押さえつけていた言の葉が、背中を押してくれた
「本質」私が好きな言葉。
いつからだろう。本質を見通す”目”が欲しい、見極められる観察眼が欲しいと願うようになった。
本質を追求していくと、忌み嫌うようになるものがある。
表層。うわべだけの友情。チャラさ。
こうして陰キャまっしぐらの私は、青春を構成する重要元素の一つ、色恋を謳歌する恋愛強者を羨みながら僻むという歪んだ気持ちが、日に日に増すばかりだった。
自身の選択に関して、全て自分なりに説明できるように。
本質を求めつつ、歪んだ気持ちに染まる私は、意識高い系の思想にドップリハマり、ついでに陰謀論的な思想にも片足首くらいまでは突っ込んだ。
同時に、「言霊思想」のようなものは、今も結構真剣に信じている。
そのため、悪口は出来るだけ言わないようにしているし、ネガティブな言葉も極力使わないようにしている。
言の葉。
伝えたいこと(心)の種が、 伝えた相手、それぞれの心に蒔かれ、やがて成長し、その葉が生い茂ることから来ているとも言われているし、元々葉に傷をつけて言葉を交わしたことに由来するとも言われている。
▽葉書きの語源として広く知られているタラヨウの葉▽
真山茂樹(東京学芸大学教育学部生物学教室)さんのサイトより
どうあれ、わたしは日本語の音とこうした感性が好きなのだ。
するとどうだろう。
心の奥底に仕舞い込んだ言葉が存在する。
「とりあえず」とか「まぁ、いいか」などだ。
なぜそのことを選択したのかも考えず、あるいは、改善のヒントを探ることをせずに物事を終わらせることは、思考停止と同義である。
誇張ではなく、そんな考えで走り続けていた。
走り続けて40年を前にして、適応障害と診断され、人生初の休職となった。
この歳で働けなくなる。傷病手当はあるものの、金額は下がるし、もらえるのも給料日よりも大分後だ。
3人の子どもたちはどうする。
私の場合は、自分が好きだったことに「そんなことしている場合じゃない」とストップを出し続けた結果、好きなことへの意欲が一時的になくなった。
かと言って何もしない訳ではなく、とにかく不安やネガティブなことへの妄想を含まらせて、帰結する先は常に自己否定である。
休職中にカウンセラーさんから言われた。
「とりあえず」でいいから、少しずつやってみませんか。
衝撃だった。
確かに、収入も完全にゼロになるわけじゃない。給料日よりもタイムラグはあるものの、3ヶ月とか半年先ではない。
やる前から「やってもしょうがない」とか「そんなことしても何にもならない」と、やらなくていいための言い訳を必死に塗り固めているだけだった。
私は意識高い系の考え方に漏れず、「中庸」を目指してるつもりだった。
勝手に封じ込めた「とりあえず」や「まぁ、いいか」には、大切な言の葉もたくさん含まれていたのだ。
「作業興奮」という言葉がある。勉強や読書など、やっていく内にいわゆる「ノッてくる」という状態だ。
とりあえず始めることの効果はあまりに大きい。仮に小さな一歩だとしても、踏み出せたことは十分認めていい事実だ。
「まぁ、いいか」もそうだ。理想には届かなかったかもしれない。1日でやろうと思ったことすべてはできなかったかもしれない。それでも、できたことはある。「まぁ、いいか」の後に「こっちはできたよね」が含まれているときもある。
あるいは、全然進まなかったときもある。休職当時の3年日誌を見返すと「1日ダウナー日だった」とか、中には白紙の1日もある。1日に書ける文量は仕様上僅か数行の日誌なのにだ。
だが、それもいい。そういう日もある。また、やってみようと思える日が来るかもしれない。もしくは、そんな日は来ないのかもしれないが、そんなに減点法で少しでもバツを見つけて、何かにつけて自分を責めなくてもいいじゃないか。
認めること。赦すこと。
その言の葉に「NG」を出していた私が、強い自己否定に陥り、感情とエネルギーが枯渇するのは当然のことだった。
これからも、私は気が乗らなくてもやらなきゃいけないことは、「とりあえず」始める。そうしたら、自分なりの意味や解釈を見出せるかもしれないし、前向きな気持ちになれるかもしれない。
何より「イヤだなぁ」と思うことが片付いたらうれしい。
そして、毎日を振り返って、そのままだと忘れ去ってしまいそうな小さな感謝と自分への小さな「いいね!」を書き添えていく。やれなかったこと、上手くできなかったことも決して少なくない。
もちろん、それを改善していく意欲は忘れないようにしたいが、そのときの自分をそのまま受け止めて、前向きに物事に取り組めるように。
サッと行動に移せる「とりあえず」も、時には緩める「まぁ、いいか」も大切な言葉だった。
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