小説『竜をたべた町』
あらすじ
大洪水によって大地を失った人々は、巨大な竜の背に避難し、町を築き、竜を崇めながら暮らしていた。
ところがある日、ある若者が竜の鱗の下に肉があることを知り、刃を入れる。
恐る恐る口にしたその味は、驚くほど美味かった。
やがてその美味さは町中に広まり、人々は「恵み」と称して、竜の肉を食べ始める。
そして刃がついに竜の心臓へ届いたとき、竜は町もろとも海へ落ちた。
一匹の竜の死は、海の上に生きるほかの竜たちの運命をも変えていく。
第一話 「竜をたべた町」
その町は、巨大な竜の背中にあった。
昔、世界には陸があった。山があり、森があり、川があり、畑があり、人々はそこに家を建てて暮らしていた。
けれど、あの日、空の底が抜けた。雨は降り続けた。川はあふれ、谷は消え、町の広場を魚が泳いだ。最後には山の頂まで波に飲まれ、地図に描かれていた線はすべて意味を失った。人々はそれを、死の大洪水と呼んだ。世界は海になった。どこまでも青く、冷たく、帰る場所のない海だった。
その海の上に、竜がいた。山のように大きな竜だった。背には草原があり、肩には森があり、鱗の隙間からは温かな水が湧いていた。尾が動けば島ほどの波が立ち、首をもたげれは雲が裂けた。だが、その竜は穏やかだった。海に投げ出された人々が舟で近づいても、竜は彼らを振り落とさなかった。泣く子を抱いた母親が鱗にすがっても、老人が額をつけて祈っても、竜はただ静かに呼吸していた。その呼吸で、背中の草が揺れた。
人々は竜の背に上がった。はじめは一時の避難のつもりだった。雨がやめば海は引く。海が引けば、いつか町へ帰れる。誰もがそう信じていた。
だが、海は引かなかった。一年が過ぎても、二年が過ぎても、舟を出した者たちが見つけたのは、水と雲と、沈んだ山の先だけだった。
人々は、竜の背に住むしかなくなった。壊れた舟を逆さにして家ができた。鱗の谷間に道が通り、湧き水のそばに広場が作られた。温かな地には芋が植えられ、丘には果物が根を張った。
竜の背は豊かだった。竜が息を吸うと、町はほんの少し持ち上がった。
竜が息を吐くと、草原は静かに下がった。はじめは子どもたちが泣いたが、やがてその揺れに合わせて眠るようになった。夜には、床下から低い響きが聞こえた。それは竜の鼓動だった。子どもたちはその音を聞いて育った。老人たちはその音を聞くと、まだ大丈夫だと思った。町の者たちは、その音を聞きながら、ここでなら暮らしていけると信じた。
人々は竜を崇めた。竜の名を知る者はいなかった。ある者は「背中さま」と呼び、ある者は「大きな母」と呼び、ある者はただ「竜様」と呼んだ。祭りの日には鱗の上に花を置き、湧き水に酒を注ぎ、子どもたちは竜の背に向かって歌を歌った。
竜は何も言わなかった。ただ、町を乗せたまま、静かに呼吸していた。
長い年月のうちに、竜の背で生まれた子どもたちは、陸を知らなくなった。彼らにとって大地とは、少し温かく、ときどき上下するものだった。
町は栄えた。市場ができた。鍛冶屋ができた。祈りの塔が建った。人々は結婚し、子を産み、死者を竜の背の森に埋めた。嵐の日にも、荒波の夜にも、町は竜の背に守られていた。人々は、竜に感謝していた。少なくとも、そのころは。竜の背を大地と呼び、竜の温もりを春と呼び、竜の沈黙を慈悲と呼んでいたころは。
その若者は竜の背で生まれた。だから陸を知らなかった。沈んだ町も、流された畑も、海に消えた墓も知らなかった。老人たちが語る死の大洪水の話は、彼には遠い昔話だった。彼にとって世界とは、竜の背だった。少し温かく、ときどき上下する大地。草が生え、水が湧き、鳥が鳴き、子どもたちが走る場所。竜はあまりにも大きかったので、若者にはそれが生き物だという実感がなかった。
その日、若者は仲間たちと、背骨の丘の向こうにある鱗場へ行った。本当なら、森で薪を集めるはずだった。だが若者たちは仕事をさぼり、鱗の上に寝転がって、腹が減っただの、芋粥は飽きただの、くだらないことを言い合っていた。
ふと、若者の指先に何かが触れた。一枚の鱗の端が、わずかに浮いていた。
「おい」
若者は体を起こした。
「これ、剥がれそうだぞ」
仲間たちが覗き込んだ。鱗の下には、薄く赤いものが見えた。
「やめとけよ」
ひとりが言った。
「そこ、竜様の体だろ」
若者は笑った。
「体っていったって、こんなにでかいんだぞ。ちょっとくらい、わかりゃしない」
若者は腰の小刀を抜いた。刃を鱗の隙間に差し込み、持ち上げる。はじめは動かなかった。けれど、両手に力を込めると、ばり、と乾いた音がした。
鱗が剥がれた。若者たちは黙った。
そこにあったのは、土でも、石でも、木の根でもなかった。
肉だった。
赤く、温かく、濡れていた。薄い膜の下に血管のようなものが走り、ゆっくり脈打っていた。鱗の下から立ちのぼる熱気に、誰かが顔を背けた。しばらく、竜の呼吸だけが聞こえた。
若者は、小刀を握り直した。彼は言った。
「少しだけ、切ってみる」
刃が膜に触れた。その瞬間、足下の大地が、びくりと跳ねた。若者の膝が浮いた。仲間のひとりが短く声を上げた。遠くの草原で、鳥が一斉に飛び立った。鱗の隙間に溜まっていた水が、小さく波打った。若者は手を止めた。切っ先は、まだ肉に触れていた。誰も動かなかった。やがて若者は、小さく笑った。
「生きてるんだから、動くに決まってるだろ」
そして、刃を押し込んだ。肉が裂けた。透明な脂が滲み出た。赤い肉は細かく震え、刃を避けるように縮んだ。若者はそれを見ていた。見ていながら、止めなかった。刃を引く。押し込む。また引く。刃が入るたび、足下から低い震えが伝わった。
仲間のひとりが言った。
「もういいだろ」
若者は答えなかった。やがて、手のひらほどの肉片が取れた。それは重く、柔らかく、まだ温かかった。切り口から白い脂が垂れ、若者の指を濡らした。若者はそれを見下ろして、なぜか笑った。
「肉だ」
誰も返事をしなかった。
若者たちは森の陰へ行き、小さな火を起こした。最初は、誰も食べるつもりなどなかった。ただ焼いてみるだけだ、と誰かが言った。ただ匂いを確かめるだけだ、と別の誰かが言った。
