#340 映画「それでも私は」20251002更新 予告編あり
私は、加害者家族のほぼ全員が被害者だと思う。とくに子どもは100%被害者だと思う。
加害に加担していないなら加害者ではないし、もし関係していれば法で裁かれるはずである。
もし、仮にグレーに見えるケースがあるとしても、12歳の麗華さんは間違いなく被害者だと思う。
数年前の著書も初版新品を買って拝読した。
森監督の「A」も買った。サブスクで見られなかったし、映画館に間に合わなかった。
もちろん、私はオウム真理教の信者ではない。
オウム真理教事件の関係者でもない。
でも、あの時代を共に生きていた。
駅前で信者がカセットテープやグッズを売る姿も、
選挙活動もリアルタイムで見ている。
お父さんの出演するバラエティ番組などは見ていなかったが、
松本のニュースも、山梨のニュースも見ていた。もちろん、あの日の地下鉄の報道も知っていた。中学校の教室で話題になったが、JR鉄道にすら数えるほどしか乗っていない私には遠いところの話に感じた。ただ、驚いていた。
真実、いや共有されている事実すら分からなかった。
私が地下鉄に乗るのはお正月に上京するたった1日と、数年に一度たまたま表彰されるときだけ。それもお稽古代を納めていたおかげだと思う。こんなこと言ったら大人げないのだけど、ドコドコ教室のダレダレ先生の生徒さん、って枠があると思う。だって多くのみんながお手本通り書けるし、本当に上手だから比較できないのだ。
今なら頷ける。
話を戻そう。
この映画の予告編で
「自分の経験を生かして、誰かの役に立ちたい」
と、麗華さんのコメントがあるが、
【経験】にも【誰か】にも、私は違和感を感じた。
我慢していると思った。
言葉を選びすぎていると感じた。
経験とは、社会が彼女を差別し続けてきたことに直接起因するだろう。
私が傷ついてきたこと、そのへんを歩いている人が当たり前に認められていることが退けられてきたこと、どこへ行っても差別されてきたこと、お父さんと過ごせなかったこと、晩年の訴えが受け入れられなかったこと、などなどが私の頭の中にパパパッと浮かんだ。
【誰か】と言わず、まず自分を大切にできるようにしてほしい。でも、誰かの役に立つことを通して自分の傷ついた気持ちや行動が癒やされたり、安心したりすることができるのは事実だと思う。
具体的には【当事者同士】なのかもしれない。
肩書は、社会活動家と書いてあった。
大学に行けたと、私は過去にどこかで読んだ。
幸せになる権利はある。絶対にある。
その権利がないなんて書き込みを放置したのならそれは大人が悪い。
書いたやつは罪を償うべきだ。
今も本当にそう思うのか。
暇人だと思うが、その人も差別されているのだろうと推測できる。
幸せになってほしい。
予告編を載せたい。
うまく乗せられなかった。
後でまた試みる。
2025/10/02、予告編を載せられた。
また泣いている。
だって、おかしいじゃないか。
お父さんである人間が殺されて、
その理由が納得いかないなんて。
指示したのは俺だとはっきり知りたい。
私ならそうしたい。
でも、そうはいならなかった。
国は何をしている。
国を守り、栄えたか?
皆貧しくなり、不安だ。
安定している人はどこにいる。
不安だからよけいに宗教は栄える。
松本さん、幸せになってほしい。
誰かの役になんて経たなくても、
あなたはあなたを大切にして生きることで、
誰かを必ず勇気づける。
だから生きてほしい。
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追記
たくさん見て頂き、ありがとうございます。
私は、何を書いたのだろう。
衝動で書いて上げている日々なので。あまり振り返らない。
どうやら、予告編が貼り付けられなかった私。
私は応援している。
だって、こどもは、親を選べない。
親だって子どもを選べないけど、親は職業を変えたり、住処を変えたり、何かしら変わることができる事が多い。でも、こどもにとっては、それがとてもとてもハードルが高い。それなのに、責められ続けるのは人権侵害である。
何回も繰り返すが、私はオウム関連の信者ではないし、ひかりの輪の勉強会に参加している人でもない。また、どこの信者でもない。ただ、今を生きる40代だ。
松本さんの人権は、当たり前に尊重されるべきだと思う。
もう一度、予告編の貼り付けに挑戦しよう。
