自由の再定義 ― 母子三人、避暑地への冒険
旦那抜きの家族旅行。
それは、かつて独身時代にバックパックを背負って海外を彷徨った私の「旅の原点」を呼び覚ます体験だ。
私は、綺麗な水のある風景が好きだ。言葉も不自由な異国で、必死に下調べをして、出発前の憂鬱を抱えながらも飛び出していく。そこには、ちょっとした寄り道や、気の向くままの買い物を許す、絶対的な自由があった。
唯一の難点は食事だった。女一人の海外、レストランの敷居は高く、酒も自室でしか飲めない。夫と初めて旅をした時、その食への探究心に驚き、大人の相棒がいるメリットを噛み締めたものだ。
だが、夫は忙しい。旅に出たい私と、動けない夫。
家で日常を回す頑張りも、旅先で非日常を乗り越える頑張りも、労力としては大差ない。ならば、私は旅先で頑張る方を選びたい。そんな動機で、私は8歳と4歳の子供を連れ、車で数時間の場所にある高原へと向かった。
宿は、夫がいれば選ばないであろう恐竜が壁一面に描かれた部屋。食事は適当なビュッフェ。哺乳類が苦手な私だが、子供たちのために乳搾りや乗馬のアクティビティを分刻みで詰め込む。
運転はすべて、私。
牛に餌をやり、馬に乗り、冷たい牛乳を飲む。午後は貸切状態のプールで遊び倒す。夕食が期待外れでも、「明日の昼を奮発しよう」と一人で決めて切り替える。帰りのハンドルを握る腕は確かに疲労していたが、心は驚くほど軽かった。
なぜ、これほどまでにノーストレスだったのか。
それは、誰の意向も伺わなくていいからだ。出発の時間も、選ぶ食事も、子供の「あれに乗りたい」という要求への返答も。私のルールだけで完結し、誰の不機嫌にも、誰の「えー」という溜息にも、気を遣う必要がない。
家族全員の旅行が、いかに「調整」と「忖度」の連続であったかを、夫の不在が逆説的に証明する。
もちろん、大人二人の旅にはその良さがある。家族揃った旅も良い思い出になる。だが、自分の采配だけで子供たちを冒険に連れ出すこの達成感は、これでしか味わえない価値がある。
日常の「澱」を高原の風に流し、私はまた次の「非日常の頑張り」を計画し始めている。