肉を枝に刺し、火にかざした。脂が落ちた。じゅ、と音がして、炎が青く跳ねた。匂いが立った。若者たちは黙った。それは、獣肉の匂いではなかった。魚の匂いでもなかった。焦げた脂の奥に、甘い果実のような香りがあり、焼けた皮の香ばしさがあった。
腹が鳴った。最初に鳴ったのは、若者の腹だった。次に、仲間の腹が鳴った。誰かが笑った。その笑いで、沈黙が破れた。
「少しだけだぞ」
仲間のひとりが言った。
「味を見るだけだ」
若者は焼けた肉の端を切り、自分の口へ運んだ。
噛んだ瞬間、目を閉じた。
柔らかかった。
ただ柔らかいだけではなかった。噛むほどに旨味がほどけ、舌の奥に熱が広がり、胸の内側から体が温まっていった。塩も香草もない。ただ焼いただけなのに、これまで食べたどんなものより深く、満ち足りていた。
若者は、もう一口食べた。仲間たちも食べた。誰も、竜のことを口にしなかった。肉はすぐになくなった。手のひらほどの肉は、四人の腹を満たすには少なすぎた。けれど、その少なさが、かえって彼らを黙らせた。
もっと食べたい。その言葉だけが、誰の口からも出なかった。
夕方の鐘が鳴った。若者たちは火を消し、町へ戻った。鱗場の方は見なかった。
若者の舌にはまだ味が残っていた。喉の奥には熱が残っていた。指先には、肉が震えた感触が残っていた。
町の入口で、犬が彼らの匂いを嗅いだ。市場の女が振り返った。腹を空かせた子どもが近づいてきた。
「何食べたの?」
若者は答えなかった。答えなかったが、笑ってしまった。
その夜、若者たちは誰にも言わないと誓った。けれど翌朝、町には、誰も知らないはずの匂いの話が広がっていた。あの若者たちは、何かを焼いて食べたらしい。
ひどく美味そうな匂いだったらしい。獣ではない。魚でもない。では、何の肉だったのか。そして数日後、人々は若者を連れて鱗場へ向かった。
剥がれた鱗の下を、確かめるためだった。
若者が竜の肉を食べたという噂は、二日も経たないうちに町じゅうへ広がった。
最初は、誰も本気にしなかった。竜を食べるなど、ありえないことだった。竜は町の大地であり、屋根であり、寝床であり、祈りの向かう先だった。その竜に刃を入れた。その竜の肉を焼いた。その竜を食べた。そんなことは、悪い冗談でなければならなかった。だが、若者たちの服に染みついた匂いを嗅いだ者がいた。市場の犬が彼らの後を追ったのを見た者がいた。腹を空かせた子どもが、彼らに「何を食べたの」と尋ねたのを聞いた者もいた。
何より、若者自身が否定しなかった。問い詰められると、彼は笑ってごまかした。次に黙った。最後には、面倒くさそうに言った。
「少しだけ、食べたんだよ」
その言葉で、町は静まり返った。少しだけ。それは、罪を小さく見せる言葉だった。
祈りの塔の老人たちは怒った。母親たちは子どもを家の中へ入れた。町長は若者を広場へ呼び出した。広場には人々が集まり、若者はその真ん中に立たされた。
「本当に、竜様の肉を切ったのか」
町長が尋ねた。若者は答えなかった。
「食べたのか」
若者は唇を舐めた。それを見た者がいた。老人のひとりが杖で地面を叩いた。
「答えろ!」
若者は、ようやく言った。
「食べた」
広場がざわめいた。
「どこを切った」
「鱗場だよ」
「竜様はどうされた」
「どうって」
若者は少し考えた。
「びくっとした」
広場は、また静かになった。
「刃を入れたら、肉が動いた。けど、それだけだ。竜様は暴れなかった。町も落ちなかった。今だって、こうして無事だろ」
誰かが息を呑んだ。若者は続けた。
「こんなにでかいんだ。手のひらくらい切ったって、死ぬわけない」
怒号が上がった。罰当たりだ。黙れ。竜様に詫びろ。お前は何をしたかわかっているのか。若者は肩をすくめた。
「じゃあ、見に行けばいい」
誰もすぐには動かなかった。だが、その言葉は町の中に落ちた。見ればわかる。傷が深ければ、若者は罰を受ける。竜が苦しんでいるなら、町は償う。そして、もし。その先を、誰も口にしなかった。
翌朝、町長と老人たち、数人の猟師、そして若者たちは鱗場へ向かった。町の者たちも、少し距離を置いてついてきた。子どもは来るなと言われたが、それでも何人かは大人の陰に隠れていた。鱗場は、いつもと同じように青く光っていた。竜は静かに呼吸していた。背中の草は揺れ、遠くの森では鳥が鳴いていた。海は穏やかだった。昨日と何も変わらないように見えた。
若者が、あの鱗の前で立ち止まった。剥がされた鱗は、少しずれたまま伏せてあった。町長が目で合図すると、猟師のひとりがそれを持ち上げた。誰かが、小さく声を漏らした。
傷は、あった。
だが、治りはじめていた。
傷口には、薄い膜が張っていた。半透明で、桃色で、朝の光を受けてかすかに濡れている。膜の下では、まだ赤い肉が見えていた。完全に治ったわけではない。触れればすぐ破れそうな、頼りない皮だった。それでも、確かにふさがり始めていた。町長はしゃがみ込んだ。老人たちも覗き込んだ。若者の仲間のひとりが、震える声で言った。
「…治ってる」
その声は、とても小さかった。けれど、そこにいた全員に聞こえた。
人々の間に、安堵の空気が流れた。若者は、にやりと笑った。
だが、祈りの塔の老人が、厳しい声で言った。
「治っているからといって、許されるわけではない」
誰も反論しなかった。反論はしなかったが、人々は傷口から目を離せなかった。薄い膜は、竜の呼吸に合わせて、ゆっくり膨らみ、ゆっくり沈んでいた。生きている。誰もがそう思った。
そして、こうも思った。生きているから、治るのだ。
その日の夕方、町の会議が開かれた。老人たちは、竜に謝罪すべきだと言った。猟師たちは、二度と切ってはならないと言った。母親たちは、子どもが真似をしたらどうするのかと怒った。だが、別の声もあった。
「傷は治っていた」
「食糧は足りているとは言えない」
「冬が来れば、また芋粥だけになる」
「病人に食べさせれば、力がつくのではないか」
「竜様は、われわれを救ってくださった。ならば、その体もまた、恵みなのではないか」
最後の言葉を誰が言ったのかは、残っていない。だが、その言葉だけは広がった。
恵み。
竜の肉を、そう呼ぶことができるのだと、人々は知った。罪ではなく、恵み。傷ではなく、分け与えられたもの。切り取ったのではなく、いただいたもの。
