見出し画像

この日のこと

31年前、出勤することができなかった上司の代替通訳要員で、社長と専務に挟まれて社用車(ハイヤーだったかもしれない)に乗せられ、海外顧客とのランチミーティングに連れていかれた。


ところは高級料亭である。

挨拶に出てこられた年配の着物姿の女性と社長が
「こんな日にすみませんね、女将」
「いえいえこちらこそこんな日に、変わらずお越しくださいまして」
などと言葉を交わしていた。
こんな日にお店を開けておられるとは、流石高級料亭は違うのだなと感じ入った。


隣には社長と専務。社長とは挨拶くらいしかしたことないし、ふだん東京駐在の専務とは顔を合わせるのも初めてだ。
そして対面にはいかついゲルマン系のおっさんが二人。

こんな状況ですから今日は仕事の話はやめておきましょう。
…と、言ってたのに。社長言ってたのにしっかり仕事の話になっとるやないかーい!と、スラスラ通訳できるほど英語がペラペラではない(それどころかぺrくらいである)あたしはたぶん、緊張のあまり目が泳いでいたと思う。


泳ぐ目の前にはそれはそれは美しいお料理があった。ように思う。
縁高か松花堂だったと思う。
たいそう美味しかったんだろうと思う。
何のどんなお料理を出されてどのようにいただいたのか、お味がどうだったのか、さっぱり記憶にない。


あたしはたいへんな食いしん坊である。
出されたものは残さずいただくし、どこそこでいただいた何々の味、などをかなりはっきりと記憶しているほうだ。

それがほんとうにこの日は、緊張していたことと「料理を口に運んでいる自分」を俯瞰しているような記憶しかなく、こんな状況でなければ美味しいお料理を堪能できたのにと思うと悔しくてならない。
もっともこんな状況でなければこんな高級な料亭なんぞで食事をすることもなかっただろうが。

そして心に強く思った。
いつか必ず、ここへ食事にこようと。仕事以外で。


数年後、そのお店がニュースやワイドショーを賑わせていた。
記者会見の場で、あの女将が取締役だとかいう息子の耳元でヒソヒソ囁いていた。


いつか必ず、の夢は叶わぬまま潰えてしまった。


いいなと思ったら応援しよう!

ともこ サポートいただけると励みになります。よろしくお願いいたします。