第1話 備えゼロの家に、防災リュックだけがあった
本作はフィクションです。登場する家族・出来事は架空ですが、制度・金額・災害想定は東京都や国の公開情報に基づいて書いています。
玄関の隅の、赤いリュック
うちの玄関には、赤い防災リュックが置いてある。
買ったのは颯太が生まれた年だから、もう8年前になる。ネットで「家族4人用」と書いてあったものを、妻の美咲が深夜に注文した。翌々日に届いて、玄関の靴箱の横に置かれ、それから一度も開けられていない。
僕は高橋圭一、43歳。世田谷区の、築14年の木造2階建てに住んでいる。広告代理店で働いていて、平日は帰りが遅い。美咲は在宅で翻訳の仕事をしている。長女の結衣は中学2年生、長男の颯太は小学2年生。それから、車で10分ほどの場所に、母の節子が一人で暮らしている。72歳になった。
2027年9月のはじめ、その赤いリュックを、颯太が開けた。

学校で防災の授業があったらしい。「うちの防災グッズを見てくる」という宿題だった。颯太は張り切ってリュックのファスナーを開け、中身を居間の床に並べていった。
乾パンの缶。500mlの水が4本。アルミの保温シート。軍手。ホイッスル。小さなラジオ。そして懐中電灯。
「パパ、これつかない」
颯太が懐中電灯のスイッチを何度も押している。電池は入っていた。でも、8年前の電池だった。裏蓋を開けると、白い粉が吹いていた。
「電池、買ってこないとね」
美咲がそう言って、その日のうちに単三電池を1パック買ってきた。懐中電灯はついた。颯太は満足して、リュックに中身を戻し、宿題のプリントに「かいちゅうでんとう、ある」と書いた。
僕はその横で、水のペットボトルの底に印字された日付を見ていた。賞味期限は2年前に切れていた。
「うちは大丈夫」の中身
正直に言うと、僕は防災というものを、少し他人事だと思っていた。
家は新耐震だし、ハザードマップでも世田谷のこのあたりは浸水想定に入っていない。区の避難所は歩いて7分の小学校で、颯太が通っている学校だ。水と食料は、リュックに入っているし、パントリーにもカップ麺やレトルトがある。
「なにかあっても、2〜3日は大丈夫でしょ」
そう言うと、美咲は少しだけ首をかしげた。
「2〜3日って、電気がない2〜3日のこと?」
僕は答えられなかった。想像したことがなかった。停電というのは、僕の中では、台風の夜に1〜2時間、テレビが消えるくらいの出来事だった。
結衣が横から口を挟んだ。
「スマホの充電、どうするの」
「モバイルバッテリーあるじゃん」
「あれ、パパがずっと会社に持っていってる」
そのとおりだった。家にあるモバイルバッテリーは1個で、それは僕のカバンの中にある。しかも、最後に充電したのがいつか思い出せなかった。
停電した家の中を、想像してみる
その夜、子どもたちが寝たあとで、美咲と少しだけ話した。
「もし今、電気が止まったら、何が動かなくなると思う?」
冷蔵庫。エアコン。照明。Wi-Fi。給湯器。トイレの温水便座。炊飯器。電子レンジ。スマホの充電。
指を折りながら数えて、途中で数えるのをやめた。ほとんど全部だった。
給湯器が止まるということは、お湯が出ない。うちはガス給湯だけど、点火や制御に電気を使うから、停電するとお湯が出ない。それを美咲が知っていて、僕は知らなかった。
「お風呂に入れないのは、まあ我慢できるとして」
「冷蔵庫は?」
「開けなければ、何時間かはもつって聞いたことある」
「何時間?」
「……調べる」
そんな会話をして、その日は寝た。翌日から仕事が立て込んで、調べるのを忘れた。防災リュックは玄関の隅に戻り、新しい電池が入った懐中電灯だけが、少しだけ前より頼もしくなった。
それが、2027年9月のはじめの、僕たちの「備え」だった。
あの夜が来るまで、あと3週間だった。
▼調べてみた|「電気が止まった家」で最初に困るもの
このコーナーは、作中で家族が疑問に思ったことを、公開されている情報で確かめる場所です。
停電したら何が止まるのか
作中で圭一が数えたとおり、家の中の設備はほとんど電気で動いています。見落としやすいのは次の3つです。
ガス給湯器:燃料はガスでも、点火・制御・リモコンは電気です。停電するとお湯が出ません
温水洗浄便座:水は流せますが、暖房便座・洗浄は止まります。タンクレス型は水を流す操作にも電気が要る製品があります
固定電話・インターホン:光回線の電話やモニター付きインターホンは、電源がないと使えません
冷蔵庫は何時間もつのか
メーカーや庫内の状況で大きく変わるため、ここで一つの数字を断言することはしません。共通して言われているのは「扉を開けない」「冷凍室は保冷剤の役割をする」の2点です。作中でも、この答えは第5話で家族が身をもって知ることになります。
在宅避難という考え方
東京都は、自宅が安全なら避難所に行かず自宅で生活を続ける「在宅避難」を、防災の基本の一つとして案内しています。避難所は、自宅に住めなくなった人のための場所という位置づけです。在宅避難をするなら、電気・水・トイレを自分で確保する必要があります。
東京都防災ホームページ:https://www.bousai.metro.tokyo.lg.jp/
防災グッズの点検
第2話で詳しく触れますが、防災グッズを「1年に1回以上点検している」と答えた戸建て世帯は、ある調査では3人に1人でした。高橋家の8年前の電池は、決して珍しい話ではありません。
次回、第2話「『電源の備え』だけ、3割しかできていないらしい」。圭一が会社で見かけた、ひとつの調査の話です。