町長は長く黙っていた。やがて言った。
「勝手に竜様の御体を傷つけることは、今後いっさい禁じる」
人々はうなずいた。
「だが」
町長は続けた。
「町全体で祈り、場所と量を定め、必要な者に限って分けるのであれば…それは、竜様の恵みを無駄にしないことにもなる」
老人たちは声を荒げた。だが、その声は広場全体を動かすほどではなかった。すでに多くの者が、竜肉の匂いを思い出していた。食べたことのない者でさえ、噂の味を想像していた。柔らかく、甘く、体の奥から温まる肉。手のひらほどで、四人を黙らせた肉。誰かが言った。
「少しなら」
別の誰かが言った。
「治るなら」
その二つの言葉は、町の中で結びついた。
やがて、月に一度だけ、決められた鱗場で、決められた量の竜肉を切り取ることが許された。
はじめは「恵み分け」と呼ばれた。
最初の恵み分けの日、町の者たちは鱗場に集まった。
花が置かれた。酒が垂らされた。長い祈りが捧げられた。
「大きな背中さま」
「われわれを救いし竜様」
「どうか、このわずかな恵みをお許しください」
人々は頭を垂れた。祈りは長かった。長すぎたので、その途中で腹を鳴らした者がいた。誰も笑わなかった。
町長が合図をした。猟師がよく研がれた刃を持って前に出た。剥がれた鱗を持ち上げる。薄い膜の張った傷口が、朝の光の下に現れる。猟師は一瞬、ためらった。それから刃を入れた。竜の背が、びくりと震えた。祈りの声が、少し乱れた。子どもが母親の服を握った。遠くの小川の水面が波打った。肉の下で、赤い筋が細かくけいれんした。猟師は刃を止めなかった。老人のひとりが目を閉じた。町長は見ていた。若者も見ていた。肉が切り取られると、すぐに布で包まれた。血は、思ったほど流れなかった。傷口にはまた酒が垂らされ、花が置かれた。人々はほっとした。竜は暴れなかった。町は落ちなかった。海は静かだった。
その日の夕方、広場で竜肉の汁がふるまわれた。病人に。老人に。子どもに。働き手に。ほんの少しずつ、皆に分けられた。
肉は、やはり美味かった。誰もがそれを口にした瞬間、少しだけ黙った。その沈黙は、祈りに似ていた。けれど、祈りではなかった。
夜になり、家々の灯りがともるころ、町のあちこちで同じ言葉が囁かれた。
「竜様の恵みだ」
「ありがたいことだ」
「少しなら、大丈夫だ」
「だって、治るのだから」
竜は、いつもと同じように呼吸していた。ただその夜、町の下から聞こえる低い響きは、いつもより少しだけ遠かった。
恵み分けは、月に一度だけ行われることになっていた。鱗場へ向かう日には鐘が鳴った。花が置かれ、酒が垂らされ、祈りが捧げられた。切る場所は最初の傷の周りだけ。量は桶に一杯だけ。それ以上はならない。はじめのうちは、誰もが守った。竜肉は、体を温めた。寝たきりだった老人が、汁を飲んだ翌朝、庭先まで歩いた。痩せた子どもが頬を赤くして笑った。弱っていた女が、久しぶりに子を抱いた。あれは罪だ、と言う者はいた。
市場の料理人が、竜肉を煮た。焼くだけでは町じゅうに分けられないからだった。薄く切った肉を湧き水で洗い、塩と野草で煮る。鍋の表面に、澄んだ脂が浮いた。香りは市場を抜け、広場まで届いた。人々は鍋を囲んだ。病人に。老人に。子どもに。働き手に。誰もが一口目で黙った。
竜肉は薬だと言われるようになった。薬ならば、必要な者に与えるべきだ。必要な者が多いなら、もう少し量を増やすべきだ。月に一度では足りない。誰かがそう言った。
町長は首を振った。老人たちは杖を鳴らした。だが鱗場へ行くと、傷はまた少しふさがっていた。薄い膜の上に新しい皮膚が張り、端には細かな鱗の芽のようなものまで見えた。
「治ってる」
その声に、もう驚きはなかった。かわりに、期待があった。
「なら、もう少しなら」
その言葉は、すぐに町へ広がった。もう少しなら、大丈夫だろう。もう少し切っても、竜様も許してくださる。もう少しなら、傷もまた治る。もう少しなら、あの子にも食べさせられる。
恵み分けは、月に二度になった。桶は一つでは足りなくなった。二つになり、三つになった。刃が入るたび、竜の背はびくりと震えた。人々はそのたびに、祈りの声を大きくした。
「大きな背中さま」
「今日も恵みをありがとうございます」
震えは、祈りに覆われた。料理人の店には列ができた。代金を取ることは禁じられていた。恵みを売ってはならないからだった。だから人々は、店の隅の箱に麦や干し魚や小さな銀貨を入れた。料理人は断らなかった。やがて箱は大きくなった。
竜肉の汁。竜脂で焼いた芋。竜血を混ぜた酒。薄く叩いて干した肉。
町には、新しい味が増えた。子どもたちは竜肉のない粥を物足りないと言った。老人たちは寒い夜に竜肉の汁を欲しがった。
食べない者は、信心深い者から、頑固者へ、そして町の恵みを拒む者へ変わっていった。
若者は、最初に竜肉を見つけた者として知られるようになった。罵る者もいた。だが、罵る者の家の煙突からも竜肉の匂いが立つことがあった。そうなると、罵りは長く続かなかった。若者は笑いが止まらなかった。
冬の初め、竜肉祭りが始まった。正式には『竜様感謝の日』と呼ばれた。朝には祈り、昼には広場で汁を食べ、夜には火を囲んで歌った。串焼きが並び、竜脂で根菜が揚げられ、竜血酒で大人たちは顔を赤くした。祈りの塔の老人たちは、それを祭りと呼ぶことに反対した。だが、祭りは祭りになった。人は美味いものを食べると笑う。笑えば歌う。歌えば、また食べたくなる。
その日、竜の背は何度も小さく震えた。誰も気にしなかった。
祭りの終わり、町長は料理人に言った。
「もう少し、深い肉を切れないか」
料理人は黙った。表の肉は硬くなっていた。脂も薄くなっていた。傷口の周りの皮膚は厚くなり、刃を入れるたびに鈍い抵抗があった。竜の体が、守ろうとしているのだ。
そう思った。
翌月、鱗を二枚外すことになった。
刃が入った瞬間、竜の背はこれまでより大きく跳ねた。
遠くの鐘が、誰も触れていないのに低く鳴った。小川の水が一瞬だけ逆流し、森の鳥が黒い雲のように飛び立った。
人々は祈りの声を大きくした。
