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自由について家庭でどう教えるか?

あるSNSで流れてきた動画。

「日本人の自由って、ちゃんと相手のことも考えるよね。アメリカ人は(SNS内での発言そのまま)自分の自由しか考えない」

難しい問題だな。

家庭の中でどう自由について教えるのがいいのだろう。

「個人の自由じゃん。僕の自由だろ、私の自由でしょ。」

それを際限なく認めたら、お互いに関係が作れなくなることは想像できる。

人間は社会を形成してその中で役割の担い、受け継ぎその社会を維持することで自分たちの生命、生活を守ってきた動物だと考えれば、自由も大事だけど社会の中でお互いに認め合った自由というものを意識せざるを得ないんじゃないかと思う。

そこで重要になるのが”社会”というものの存在をどうとらえるか。

社会があるから自分たちの生活、生命が維持される。社会活動とはそのために存在している。その社会では個々の人に役割があり、集団でそれを全うする。

社会が大きくなると、役割も増える、役割を担えない人もでてくるし、役割を担わない人も出てくる。その社会を否定する人もでてくるし、その社会で決めたことに従わない人も出てくる。

そうすると、社会にルールが必要だねということになる。とてもゆるくルール決めされていた時、そのルールは一定の暗黙の了解あるいは明示的了解の上で合意形成されてきたが、それに従わないならどうしても、従わせる必要が出てくる。従わせる理由は、社会を維持するため。社会は生活の基盤だから。

こうやってルールができて、法律になり、法に従わない人を取り締まる法律ができる。

これが原理だけども、このルールを過剰に適用してしまうと、個人の自由を制限することにつながってしまう。

人の生活、生命のために社会を維持するのに、その社会が人の自由や生活を制限する。

また、よこしまな考えを持つ権力者が、ルールを作る権利を独占してしまうと、すべて自分の思うがままに人の自由を制限できてしまうことにもつながる。そういう権力者は、「社会のためだから」とみんなで痛みを分かち合う崇高な考えこそがよりよい人間社会に必要だと信じさせる。

表面上は間違っていないけども、どこまで人間の自由を制限していいのかの議論が抜け落ちていれば危険でしかない。

その為に、ルールや法律はみんなで決めようという、未来永劫ゆるがさない原則を決めることにした。それがその国の法律。簡単にいえば憲法・国法。

みんなで決めるためには、みんなの意見が必要だから、全員参加で議論しよう。でも全員といってもあっちこっちに大勢の人がいる。ならば代理の人に議論してもらおう。それが代議士。

代議士は特定の誰かの意見を、みんなで議論する会議にでて話し合う。最後は多数決で決めるのだけども、多数決だから”正しい”わけではないという前提に基づいて、意見の交換を繰り返す。様々な疑問、問題、矛盾、公平性、平等性や権利の侵害などがないかについても議論する。

そうやってルールを決める。

その時、個人の自由が脅かされるルールにならないかを厳しく見ておく必要がある。もしルールに瑕疵があるなら、ルールを改正しなければならない。

このようなルール策定のプロセスはいわゆる民主社会で普通にあるのに、なぜ民主主義国家である日本と、アメリカでは自由の定義が違うのだろう。

それはそもそも、その制度の前に、日本人が”おとなりさん”を大切にする文化を長く築き上げてきたからではないだろうか?

みんなで仲良く、教室の掃除、学校行事、給食、遠足などが小学校や幼稚園から経験できる指導要領が存在するのは、”おとなりさん”と仲よくしようよという長年の日本の文化があるからではないだろうか。

私の自由の範囲、あなたの自由の範囲。それをうまく調整する能力が日本の教育にはある。理屈ではなく肌感として。

家庭の中で、自由というものについてどう教えるか、自分の自由だけでなく、相手にも自由がある。それをどうすればお互いに侵すことなく、譲り合うようにできるのか。

意図的に学校がそういう宿題を出すこともあってもいいのかもしれない。

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