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岸惠子さんを偲んで――市川崑『おとうと』映画という、細いリボン

昨夜は、岸惠子さんを偲んで、市川崑監督『おとうと』(1960年11月1日・大映)を久しぶりにスクリーン投影した。

幸田文の自伝的な同名小説を水木洋子が脚色、名手・宮川一夫がキャメラを担当。大正末期の東京を舞台に、岸惠子が演じる姉・げんと、川口浩扮する弟・碧郎(へきろう)。壊れかけた家庭のなかで、母のように弟を庇い、守り続ける姉と、そんな姉に甘えながら破滅へと突き進んでしまう弟。二人の深い絆を通して、「家族とは何か」を描いた、愛しくも切ない映画である。

1960年度のキネマ旬報ベスト・テンでは第1位となり、翌1961年のカンヌ国際映画祭でも技術面が評価された、市川崑監督の代表作の一本である。

ぼくは10代のときに、この映画に出逢った。今振り返ってみても、あの年頃で『おとうと』を観ることができたのは、本当に良かったと思っている。若いときには、どうしても岸惠子と川口浩の姉弟に感情移入してしまう。大人たちは身勝手で、家庭は息苦しく、碧郎だけが自由奔放に見える。しかし年齢を重ねてから観ると、森雅之演じる父や、田中絹代演じる継母の弱さ、不器用さ、哀しさが、以前とはまったく違って見えてくる。

映画とは不思議なものである。同じフィルムなのに、観るこちら側の人生が変わると、見えてくるものも変わってしまう。

森雅之の父、田中絹代の母

げんと碧郎は実母を亡くしている。父は高名な小説家で、書斎に籠って仕事をしている。幸田文の原作だけに、そこには当然、父・幸田露伴の面影が重なっている。

森雅之の父が実にいい。息子を愛していないわけではない。しかし父親として家庭のなかに入ってゆくことができない。妻と子供たちの軋轢をわかっていながら、どこか一歩引いたところから眺めている。

文学者として自分の世界を持つ男の優しさと、家庭人としての無責任さ。その両方を、森雅之はほとんど説明的な芝居をせずに表現している。

森雅之自身が作家・有島武郎の長男だったということを考えると、この「文学者の父」を演じる姿には、不思議な重なりさえ感じてしまう。

一方、後添えの母を演じるのが田中絹代。これがまた凄い。リウマチを患い、ほとんど床に伏している。晩婚で妻となり、すでにある程度成長した二人の子供の母親になったものの、どう接していいのかわからない。げんにも碧郎にも、時として理不尽なほど冷たい。しかも厳格なキリスト教信仰に自らを委ねている。

子供たちから見れば、「信仰に逃げている」ように映るだろう。ぼくも若い頃に観たときには、この母親が好きになれなかった。なぜ、こんなに子供たちに冷たいのか。なぜ碧郎をもっと抱きしめてやれないのか。

ところが今回観ていると、この継母もまた「母親になれなかった自分」に苦しみ続けていたのではないか、と思えてくる。そして物語の後半、結核に冒され、死を目前にした碧郎に向かって、心の底から詫びる。この母と子の和解には、何度観ても心を揺さぶられる。

田中絹代は、この役で大きな身振りをほとんど見せない。病身だから当然、動きも限られている。それでも表情と声だけで、それまで押し殺していた「母になれなかった女」の悔恨が一気に溢れ出してくる。この演技によって、冷たい母親だった人物が、突然「可哀想な一人の人間」として立ち上がる。

男勝りで、情の深い岸惠子

しかし、やはりこの映画の中心にいるのは岸惠子だ。げんは、いわゆる「健気なお姉さん」ではない。勝ち気で、口が悪く、男勝り。弟と本気で喧嘩をする。怒鳴りつける。腹を立てる。それでも誰かが碧郎を悪く言えば、猛烈な勢いで庇う。

当時二十代後半だった岸惠子が、女子学生のげんを、まるで本当にその年頃の少女であるかのように演じている。若く見える、というだけではない。歩き方、走り方、弟を睨みつける目、喧嘩をするときの身体の動き。すべてが若い。

そこには、『君の名は』の真知子に代表される「美しいスター・岸惠子」のイメージとは、かなり違う岸惠子がいる。美しく見せようとしていない。むしろ、少女の粗野さや不器用さを積極的に出している。それなのに、ふとした瞬間、どうしようもなく美しい。それこそが映画女優なのだと思う。

川口浩の「愛されたい少年」

弟の碧郎を演じる川口浩も素晴らしい。17歳。姉より三つ年下。愛情に飢え、家に居場所がなく、不良仲間と付き合い、家族を困らせる。いまでいう「問題児」である。
しかし市川崑も水木洋子も、碧郎を「不良少年」という記号にはしない。乱暴で、わがままで、嘘もつく。それでいて姉には甘える。誰よりも愛されたいのに、「愛してほしい」と素直には言えない。

そこが切ない。げんもまた、弟を慈しむ聖女ではない。碧郎に腹を立て、傷つけられ、泣かされながら、それでも最後には弟の側に立ってしまう。姉であると同時に母であり、友達であり、ときには恋人にも似た、誰よりも近い存在。

