美術館では、いつも絵ではなく人生を見ている
私は、芸術にはそれほど興味がない。
絵画に詳しいわけでもないし、
彫刻を見て、その芸術的価値を
語れるわけでもない。
ましてや、「この作品には
作者のこんな思いが込められている」
などと解説することなど、とてもできない。
それでも、これまで国内外の美術館には
数多く足を運んできた。
そしてこれからも、機会があれば美術館を
訪れるのだと思う。
なぜ、それほど芸術に興味のない私が
美術館へ行くのか。
答えは簡単だ。
デザイナーである家内に
同行しているのである。
家内にとって美術館は、
私とはまったく違う場所なのだろう。
一つの作品の前で立ち止まり、
じっと見つめている。
近づいて見たり、少し離れて見たりする。
私には分からない何かを
感じ取っているらしい。
その横で私は、作品そのものとは
少し違うことを考えている。
「なぜ、この作品がここにあるのだろう」
ということである。
世の中には、
絵を描く人が数え切れないほどいる。
彫刻をつくる人もいる。
陶芸、造形、写真、現代アート……。
それこそ毎日、世界中のどこかで
膨大な数の作品が生まれているはずだ。
その中で、なぜ私の目の前にあるこの作品が
美術館の壁に掛けられているのだろう。
そして、なぜこの作者は後世に
名を残すほど有名になったのだろう。
そんなことを考えてしまう。
以前、絵画に詳しい人から、
「絵は、描かれているものだけを
見るのではなく、その奥にある風景や
作者の思想を想像しながら見ると
面白いですよ」
と教えてもらったことがある。
なるほど。
それ以来、私も美術館へ行くと、
それを心掛けるようになった。
具象画なら、まだ何とかなる。
描かれている人物を見ながら、
「この人は何を考えているのだろう」
風景画なら、
「作者は、なぜこの場所を描こうと
思ったのだろう」
そんなことを想像してみる。
だが抽象画になると途端に分からなくなる。
大きなキャンバスに線が何本も走っている。
色が重なっている。
丸のようなものがあったり、
四角のようなものがあったりする。
しばらく作品の前に立ってはみるものの、
やはり分からない。
そして最後には、
「これなら俺にも描けそうだ」
などという、芸術家が聞いたら
怒りそうなことを考えてしまう。
具象画を見ても同じことを思う時がある。
「上手いのは分かるけれど、
このくらい描ける人は、
ほかにもたくさんいるんじゃないのかな」
これまた、かなり失礼な感想である。
ある時、家内に聞いてみた。
「この線がグチャグチャしていて、
色もあれこれ使っている絵、
誰でも描けるんじゃないの?」
家内は即答した。
「描けないよ」
そして、
「きちんとデッサンを勉強して、
長い間鍛錬してきた人だから、
こういう絵が描けるの」と言う。
別の時には、具象画の前で尋ねてみた。
「街角で絵を描いて売っている人の作品と、
どこが違うの?」
また家内は即答する。
「全然違うよ。奥行きとか、構図とか、
色の使い方とか……」
私には見えていないものが、
家内には見えているらしい。
説明を聞いてからもう一度作品を見る。
「なるほど……」
と言いながら眺めてみる。
だが、やはりよく分からない。
長年デザインの世界にいる家内から
何度説明されても、私の芸術を見る目は、
なかなか成長してくれないようだ。
しかし、美術館を歩きながら、
別のことには興味が湧いてくる。
それは、
「世に出るとは、どういうことなのだろう」
ということである。
目の前にある作品を描いた人と同じ時代にも
絵を描いていた人は大勢いたはずだ。
同じように朝から晩まで絵を描き続けた人。
同じように才能を持っていた人。
生涯を芸術に捧げた人。
それでも、その名前も作品も、
今の私たちは知らない。
一方で、美術館の壁に掛けられ、
何十年、何百年を経ても
多くの人が見に来る作品がある。
その違いは何だったのだろう。
もちろん、才能はあったのだろう。
努力もしたのだろう。
誰にも真似できない独創性も
あったのかもしれない。
しかし、それだけだったのだろうか。
その作品を見つけた人がいた。
評価した人がいた。
世の中へ紹介した人がいた。
支援した人がいた。
そして、その時代や社会が、
その作品を受け入れた。
そこには、本人の才能や努力だけでは
説明できない、出会いやタイミングや
運というものもあったのではないだろうか。
そんなことを考えていると、
これは芸術だけの話ではないように
思えてくる。
人生も同じなのかもしれない。
同じくらい努力していても、
結果は同じにはならない。
同じくらい能力があっても、
歩む人生は違う。
偶然出会った一人の人によって
人生が大きく動くこともある。
何気なく引き受けた仕事が、
その後の人生を変えることもある。
たまたまそこに居合わせたことで、
思いもよらない機会を得ることだってある。
チャンスに出会う人。
そのチャンスに気づく人。
気づいても動かない人。
そして、小さなチャンスをつかみ、
自分のものにしていく人。
運というものも、おそらく同じなのだろう。
運が来るのを待っているだけでは
何も起こらない。
目の前に現れた小さな偶然を、
「もしかしたら」
と思って手を伸ばしてみる。
その積み重ねが、後から振り返った時に、
「あれが人生の転機だった」
となるのかもしれない。
美術館の壁には、今日も世界的に有名な
作品が静かに掛けられている。
その一枚の向こう側には、
世に出ることのなかった
数え切れないほどの作品があるのだろう。
そして、その作品を描いた、
数え切れないほどの人生があったハズだ。
私は相変わらず、
芸術のことはよく分からない。
抽象画を見れば、これからも、
「俺にも描けそうだな」
などと思ってしまうかもしれない。
それでも美術館へ行くのは、嫌いではない。
家内の後ろを歩きながら作品を眺め、
芸術とは少し違うことを考える。
才能とは何だろう。
努力とは何だろう。
出会いとは何だろう。
運とは何だろう。
そんなことを考えるのも、
私なりの美術館の楽しみ方なのかもしれぬ。
そして次に美術館へ行った時も、
私はきっと一枚の絵の前で思うのだろう。
「どうやってここまで辿り着いたのだろう」
と。
