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掌編#065 『借り物の言葉』

「自分らしく」と言ったあと、
男はそれが誰の言葉だったか思い出せなかった。
スマホの中には、保存した言葉がいくつもあった。
手放すことも愛。
違和感を信じる。
人生は選択の連続。
自分を大切にする。
男はそれらを、人前でも、SNSでも、少しずつ形を変えて自分のものとして使ってきた。
 
便利で、
相手を傷つけずに済んだ。
自分が深く考えているようにも見えただろう。
何かを選んだふりもできた。
けれど、退職届のコピーと古い診察券が手元に残った夜、
保存していた言葉はどれも軽々しく感じられた。
 
必要な変化。
次のステージ。
手放す時期。
男は画面をなぞっていく。
どの言葉も、指の下を滑っていくだけだった。
 
古いビルの三階に、その部屋はあった。
壁に沿って並ぶ白いパイプ椅子。
低く鳴る蛍光灯。
テーブルの上には、紙コップがいくつか置かれている。
水が少しだけ入っていた。
誰かの薬袋。
折れた診察券。
角の曲がった封筒。
擦り切れた黒い鞄。
そこにいる人たちは、あまり話さなかった。
誰も、前向きに、とは言わなかった。
あなたらしく、とも言わなかった。
 
「話せるところだけでいいです」
司会のような男が言った。
順番が来て、男は口を開いた。
「自分らしく……」
そこで止まる。
 
紙コップの水が、少し揺れていた。
隣の席の人が、薬袋を畳んでいる。
誰も続きを待っていない。
誰も助け舟を出さなかった。
男は、もう一度言おうとした。
言葉が出てこない。
 
ポケットからスマホを取り出す。
保存済みの画面を開いてみると、
そこには、使える言葉がいくつも並んでいた。
男はしばらく見ていた。
それから、画面を伏せる。
部屋の隅で、誰かが小さく咳をした。
男はまだ、何も言えずにいた。

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