もちろん、それは男女の愛ではない。しかし二人の結びつきには、普通の「きょうだい愛」という言葉だけでは説明できないほど激しいものがある。

一本のリボンが結ぶ姉と弟

だからこそ、碧郎が結核に倒れてからの後半は胸に迫る。あれほど家族を振り回していた少年が、病院のベッドの上で、みるみる弱ってゆく。当時、結核はまだ死の影が濃厚な病だった。

それまでバラバラだった父、母、姉、弟が、皮肉なことに碧郎の死を前にして、ようやく「家族」になってゆく。父が息子を見る。母が息子に詫びる。そしてげんは、弟のそばを離れない。

ぼくがこの映画で忘れることのできないのが、病院での「リボン」である。夜中に碧郎が眠れないとき、看護婦(江波杏子)たちを呼んでお茶会をすることに。しかし、げんが眠っていても、気づくことができるように、げんは自分と弟の手を一本のリボンで結んで眠る。

なんという映画的な表現だろう。台詞で「私はいつまでもあなたのそばにいる」と言わせる必要などない。一本の細いリボンだけでいい。

げんと碧郎を結びつけてきたものが、目に見える形になる。同時に、そのリボンはあまりにも細い。人の命をこちら側につなぎ止めるには、あまりにも頼りない。やがて、そのリボンが動く。碧郎が目を覚ましたのではない。弟の死が近づいていることを、その細いリボンがげんに知らせる。

岸惠子の芝居、市川崑の演出、宮川一夫の画面。それまで映画のなかに積み重ねられてきたものが、この一本のリボンへと収斂してゆく。

「泣かせる映画」にしない市川崑

『おとうと』が傑作である理由は、こうした感情の昂まりを、決して安易なメロドラマにしないところにもある。
市川崑は冷静である。泣かせよう、泣かせようとはしない。碧郎が息を引き取ったあと、げんも永遠に泣き崩れているわけではない。ショックで脳貧血を起こして倒れたげん。やがて彼女は起き上がり、エプロンをつける。そしてラスト、毅然と立ち上がる。

人間は悲しくても生きてゆかなければならない。死者の時間は止まる。しかし生き残った者の時間は、残酷なほど続いてゆく。そのことを、市川崑は突き放すような冷静さで見つめている。

宮川一夫のキャメラと「銀残し」

そして、この映画を忘れ難いものにしているもう一人の主役が、宮川一夫のキャメラである。『おとうと』の画面はカラーでありながら、華やかな色彩とは無縁である。黒が深い。色が沈んでいる。

大正末期の東京が、古い記憶の底から浮かび上がってきたように見える。この独特の映像を生み出すために、市川崑と宮川一夫らが取り組んだのが、いわゆる「銀残し」と呼ばれる特殊現像だった。

通常のカラー現像では取り除かれる銀をあえて残すことで、彩度を抑え、黒を強くし、カラーとモノクロームの中間のような画調を生み出す。本作で行われたこの試みは、その後の映画の色彩表現に大きな可能性を開いていくことになる。

これが実に美しい。単なる「レトロ調」ではない。記憶とは、こういう色をしているのではないかと思わせる。畳、障子、雨、着物、病室、街並み。どれもリアルでありながら、現実そのものではない。

幸田文が記憶のなかから呼び戻した弟。その「思い出のなかの時間」を、市川崑と宮川一夫は色そのものによって映像化したのではないか。だから『おとうと』を観ていると、物語を見ているというよりも、誰かの遠い記憶のなかへ入っていくような感覚になる。

10代で観た『おとうと』、そして今

そして2026年の今、岸惠子さんを偲んでこの映画を観ると、その感覚はいっそう強くなる。『おとうと』のげんを観ていると、その後の岸惠子さんの生き方まで重なって見えてくる。他人が決めた「女らしさ」や「スターらしさ」に収まらない。自分で考え、自分で行動する。勝ち気で、颯爽としていて、それでいて情が深い。げんという少女には、後年の岸惠子さんへとつながってゆく何かが、すでに宿っていたようにも思える。

ぼくは10代でこの映画に出逢った。あの頃は、げんと碧郎を見ていた。いまは、げんと碧郎だけではなく、その向こうにいる父と母を見る。家族を愛しているのに、うまく愛することのできない人たちを見る。そして、失って初めてわかることがある、という人間の哀しさを見る。

映画は変わらない。変わるのは、こちらなのである。だから名作は、一生のあいだに何度でも観る価値がある。10代で観た『おとうと』と、岸惠子さんを偲んで観た2026年の『おとうと』は、同じ映画でありながら、ぼくにとってはもう別の映画でもある。

映画という、細いリボン

スクリーンのなかでは、岸惠子さんは永遠に若い。男勝りのげんが走り、怒り、弟を叱り、そして誰よりも弟を愛している。細いリボンで結ばれた姉と弟の手。人間の命はいつか途切れる。

けれど映画というものは、ときに、その細いリボンのように、過ぎ去った人と、いまを生きるぼくたちとを結び続けてくれる。昨夜、『おとうと』をスクリーンいっぱいに映しながら、そんなことを考えていた。

岸惠子さん。たくさんの素晴らしい映画を、ありがとうございました。心よりご冥福をお祈りいたします。


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佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所 よろしければ、娯楽映画研究への支援、是非ともよろしくお願いします。これからも娯楽映画の素晴らしさを、皆さんにお伝えしていきたいと思います。