家にいないし。しかも、」

 思わず言い募ろうとして、そこで気がついた。

「なんか、消毒液の匂いがする」
「え? ああ、病院に行ったから、そのせいかな。」
「病院?」
「見舞いに行ってた。おばあちゃんの。……言ってなかったっけ?」
「朝から? それは、……大丈夫だったんですか?」
「うん。べつになんともないよ。もしかして、心配してくれたの?」

 涙声になりそうで、ただ黙って頷くと、先輩は小さな声で「ごめん。」と言った。しかし私がなおも黙っていると、なにを考えたのだろう、先輩はいきなりこんなことを言った。

「澪はさ。毎日来てくれるしさ、今日はそんな顔して待っててくれるし。それって一体なんでなの? 私のこと好きだから? ……いや、違うか。」

 答えられないでいると、先輩は少し笑って、そっぽを向いて言った。

「心配ないよ。ありがとうね。」

 この夏、いつもそうしていたように。でもその声はいつもよりやけに優しかった。
 だから嘘だとすぐにわかった。

「どうしてそんな嘘言うんですか?」
「嘘じゃないよ。」

 先輩の声がまた笑った。

「わかんないんだよ。私には、ただ……。」

 私には、なんにもわからない。と、確かに昨晩先輩は言ったのだった。あの星空の下。それの続きだとすぐにわかった。

「澪が、みんながなに考えてるのか、私にはわからない。どうしてそんな顔して待っていてくれるのか。探してくれるのか。心配してくれるのか……。考えても考えても、わからないんだよ。どうして自分はみんなの言うことがきちんとわからないのか、わからない。どうしてみんなに私の言うことをわかってもらえないのかも。本当は……本当はそれが一番いけないんだって、わかってる。でも、だから……。だから、」

 その声はだんだんと小さくなっていった。 こんなに静かでなければ、きっと聴き取れないほど。

「だからさ。澪が、どうして私なんかを好きって言ってくれるのか、わかんないよ。」

 先輩はそれっきりなにも言わなかった。しばらく沈黙が流れた。
 もしかして先輩はずっとそのことを考えていたのだろうか。この停電した夏のあいだ、ずっと?

 顔を上げると、開いた扉の向こう、青色に沈んだ街のなかにスカイツリーだけが夕陽を受けて輝いていた。あの頃、先輩と別れたあと見上げていたラジオ塔と同じように。先輩は余所を向いてしまって、その表情はわからない。

 私がどれだけ先輩のことを愛しているか、それを伝えたいとまた思った。一体どうしたら先輩に、この気持ちをひとかけらでもわかってもらえるのだろう。どうやったらこのひとのことをひとかけらでもわかってあげられるのだろう。私がいま考えていること、それをどんな言葉にすれば先輩の心に届くのだろうか。考えても、でもやっぱりわからなかった。

「私にだってわからないです。でも……」

 だから今日の私はただ肩に肩をぶつけて、そっと彼女に寄り添って、こう言った。

「いつかわかるって信じてます。だって私たちずっとそうだったんですから。だからきっと大丈夫。大丈夫ですよ」

(終わり)

 
 †

 いかがだったでしょうか。
 『停電する夏』シリーズ、第一話です。

 本作は八年前の今日(2018年9月6日)、北海道胆振東部地震の影響で起きた北海道全土停電の経験をもとに執筆しました。当時住んでいた札幌市は、地震被害こそは軽微でしたが、この大停電により(ほぼ)完全に街としての活動を停止しました。

 現代社会においては甚大な影響だったと言って差し支えないはずですが、その後、天災が語られる際には不思議と名前があがらないように思います。地震や水害の多い今日、電気通信に依存した現代人は、また停電についても備えていかねばならないと思います。この作品に描いた主人公たちの日々が皆様の防災の一助となれば幸いです。

 当時の様子を思い出して書いた記事もありますので、あわせてお楽しみください↓

 

 さて、本作は、自分には珍しく「好き」と言えているふたりです。普段は「好き」と言えない……というところにハードルがあるので、「好き」と言っているのに伝わらないならどうしたらいいのか、というところに話を持って行ってみました。

 胆振東部地震のときの「終わり」感と、コロナのときに「しょうがないよね」で次々に都市機能が廃されていったときの感覚を東京の夏に代入しただけなので、実は停電の設定についてはあんまり深く考えていません。自動車とバイクくらいは走っていてよかったかもしれないし、本当はもっと現金限定の野良店舗は元気にたくさんやっていたのかもしれない。まあ浅草のほうとかは賑やかだったのかも。そのへんも続編で書けたらいいなと思います。

 

2026.09.06
北海道胆振東部地震8年目に寄せて


気に入ったら、「↑フォロー↑」、「↓スキ♡↓」よろしくお願いします。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集