深いところの肉は、確かに違っていた。色が濃く、脂が多く、包丁を入れると刃に吸いつくようだった。鍋に落とすと、湯が一瞬で白く濁り、これまでにない香りが立った。
その日の汁は、町じゅうを黙らせた。町長は椀を置き、長く目を閉じていた。そして言った。
「これは、これまでの肉とは違う」
それは合図でもあった。もっと深く。もっと柔らかいところへ。もっと美味いところへ。
その夜、竜の背は長く震えていた。だが朝になると、町はいつも通り動き出した。市場には列ができ、料理人の店には湯気が立ち、誰かが祭りの残り火で芋を焼いていた。
人々は言った。
「昨日は少し揺れたな」
「深く切ったからだろう」
「でも、治るさ」
竜は何も言わなかった。
ただ、背中の草原の一部が、その日から枯れ始めた。
竜の傷は、治らなくなっていった。人々は毎回、切る前に傷を見ていた。花を置き、酒を垂らし、祈りながら、確かに見ていた。けれど、本当には見ていなかった。
膜は乾いていた。新しい鱗は白く濁り、欠けていた。肉の色は暗い紫へ変わり、黒ずんだ筋が広がっていた。それでも誰かが言った。
「前より回復が少し遅いだけだ」
別の誰かが言った。
「深く切ったからだろう」
最後には、いつもの言葉になった。
「もう少しなら」
恵み分けは、もう恵み分けではなくなっていた。月に一度だったものは月に二度になり、十日に一度になり、やがて町のどこかでは毎日のように竜肉が煮られ、焼かれ、干されていた。
決まりはまだあった。勝手に切ってはならない。祈りを捧げなければならない。必要な者に分けなければならない。商いにしてはならない。
だが決まりは、人の腹より弱かった。誰が切ったかわからない傷が増えた。夜の森で鱗を剥がす者がいた。病の子を理由にする者がいた。ただ食べたかっただけの者もいた。見回りの者たちでさえ、夜には竜肉を煮た。
竜の背の変化は、もう隠せなかった。草原が枯れた。小川の水はぬるくなり、赤茶けた泡を浮かべた。肩の森では鳥が減った。鱗の隙間にいた小動物たちは姿を消した。
夜、地面の温もりが弱くなった。以前は床に手を当てれば、竜の体温がじんわり伝わってきた。今は冷たかった。人々は竜脂を燃やして暖を取った。背中の温もりが失われた分を、竜の脂で補った。
恵み分けの傷は、穴になっていた。
最初は表面を少し切るだけだった。次に傷口を広げて肉を取った。やがて硬くなった表面を避け、奥へ奥へと刃を入れるようになった。傷の奥には、柔らかい肉があった。さらに奥には、もっと柔らかい肉があった。
誰かが言った。
「このまま掘れば、まだまだ取れる」
掘る、という言葉を使った。
切るでも、いただくでもなく、掘る。
その言葉は人々を安心させた。竜の体は、いつのまにか大地に戻されていた。
気づけば、傷口には縄が垂れていた。気づけば、人々は灯りを持って、竜の中へ入っていた。気づけば、人々はそこを『採肉場』と呼んでいた。
「採肉場ではない」
祈りの塔の老人が叫んだ。
「そこは、竜様の傷だ」
だがその声は、滑車の音にかき消された。
ぎい、ぎい、と滑車が鳴る。赤い肉の塊が、袋に詰められて上がってくる。人々はそれを見ていた。嫌な顔をする者もいた。胸の前で祈る者もいた。だが多くの者は、今日の分がどれほどあるかを数えていた。
ある夜、竜の背が大きく傾いた。皿が落ち、桶の水があふれ、祈りの塔の鐘が鳴った。眠っていた人々は飛び起き、子どもたちは泣いた。傾きはすぐに戻った。
翌朝、町長は言った。
「昨夜の揺れは、風の乱流によるものだ」
誰かが尋ねた。
「しばらく肉を取るのをやめては」
町長は黙った。広場には人がいた。料理人の店には、すでに列ができていた。病人も、子どもも、働き手も、老人もいた。町長は彼らを見た。
「町を飢えさせるわけにはいかない」
それで話は終わった。
採肉場の奥で、赤い壁が裂けたのは、その数日後だった。灯りを向けると、袋のようなものがいくつもぶら下がっていた。誰かが言った。
「内臓だ」
声は震えていた。恐怖ではなかった。期待だった。最初に切り取られた内臓は、料理人の店へ運ばれた。料理人は、それを見た瞬間、包丁を置いた。町長が言った。
「調理できるか」
料理人は答えなかった。
「できるな。これで町はしばらく飢えずに済む」
料理人は長い間、内臓を見ていた。それから包丁を取った。
刃が入ると、内臓は大きく縮んだ。料理人は目を閉じなかった。
切った。煮た。焼いた。香りは、これまでのどの肉よりも濃かった。
その夜、町では内臓の汁がふるまわれた。人々は夢中で食べた。椀を差し出し、もう一杯、もう一口と求めた。若者も食べた。料理人も食べた。町長も食べた。誰も、竜のことを口にしなかった。
その夜、竜は長く震えた。柱がきしみ、祈りの塔の鐘が何度も鳴った。だが、人々は腹を満たしていた。腹が満ちていると、恐怖は少し遠くなる。
翌朝、町の人々は口々に言った。
「昨日のは、すごかったな」
「揺れのことか」
「いや、汁のことだ」
誰かが笑った。別の誰かも笑った。その笑い声の下で、竜の背の森から、最後の鳥が飛び立った。採肉場の奥で、大きな鼓動が聞こえたのは、それからまもなくだった。
どくん。どくん。
赤い壁の向こうで、巨大な影が膨らみ、縮んでいた。
誰かが言った。
「心臓か」
男たちはしばらく動かなかった。やがて一人が言った。
「どんな味なんだろうか」
報告を受けた町長は長く黙った。料理人は首を振った。
「そこは、だめです」
町長は言った。
「なぜ」
「そこを切れば、竜は死ぬかもしれない」
「今まで何度もそう言われた」
「今度は違う」
「違うと、どうしてわかる。治るじゃないか」
料理人は答えられなかった。ただ、わかった。包丁を握ってきた手が、知っていた。肉の震えを見てきた目が、知っていた。鍋の底に沈む赤い汁を見てきた夜が、知っていた。たぶん、もう、だめだ。だが、その言葉は広場では小さすぎた。町には人が集まっていた。皆、心臓の肉という言葉を聞いていた。誰かが言った。
「最後に少しだけなら」
別の誰かが言った。
「竜様は不死身だ」
また別の誰かが言った。
「今やめたら、これまでの恵みを無駄にする」
町長は言った。
「祈ろう」
それで決まった。
