掌編 桃の記憶 太陽の鞄
記念旅行に行こうよ、と言ったのは誰だったかもう覚えていないけれど私とキコと結婚が決まった玲奈の三人で、南仏の小さな町に一軒家を借り、独身ラストのバカンスに出た。
マルセイユから車で二時間。舌を噛みそうな地方をいくつも過ぎて辿り着いたプロヴァンスの旧市街はジオラマを想わせた。岩壁に張りいて建った家々に木漏れ日が降りそそぎ、壁を這うツルバラの下で首輪のない犬が微睡んでいる。太陽が近い。眩しい光景を作りだす犯人は空から降ってくる光の粒子だ。
目が痛いよとキコがまつエクを濡らして訴え、途中にあった露店で四ユーロのサングラスを三人で買い、丘を登りきった一軒家にたどり着くと、旧市街の街並みが見渡せた。部屋中にカラりとした風が通りプロヴァンス柄のカーテンが膨らんだ。
キコは「映画みたい!」「ヤバイ!」とはしゃぎ、玲奈がインスタに載せるための写真を撮っていた。
ねえ、知ってる?『Léon(レオン)』で無敵の殺し屋役だったジャン・レノの別荘が近くにあるんだって、と玲奈は言い、リュック・ベッソンの映画なら『グラン・ブルー』が好きだなと私は思った。
私たちは市場で買った野菜を調理し、夜は地元の冴えないバーで踊ったり声をかけてくる男の子を無視してワインを開け、声を張り上げてみんなで幸せになろうねと乾杯した。
キコがワインで顔を赤くしている間、私はグラスに映る自分の顔がちゃんと笑えているかを確認していた。数日前に姉が姿を消した。それは当然のことのように思えた。優等生気質の姉が婚約者に捨てられたばかりか、その彼と私が寝ていたことまで知ってしまったのだから。
姉の部屋に入ると、窓の下に誰のものかわからない大きな鞄が投げ出され、そこだけ陽が当たっていた。黒い革製で中身が入っておらず、ぐにゃりとして、毛むくじゃらの生き物がそこに寝そべっているように見えた。鞄の表面は太陽の光に温まり、触ると生きている動物みたいで、その時ふいに、鞄の中にそれぞれの内臓を入れて持ち歩くのが人生なのかもしれないと思った。
姉は携帯すら持たずに消え、どう探してもわからずじまいで、困惑した婚約者の彼と話もせずに私はここへ来た。玲奈とキコに姉のことは黙っていた。このご時世、事件でもない限り大人が失踪したなんておとぎ話、誰も聞きたくないのだ。
毎朝丘を降りて南仏の乾いた風を浴びた。
光の強い場所で歩いていると自分が暴かれる法廷にいるように感じてならなかった。何が暴かれるのか。自分でもわからない。暴くのは人ではなく、太陽や風や光で、そうやって自然に侵されていくときこそ誰もがアイデンティティをはぎ取られ、曖昧な役柄に徹しているのがわかる。光は容赦がない。
市場では陽に焼けた「顔」と言う仮面をつけて皆が歩いている。そこから何かしらの負の感情を汲み取ることはできなくて、白い石畳が続く路地は劇場みたいで、露天を横切っていく彼らの躰からは健康的に薄められた偽りの匂いがして、好奇心を露骨に見せながら小さく合図をしているように私たちを見ていた。その鋭い視線が警告なのかそれとも慰めなのかわからなかった。
三人はよく灼けた肌を出してサンダルと麻のワンピースで歩き、チーズとバゲッドと桃を抱えて家に戻った。
荷物を置くとマルシェバッグから桃がごろんと転がり落ちた。床から拾いあげた桃の産毛に触れたとたん、脳裏に彼の肌がよぎった。
彼は全身に体毛があった。あの夜、彼は毛深い獣のような太い指で私の首をぎゅっとつまんだ。野生の匂いのする指で一番感じやすい部分を触られ、さっと一面さざ波がたった。皮膚から内臓まで波が侵入してくるみたいだった。
彼は存在するだけで周囲を幸福にさせ、ちょっと歯を見せて笑う人だった。誰かを幸せにしてることに気づいてる男の顔だった。姉とは正反対だ。姉は、全部を自分でコントロールできると思いこんでいて、ステイタスやお金といった具体的なものだけに執着し、私のようなふらふらした生き方を徹底的に嫌っていた。その即物的な姉の思考は逆に強く、抽象的にしか生きられない私に恐れを抱かせた。
どうして彼は姉と婚約したんだろう──姉は私にとって最大の闇だった。歩み寄っても傷つけられるだけで、精神的エネルギーが恐ろしくかかり、そのことに私はすっかり疲れ果てていた。
だから私は、彼に近づいた。
彼が野生のままであるように。
傷を負った獣が罠に捕まらることのないように。
桃を手に立ちすくむ私に、玲奈が「帰ったらドレスを一緒に見て」と首を傾げ、その横でキコが「次はあんたの番ね」と肘を突いてきた。
桃の甘い匂いが鼻の奥にこびりついて二人の声が遠くなる。私は笑ってうなずく。笑うことなら、できる。
あの夜、彼の濃密な胸毛の森に頬を埋めた。薬草みたいな甘苦い匂いが汗と混ざって息を吸うたびに私と彼の肌の境目が曖昧になった。唇が彼の森に触れた瞬間、世界の輪郭すべてが消えた。かたい毛におおわれた獣みたいな指が私を引き寄せ、私のやわらかな内側を開き、ずっと閉じていた暗闇へ潜りこんできた。
何か大事なものを譲り渡してもいいような気持ちになる獣──だと思った。そして姉は確かに、あの男のために大事なものを渡した女の一人なのだろう。
銀色の産毛がびっしり生えた桃の皮をナイフで剥いた。庭のオリーブの木が風に揺れていた。どこかで犬が吠え、遠くで若者たちの声とギターの音が聴こえた。
なぜだろう。人間はいつも矛盾そのものを心の奥で望んでいる。大切な人が変わらずにそこにいてくれること、同時にその人がいなくなってくれること。少なくとも姉が消えてしまっても少しも不思議ではないという思いがありながら、一方で何事もなかったようにあの部屋に戻ってくる姉を信じている自分がいる。それはあの物言わぬ獣の皮膚の記憶のせいかもしれないけれど。
明後日はアルルの黄色いカフェまで出かける予定よとキコが言い、玲奈がキュッと音を立ててロゼワインのコルクをあけた。どこにでもあるような時間だった。ありふれているのに、もう二度と過ごせないのだと思うと舞台装置みたいに特別な時間だ。帰国したら私は、結婚式で微笑むのだろう。彼女たちの前で今よりずっとうまく、笑うことができるのだろう。
「そういえば」と私は声を出した。
「映画の中で、大量のショットガンを詰めた鞄を持ち歩く殺し屋のジャン・レノに『大人になっても人生は辛い?』と訊いた少女は誰だったけ?」
きょとんとした表情の二人が
「ナタリー・ポートマンよ」と得意そうに教えてくれた。
そうだ。あの少女だけが最後まで大事なものを譲り渡さなかったのだ。
(了)
短い物語を書いています。よろしければ覗いてみてください✨
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