『OXANA 裸の革命家・オクサナ』活動家と呼ばれた女性の孤独な輪郭[試写鑑賞]

彼女はなぜ身体を前線に置いたのか
声を上げる人間がいつも強いわけではない。むしろ、強く見せることしか許されない人間の奥にこそ、いちばん深い孤独が沈んでいる。
『OXANA/裸の革命家・オクサナ』が胸に残すのは、FEMENの創設者として世界に知られたオクサナ・シャチコの鮮烈な闘争でありながら、同時に「活動家」と名づけられた瞬間、ひとりの女性がどれほど自分自身から遠ざけられていくのかという痛ましい問いでもある。
彼女は怒る。叫ぶ。身体を掲げる。権力に向かって突進する。その姿は確かにまばゆい。けれど本作が見つめているのは、そのまばゆさの裏側だ。抵抗の言葉を持った人間が夜、自分の部屋で自分の沈黙をどう扱うのか。世界を変えようとする者が、自分の壊れかけた心をどこへ置けばいいのか。
革命のアイコンとして消費される以前に、オクサナは絵を描き、信仰と衝突し、仲間を求め、傷つきながらもなお身体を前線に置いたひとりの人間だった。彼女は幼い頃からイコン画を学び、のちにFEMENの裸体、花冠、身体に直接書かれたスローガンという強烈な視覚言語をかたちづくっていく。祈りのために描いていた手が、やがて抗議のための身体を演出する。その順番を取り戻そうとするところにも、この映画の誠実さがある。

身体を奪い返すということ
オクサナたちの抗議が鋭いのは、女性の身体を「見られるもの」の位置から引き剥がし、「見返すもの」へと反転させたところにある。男性の欲望、国家の管理、宗教の規範、商業の眼差しによって意味づけられてきた身体を、彼女たちは自分たちの政治的な言語へと変えていく。裸であることは従属ではなく、服従の拒否になる。胸に書かれたスローガンは紙のプラカードよりも激しく社会の視線を乱す。なぜなら、権力は女性の身体を管理したがる一方で、その身体が怒りを帯びて公の場に現れることには耐えられないからだ。ここには、「私の身体は誰のものか」というフェミニズムの根源的な問いがある。
そしてその問いは、シスジェンダー女性だけに閉じるものではない。FEMENはのちに、トランスジェンダーの人々が受けてきた憎悪や嫌がらせに抗し、ジェンダーにかかわらず自分の身体として社会に存在する権利を支持する声明も出している。もちろん、その運動が実際にどれほど多様な身体を中心に置けたのかは別に検証されるべきだが、それでも身体を奪われた者が身体を取り戻すというこの映画の火種は、女性解放をめぐる古い問いを、現在のクィアな身体の政治へも接続していく。
けれど映画は、その答えを高らかな勝利として処理しない。身体を武器にするこということは、自らの身体を傷つけないこととはまた違う。世界に向けて晒したものは、やがて自分自身を削る刃にもなる。
オクサナの闘いは女性の身体を奪い返すためのものだったはずなのに、その身体が再び運動の象徴として、報道の素材として、他者の期待として彼女自身を縛っていく。この捻れを見逃さないからこそ、本作はフェミニズム映画として浅くならないのだ。

迷い、傷つき、立ち上がり続けた「人間」として心に残る
活動家という響きの重さ
また、「活動家」という言葉にはどこか便利な響きがある。社会の不正に敏感で、勇敢で、言葉を持ち、恐れずに前へ出る人。私たちはそういう像を求めがちだ。しかし、その期待は時に残酷でもある。活動家だって疲れるし、間違える。仲間との関係にも傷つく。メディアに利用されるし、支援者の視線にすら追い詰められる。
しかも女性の活動家には更に別の荷重がかかる。怒りを表明すれば過激と言われ、泣けば弱いと言われ、若かったり、美しければ見世物にされ、そうでなければ無視されたり、男性主体の抗議現場では家政婦扱いされたりもする。沈黙すれば責任を問われ、声を上げれば品位を問われる。その多重的な拘束の中でオクサナは「革命家」として立ち続けることを求められていく。
本作が深く刺さるのは、社会運動を理念の物語だけでなく、感情、身体、労働、ケア、友情、嫉妬、疲弊の集積として描いているからだ。FEMENの活動はウクライナのセックスツーリズム反対から始まり、ベラルーシやロシアの権威主義への抗議へと広がった。
だが、運動の歴史は声明文や逮捕歴だけでは書けないもの。誰かが眠れなかった夜に仲間の言葉に救われた瞬間、裏切られたと感じた沈黙、自分の顔がニュース映像の中で知らない記号へ変わっていく恐怖。そうしたものまで含めて、政治は人間の内部で鳴っている。本作とはその「鳴り」を聞こうとする映画だ。

オーディションで才能を見出されて本作が映画初主演
美談にならない場所に残る火
だから、この映画に触れるときに彼女を「凄い人」として遠くへ置きすぎないほうがいい。むしろ、私たちの暮らしの中にも小さなオクサナはいるのだ。理不尽な言葉を飲み込めなかった日。職場や家庭や恋愛の中で、なぜ私だけが黙らなければならないのかと感じた瞬間。誰かの為に怒ったはずなのに、その怒りの熱で自分が先に燃え尽きそうになった夜。フェミニズムは遠い戦場の旗ではなく、そうした生活の裂け目から始まるものなのだ。
オクサナの孤独は特別でありながらも決して他人事ではない。彼女の葛藤は世界を変えたいと願う人間が、同時に世界から愛されたかったという、あまりにも人間的な震えさえも帯びている。声を上げること。身体を差し出すこと。仲間を信じること。傷つきながら、それでももう一度立つこと。すべてが美談にはならない。むしろ美談にならない場所にこそ、この映画の火は残る。
オクサナが描いたイコンの金色のように、暗がりの中で微かに光り、祈りにも怒りにも似た色を放つ。革命とは時に群衆の叫びではなく、誰にも見えない部屋でひとりの女性がそれでも自分の輪郭を失うまいとする静かな呼吸のことのようにも、私の目には映ってしまった。
『OXANA 裸の革命家・オクサナ』
ウクライナのフェミニスト活動団体「FEMEN」の共同創設者であり、芸術家としても活動したオクサナ・シャチコの半生を描く伝記ドラマ。
2002年、ウクライナ西部フメリニツキー。アルコール依存症の父と、その父を支える母のもとで暮らすオクサナはイコン画を描いて家計を助けていた。しかし、教会での不当な扱いや社会に根づく男尊女卑への怒りから家を出る。2008年、街頭討論で出会った仲間たちと「FEMEN」を結成。翌年、キーウでセックスツーリズム撲滅を訴える抗議の中で上半身を露わにし、自らの身体を“戦闘服”とする表現へたどり着く。活動はやがて国境を越え、2011年にはベラルーシでルカシェンコ政権に抗議して拘束と拷問を受け、モスクワでのプーチン批判では重傷を負う。弾圧が強まるなか、オクサナは政治難民としてパリへ逃れる決断を迫られる。
監督は『スラローム 少女の凍てつく心』のシャルレーヌ・ファビエ。戦時下のウクライナでZOOMオーディションを通じて見いだされたアルビーナ・コルジが、本作で映画初主演を務めている。
【原題】Oxana 【製作年】2024年 【製作国】 フランス/ウクライナ/ハンガリー 【配給】 スターキャットアルバトロス 【上映時間】 103分