心臓に刃を入れる日、町では朝から鐘が鳴った。人々は花を持って集まった。酒を持って集まった。椀を持って集まった。その下で、男たちは竜の体内へ下りていった。料理人もいた。町長もいた。若者もいた。心臓は、赤い膜の奥で動いていた。どくん。どくん。どくん。料理人は包丁を持っていた。町長が言った。
「少しだけだ」
料理人が刃を入れた。その瞬間、町全体が跳ねた。家が浮いた。鐘が鳴った。井戸の水が空へ噴き上がった。
竜の体内で、心臓が大きく縮んだ。料理人は包丁を落とした。だが、後ろにいた男が拾った。
「止めるな」
「ここまで来たんだ」
「もう少しだ」
刃は、もう一度入った。
どくん。どくん。
ど、くん。
心臓の鼓動は、そこで乱れた。
心臓に刃が入ってから、竜の鼓動は変わった。それまで町の床下に響いていた音は、ゆっくりで、深く、眠る者を包むようだった。子どもたちはその音を聞いて育ち、老人たちはその音を聞くと、まだ大丈夫だと思った。
だが、その日から鼓動は欠けた。
どくん。長い間。どくん。
また長い間。ど、くん。
音が途切れるたび、人々は顔を上げた。井戸端の女も、店先の男も、広場の子どもも、一瞬だけ動きを止めた。しかし、すぐにまた動き出した。まだ聞こえている。ならば、まだ生きている。生きているなら、まだ治る。人々はそう思った。
心臓の肉は、これまでのどの肉よりも濃かった。料理人は最初の夜、その肉を煮ることを拒んだ。だが町長は言った。
「もう切ってしまった。無駄にする方が、竜様に失礼だ」
料理人はしばらく黙っていた。それから鍋に火を入れた。
心臓の肉は硬かった。刃を入れると、赤い汁がゆっくり滲んだ。火にかけると、店の中に甘く深い香りが満ちた。だがその香りの底には、わずかな焦げ臭さがあった。焦げているのは肉ではない。料理人にはそう思えた。
それでも町の者たちは食べた。ひと口食べると、誰もが黙った。はじめて竜肉を食べたとき、人々は驚きで黙った。心臓の肉を食べたとき、人々は恐ろしくて黙った。美味かった。恐ろしいほど、美味かった。人々は言った。
「やはり竜様は、最後までわれわれを救ってくださる」
最後まで、という言葉に気づいた者は少なかった。町は何度も傾いた。
最初は夜だけだった。
次に朝にも傾いた。
皿が落ち、井戸の水があふれ、祈りの塔の鐘が鳴った。町の端から見下ろす海面は、以前より近くなっていた。
竜の背が沈んでいる。誰かがそう叫んだ。別の誰かがすぐに否定した。
「波が高いだけだ」
「夜だからそう見える」
「竜様は大きい。落ちるはずがない」
そのとき、竜の口の方から、長い息が聞こえた。声ではなかった。言葉でもなかった。ただ、海と空のあいだをゆっくり抜けていく、深く長い息だった。町の者たちはそれを聞いた。子どもも、老人も、町長も、料理人も、若者も聞いた。
翌朝、竜の背は冷たかった。床に手を当てても、温もりはなかった。草原は広く枯れ、背骨の丘の木は葉を落としていた。肩の森は静かだった。鳥はもういなかった。それでも町は動いた。市場が開かれた。竜脂の灯りがともされた。竜血酒が売られた。料理人の店には、また列ができた。
人々は昨日よりも強く竜肉を求めた。もう長くは食べられないかもしれない。誰かがそう言った。その言葉は、人々を止めなかった。むしろ急がせた。今のうちに。あるうちに。最後になる前に。町長は、最後の大きな恵み分けを行うと告げた。最後、という言葉に広場はざわめいた。
「最後なのですか」
誰かが尋ねた。町長は答えた。
「竜様を休ませるためだ」
その言葉を聞いて、人々は安心した。休ませる。殺すのではない。
ただ、休ませる。
その日の恵み分けには、町じゅうの人々が集まった。
心臓の周りの肉を切った。刃が入るたび、町は震えた。だが、もう大きく跳ねる力は残っていなかった。
どくん。
長い沈黙。
ど、くん。
そのとき、地面が傾いた。ゆっくりと。今度は、戻らなかった。最初に広場の鍋が滑った。赤い汁が地面を流れ、鱗の隙間へ吸い込まれた。次に木箱が倒れ、椀が転がった。祈りの塔の鐘が大きく鳴り、途中で柱が折れた。家々がずれた。畑の土が割れた。市場の屋根が落ちた。町の端が水に触れた。竜の背が沈んでいた。
巨大な体が、ゆっくりと落ちていく。力尽きた獣が眠るように、竜は首を低くし、背中の町を乗せたまま落ちていった。
人々は走った。だが、どこへ走ればよいのかわからなかった。右も海だった。左も海だった。前も後ろも海だった。彼らが大地と呼んだものは、竜の背だけだった。彼らには、逃げる場所などなかった。
誰かが祈りの塔へ向かった。誰かが市場の肉を抱えた。誰かが子どもを探した。誰かが、まだ椀を離さなかった。町長は叫んでいた。
「祈れ!」
人々は祈った。大きな背中さま。われわれを救いし竜様。どうか、どうか。
だが、祈りはもう、竜には届かなかった。いや、もしかすると届いていたのかもしれない。それでも竜は、もう動けなかった。
最後まで、竜は人間を振り落とさなかった。
若者は、鱗場へ走っていた。最初の場所。最初の傷。最初に刃を入れた場所。町が傾く中、彼は転び、手をつき、それでも走った。鱗場は崩れていた。
あの日剥がした鱗は、もうなかった。傷は広がり、黒く乾き、そこから竜の内側へ続く赤い穴が開いていた。穴の奥からは、もう熱も匂いもほとんど上がってこなかった。
若者は膝をついた。
そして、竜はついに海に落ちた。
巨大な波しぶきが起きた。
人々は海に投げ出された。
海の上には、焼けた肉の匂いが漂っていた。
やがて、それも消えた。
第二話 「母竜の背中」
一匹の竜が落ちた。
その知らせは、海を渡り、雲を越え、竜たちの間に広がった。
落ちた竜は、病で死んだのではなかった。嵐に巻かれたのでも、戦いに敗れたのでもなかった。
背中に住んでいた人間たちに、食われたのだという。
はじめは、ほんの少しの肉だった。
人間たちは、竜の背に刃を入れた。切り取ったあと、傷は何日かで薄くふさがった。だから彼らは、竜が自分たちに肉を与えてくれているのだと思った。肉はうまかった。それから、人間たちは何度も刃を入れた。肉を取り、皮を剥ぎ、脂を集めた。やがて、腹の奥まで掘り進み、内臓にまで手を伸ばした。最後に竜は、背中の町ごと海へ落ちた。
その話を聞いた竜たちは、みな黙った。彼らの背中にも町があった。畑があり、神殿があり、市場があり、人間たちの家があった。朝になれば人間たちは歩き出し、昼には荷車が動き、夜には家々の明かりがともった。
竜たちは、それを長いあいだ背負ってきた。落とさないように飛んできた。けれどその日から、背中の重みが少し変わった。守ってきたものが、自分たちを食うかもしれない。その恐れが、竜たちの間に広がった。
灯の町を背負う母竜のもとにも、その知らせは届いた。母竜は、夕暮れの海の上を進んでいた。背中の町では、ちょうど窓に明かりがともり始めていた。市場の人々が店を片づけ、子どもたちが細い道を走っている。その横を、一匹の子竜が飛んでいた。
子竜はまだ人間を乗せていなかった。背中には町も畑もなく、銀色の鱗が夕日を受けて光っていた。
「お母さん、今日も明かりがきれいだね」
子竜が言った。母竜は、自分の背中を見た。小さな家々。煙突の煙。広場に集まる人間たち。どれも、長く守ってきたものだった。
そのとき、黒い翼の竜が近づいてきた。
「聞いたか」
黒い竜は、母竜の前で止まった。
「一匹、落ちた」
「なぜ」
「背の者たちに食われた」
母竜の翼が一瞬止まりかけた。背中の町が小さく揺れた。
人間たちは驚いて空を見上げた。神殿の鐘が一度だけ鳴った。母竜はすぐに体を戻した。町を落とさないためだった。
子竜が母竜のそばに寄った。
「人間たちは、お母さんを食べるの?」
母竜は答えなかった。
背中では、いつものように明かりが増えていった。人間たちは、そこが竜の背中であることを知っていた。
けれど、その下に肉があることを、まだ知らなかった。
黒い翼の竜は、母竜に言った。
「背に町を乗せている者たちで、集まることになった」
母竜は、背中の町を見た。
人間たちは、さきほどの揺れに驚き、広場や神殿の前に集まっていた。
母竜はうなずいた。
「行く」
「子は」
黒い竜が、そばを飛ぶ子竜を見た。
「ついていく」
母竜が答えた。
三匹は、夜の海を進んだ。空には低い雲があり、海は黒く沈んでいた。
母竜の背中では、灯の町の明かりが少しずつ増えていった。
やがて、前方に大きな影が見えた。そこには、六匹の竜が集まっていた。母竜と黒い翼の竜を合わせて、七匹。
七匹の竜の背には、それぞれ町があった。麦の町。鉄の町。祈りの町。塩の町。森の町。布の町。そして、母竜の背にある灯の町。七つの町には、人間たちが暮らしていた。家があり、畑があり、市場があり、神殿があった。夜になれば明かりがともり、朝になれば人間たちは歩き出す。竜たちは、そのすべてを長いあいだ背負ってきた。
麦の町を乗せた竜が言った。
「落ちた竜の話は、本当か」
黒い翼の竜が答えた。
「本当だ。背中を切られ、腹の奥まで食われた」
七匹の竜は黙った。鉄の町を乗せた竜が、低く唸った。
「背の者たちは、我らを神と呼ぶ。だが、腹が減れば神の肉でも食うのか」
塩の町を乗せた竜が言った。
「飢えれば、食うのだろう」
森の町を乗せた竜が、翼を動かした。
「ならば、背から降ろすしかない」
「どこへ降ろす」
麦の町の竜が言った。
「海ばかりだ。背の者たちは、我らの上でしか生きられぬ」
布の町の竜が言った。
「では、振り落とすか」
誰も答えなかった。振り落とせば、町は海へ落ちる。家も、畑も、市場も、神殿も、子どもも、老人も、すべて沈む。
母竜は、自分の背中を感じた。灯の町では、人間たちが家へ戻り始めていた。母親が子どもの手を引き、店主が戸を閉め、老人が窓の火を消している。その重みを、母竜は知っていた。
黒い翼の竜が言った。
「我らは、背の者たちを守ってきた。落ちた竜も、そうだった」
七匹は、互いの背中を見た。どの背にも町があった。どの町にも人間がいた。母竜のそばで、子竜が黙っていた。母竜は、子竜の背中を見た。そこには、まだ何もなかった。町も、畑も、神殿も、市場もない。ただ、銀色の鱗だけが、暗い海の上でかすかに光っていた。
七匹の竜は、まず人間たちに伝えようとした。背を切ってはならない。肉を求めてはならない。自分たちは大地ではなく、生きている竜なのだと。麦の町を乗せた竜は、夜明け前に低く鳴いた。声は海を震わせ、背中の麦畑を揺らした。人間たちは家から飛び出し、神殿の前に集まった。竜はもう一度鳴いた。だが、人間たちは膝をつき、祈りを捧げるばかりだった。鉄の町を乗せた竜は、背中をゆっくり震わせた。鉄の塔が揺れ、炉の火が跳ねた。職人たちは慌てて広場へ走った。竜は、自分の下に肉があり、骨があり、血が流れていることを伝えたかった。けれど人間たちは、竜が怒っているのだと思い、炉の前に供え物を置いた。
どの町でも、同じだった。竜が鳴けば、お告げになった。竜が震えれば、怒りになった。
七匹の竜は、再び海の上に集まった。
「伝わらぬ」
麦の町の竜が言った。
「背の者たちは、我らの声を聞かない」
「聞いてはいる。だが、意味を変える」
母竜は黙っていた。自分の背中では、灯の町の人間たちが夜の支度をしていた。家々に明かりがともり、細い道を人々が行き交っている。子どもが走り、母親がそれを追っていた。母竜は、低く鳴いた。背中の町が静かになった。人間たちはいっせいに空を見上げた。神殿の鐘が鳴り、広場に人が集まった。母竜は、もう一度鳴いた。
怖れている。やめてほしい。背中を切らないでほしい。そう伝えたかった。
けれど、人間たちは膝をついた。神官が両手を広げ、母竜の首の方へ祈りを捧げた。人々もそれに続いた。母竜の言葉は、祈りに変わってしまった。
子竜が、母竜のそばに来た。
「お母さん、伝わった?」
母竜は、しばらく黙っていた。それから、小さく首を振った。
七匹の竜は、海の上で動かずにいた。背の者たちとは話せない。そのことだけが、はっきりしていた。
七匹の竜は、長く黙っていた。人間たちとは話せない。背から降ろすこともできない。振り落とせば、七つの町は海に沈む。それでも、落ちた竜のことを忘れることはできなかった。背中を切られ、肉を取られ、腹の奥まで食われた竜。守ってきた者たちに食われた竜。
黒い翼の竜が言った。
「このままでは、いずれ同じことが起きる」
鉄の町を乗せた竜が、低く唸った。
「ならば、先に与えるしかない」
「与える?」
母竜が聞いた。
「肉を、だ」
鉄の町の竜は言った。
「背の者たちが我らの肉を求める前に、こちらから与える。そうすれば、背を切らずに済むかもしれない」
麦の町の竜が首を上げた。
「一度でも味を知れば、もっと欲しがるかもしれない」
「知らなくても、落ちた竜の背の者たちは食った」
鉄の町の竜が返した。
「ならば、こちらが量を決める。勝手に切られるよりはいい」
七匹の竜はまた黙った。
塩の町の竜が言った。
「誰の肉を与える」
誰も答えなかった。麦の町の竜が言った。
「背に町を乗せた者はだめだ。切れば町が崩れる」
祈りの町の竜が続けた。
「年老いた者では足りない。病んだ者の肉では、背の者たちが食べるかわからない」
森の町の竜が、暗い海を見下ろした。
「ならば、まだ背の者を持たぬ竜ならば」
その言葉のあと、空気が変わった。七匹の竜は、同時に一匹の方を見た。
母竜のそばにいる子竜だった。
子竜の背には、まだ町がなかった。畑も、神殿も、市場も、家もない。あるのは、なめらかな銀色の鱗だけだった。子竜は、自分が見られていることに気づき、母竜の翼の下へ寄った。
「お母さん?」
母竜は、子竜をかばうように翼を広げた。
「この子は関係ない」
鉄の町の竜が言った。
「関係ないものなど、もういない」
「この子は、まだ何も背負っていない」
「だからだ。この子が落ちても、町は落ちない」
母竜の喉の奥で、低い音が鳴った。灯の町が小さく震え、眠りかけていた人間たちが家の中で目を覚ました。母竜はすぐに体を静めた。
それを見て、誰も何も言わなかった。やがて、麦の町の竜が言った。
「一匹の肉を、七つに分ける」
母竜は首を振った。
「やめて」
祈りの町の竜が目を伏せた。
「七つの背を守るためだ」
「この子は私の子だ」
「七つの町には、人間の子もいる」
母竜は何も言えなくなった。
灯の町にも子どもがいた。七つの背に、数え切れない命が乗っている。
母竜は、それを知っていた。子竜は、母竜の翼の下から顔を出した。
「お母さん、どうしたの」
母竜は、子竜を見た。子竜の目は、まだ何も知らなかった。
黒い翼の竜が、静かに言った。
「今なら、七つの背を守れるかもしれない」
母竜は答えなかった。その夜、誰も子竜の名を口にしなかった。
けれど、誰が選ばれたのかは、すべての竜が知っていた。
母竜は、その夜、子竜を連れて七匹の輪を離れた。海は暗く、遠くで波だけが白く光っていた。母竜の背中では、灯の町の明かりがほとんど消えていた。眠った人間たちの重みが、静かに背中へ伝わっている。
子竜は、母竜の横を飛んでいた。
「お母さん、みんな何を話してたの」
母竜は答えなかった。
「ぼくのこと?」
母竜は、子竜を見た。
「少し遠くまで行こう」
母竜は言った。子竜はうなずいた。二匹は、暗い海の上を低く飛んだ。やがて、小さな岩場が見えてきた。大洪水の前は山の頂だったのかもしれない。母竜はそこへ降りた。子竜もそばに降りた。
「ここ、前にも来たね」
子竜が言った。母竜はうなずいた。まだ子竜が幼かったころ、二匹で何度も来た場所だった。子竜は岩の上に腹をつけ、母竜の背中を見た。灯の町には、まだいくつか明かりが残っていた。
「きれいだね」
子竜は言った。
「いつか、ぼくの背中にも町ができる?」
母竜はすぐには答えられなかった。
「できるかもしれない」
「そしたら、ぼくも落とさないように飛ぶよ。お母さんみたいに」
母竜は、子竜の頭に鼻先を寄せた。子竜は嬉しそうに目を細めた。
母竜は、そのまましばらく動かなかった。母竜は思い出していた。子竜が初めて翼を広げた日のことを。風に流されながらも必死に空を飛び、自分のあとを追ってきた小さな背中。その背中が大きくなれば、いつか自分のように町を背負って飛ぶのだと、母竜は信じていた。
どこにも行かせたくなかった。誰にも渡したくなかった。けれど、背中には町があった。七つの背に、数え切れない命が乗っていた。母竜は、それを知っていた。
子竜が、母竜の翼の下にもぐり込んだ。
「明日も、灯の町を見る?」
子竜が聞いた。
「見る」
母竜は言った。
「じゃあ、また一緒に飛ぼうね」
子竜は安心したようにそう言って、静かに目を閉じた。
遠くで、黒い翼の竜が夜の海へ向かって低く鳴いた。
戻る時間だと知らせていた。
母竜は、眠っている子竜を見下ろした。長いあいだ動けなかった。やがて、母竜は子竜の首にそっと顔を寄せた。
子竜は少しだけ目を開けた。
「お母さん?」
母竜は答えなかった。
その夜、海は一度だけ大きく鳴った。
朝になると、子竜の声は聞こえなくなっていた。
朝、七匹の竜は海の上に集まった。
母竜のそばに、子竜はいなかった。誰もそのことを口にしなかった。
やがて、海面に赤いものが浮かんだ。子竜の肉だった。それは七つに分けられた。六つは、それぞれの竜の背へ運ばれた。最後のひとつは、母竜の背へ運ばれた。
他のものより、少し大きかった。母竜は何も言わなかった。
六匹の竜は、誰もその肉を見ようとしなかった。母竜だけが、運ばれていく子竜の肉を見つめていた。海へ落ちる赤い雫だけが、静かに波へ消えていった。
灯の町では、朝の鐘が鳴っていた。人間たちは家から出て、井戸へ向かい、市場を開き、畑へ歩いていた。誰も、夜の海で何があったのかを知らなかった。
そこへ、肉が落とされた。広場の中央に、巨大な肉の塊が置かれた。人間たちは驚いて集まった。神官が前へ進み、肉の前で膝をついた。
「竜神の恵みだ」
誰かがそう言った。はじめ、人間たちは恐れていた。けれど、町では食料が足りなくなり始めていた。畑の実りは少なかった。
肉は温かく、赤く、湯気を立てていた。やがて、ひとりの男が肉に刃を入れた。
肉を切り分け、石の炉に運び、火を起こした。脂が焼け、煙が上がった。広場に強い匂いが広がった。焼けた肉が配られた。人間たちは、恐る恐るそれを口にした。
そして、静かになった。誰もが口の中の味を確かめるように、しばらく何も言わなかった。
次の瞬間、広場のあちこちで声が上がった。うまい。誰かがそう言った。その声は、母竜の背中に伝わった。灯の町だけではなかった。麦の町でも、鉄の町でも、祈りの町でも、塩の町でも、森の町でも、布の町でも、同じことが起きていた。七つの背で煙が上がった。七つの町で、人間たちは竜の肉を食べた。
黒い翼の竜が低く言った。
「これで、しばらくは背を切られずに済む」
誰も答えなかった。
母竜は、自分の背中で肉が焼かれる匂いを感じていた。それは、子竜の匂いだった。
夜になると、灯の町では祭りが開かれた。人間たちは竜神に感謝し、歌い、笑った。子どもたちは肉を食べ、母親たちは安心した顔をした。老人たちは汁を飲み、体が温まったと言った。母竜は、それをすべて感じていた。けれど、誰も知らなかった。その肉が、誰の肉だったのか。
その夜、七つの町は満たされた。そして七つの町は、竜の味を知った。
子竜の肉は、長くは残らなかった。はじめ、人間たちはそれを大切に食べた。薄く切り、干し、塩につけ、祭りの日だけ火にかけた。食べる前には手を合わせ、竜神から授かった肉だと感謝した。けれど、日が経つにつれて、祈りは短くなった。肉は、特別なものから、うまいものになった。灯の町では、竜肉の汁を出す店ができた。市場では干し肉が高い値で売られた。病人に食べさせると力が戻ると言われ、子どもに食べさせると丈夫に育つと言われた。母竜は、それを背中で感じていた。広場に人が集まり、炉の火が強くなり、肉を切る音や笑い声が伝わってくる。
そのたびに、母竜は子竜の声を思い出した。
「また一緒に飛ぼうね」
やがて、最後の竜肉が食べ尽くされた。市場から干し肉が消え、汁を出す店の前に人だかりができた。人々は神殿へ行き、竜神の恵みがもう一度降るように祈った。しかし、空から肉は降ってこなかった。
ある朝、町のはずれで、ひとりの男が母竜の背中に手を置いた。そこは畑の外側で、まだ家も道も少ない場所だった。男は、以前に広場で竜肉を切り分けた者だった。
男は鱗の隙間を見た。その下に、やわらかそうな場所があった。男は腰の刃物を抜いた。母竜は、その冷たさを感じた。男は、ほんの少しだけ刃を入れた。母竜の体が大きく震えた。
灯の町で鐘が鳴り、畑にいた人間たちがしゃがみこみ、子どもが泣いた。だが、母竜はすぐに体を静めた。町を落とさないためだった。
男は足元を見た。刃を入れた場所から、赤い肉がのぞいていた。落ちてきた竜肉と、同じだった。男は、指先ほどの肉を切り取った。その夜、男は家でその肉を焼いた。匂いは、あの日と同じだった。家族は黙って食べた。子どもは、もっと食べたいと言った。次の日、男はまた町のはずれへ行った。今度は一人ではなかった。三人の男が、棒と刃物と袋を持ってついてきた。
「少しだけだ」
男は言った。
「竜神は、きっと許してくださる」
彼らは母竜の背に刃を入れた。母竜は低く鳴いた。人間たちは空を見上げ、神官は神殿の前で両手を広げた。
「竜神が、また恵みをくださった」
その言葉は町に広がった。はじめは、小さな小屋が建った。選ばれた者だけがそこで肉を切り、神官が祈りを捧げてから町へ配った。
母竜の傷は、数日で薄くふさがった。それを見て、人間たちは安心した。
「やはり、竜神は自らの肉を分けてくださっている」
誰かが言った。その言葉は、すぐに町の決まりになった。小屋は大きくなり、道が作られ、肉を運ぶ荷車が通るようになった。朝になれば荷車は列をなし、夕方まで途切れることはなかった。
広場には竜肉を売る店が並び、神殿の裏には塩漬けの倉ができた。町のはずれは、採肉場と呼ばれるようになった。
母竜は、毎日そこを感じていた。刃が入る。肉が切られる。人間たちが運ぶ。火が起こる。匂いが上がる。町が喜ぶ。
母竜は、子竜を思い出した。あの子の肉が、最初だった。七つの町を守るために、自分たちは子竜を差し出した。けれど町はもう知っていた。竜の肉がうまいことを。切っても、傷がふさがることを。そして、背中の下には、まだたくさんの肉があることを。
母竜は翼を広げた。だが、そのたび背中で子どもの泣き声がした。
母竜が暴れれば、町は落ちる。母竜が沈めば、町も沈む。だから母竜は、動けなかった。
その夜、採肉場の火は遅くまで消えなかった。母竜の背中で、人間たちは竜肉を焼いていた。
やがて、人間たちは、竜肉を食べることを、罪だとは思わなくなった。
「竜神は、我らに肉をくださる」
神官はそう言った。
「傷はふさがる。だから、これは恵みなのだ」
人々はその言葉を信じた。竜肉は町を豊かにした。子どもたちの頬は赤くなり、市場には干し肉を並べる店が増えた。灯の町は大きくなった。
母竜は、少しずつ弱っていった。飛ぶ高さが低くなり、翼を動かすたびに背中の町が揺れた。湖は赤く濁り、森は痩せ、畑の端には大きな穴が開いた。それでも、人間たちは掘るのをやめなかった。
ある日、採肉場の奥で、ひとりの男が言った。
「もっと深くに、よい肉がある」
男たちは鱗を剥がし、肉を削り、赤い穴を広げていった。母竜にはわかった。そこへ入られてはいけない。
母竜は翼を動かそうとした。
だが、背中には町があった。だから、母竜は動けなかった。母竜は、最後にもう一度だけ背中を感じた。灯の町では、朝の煙が細く立ちのぼり、子どもたちが道を駆け、誰かが井戸で笑っていた。その重みを、母竜は生まれてからずっと背負ってきた。
ふと、遠い夜の岩場が浮かんだ。
「また一緒に飛ぼうね」
あの子の声だけが、静かな海風のようによみがえった。
母竜は、目を閉じなかった。
刃が、さらに深く入った。
その瞬間、母竜の体が大きく傾いた。
灯の町で悲鳴が上がった。家が崩れ、荷車が転がり、神殿の鐘が激しく鳴った。人間たちは竜の背を走った。だが、どこへ走っても、そこは母竜の背中だった。
母竜は、遠くの海を見た。六匹の竜がこちらを見ていた。
どの竜も、何も言わなかった。
母竜は、あの夜の子竜を思い出した。
背中の奥で、何かが切れた。母竜は、町ごと海へ落ちた。
灯の町は傾き、広場が裂け、神殿が崩れた。人間たちの声は、波の音にのみこまれていった。やがて、母竜も町も海に沈んだ。赤い泡が、しばらく海面に残った。
六匹の竜は、それを遠くから見ていた。誰も母竜を責めなかった。
誰も助けられなかった。
子竜の肉を七つに分けた日から、もうすべては始まっていた。
海には六匹の竜だけが残っていた。
その背中には、すでに採肉場ができていた。
