福音派の伝道者と、遠くからの福音
信教・思想・良心の自由を尊重した上でお読みください。
キリスト教・福音派に属する伝道者と話す機会がありました。
ここでは、その人を「伝道者」と呼ぶことにします。
伝道者は、このように語りました。
「聖書の真理を伝えなければいけない。
知らないままでは、人は悲惨な目に遭ってしまうから。
イエス様の十字架と復活を、伝えなければいけない。」
そのとき、私はただ、真面目に聞いていました。
福音派の立場に立つならば、それは全く妥当な主張だと思われました。
キリストの十字架と復活こそが救いの核心であり、それを知らないまま生きることは、危機的な状態である。
そう理解するとするならば、「伝えなければいけない」という切迫感が生まれるのは自然なことです。
私は思いました。
福音派の伝道者として、正しい。
その人は、軽い気持ちで語っていたわけではありませんでした。
拒絶されることも多いであろう言葉を、それでも手放さず、熱心に、真剣に、伝えようとしていました。
一方で、同時に、私の中には別の思いも浮かんでいました。
福音の救いは、本当にそれだけなのだろうか。神の働きは、「語ったか」「語らなかったか」だけで測りきれるものなのだろうか。
その点については、今もなお、分からない部分があるとも考えます。
それでも、私はこうも考えました。
もし伝道者が、周りからの声などに流されることなく、自分に与えられた道を歩み続けるとするならば、すぐではなくとも、いつか、地域の中でもっと評価されることがあるのかもしれない。
もっとも、その人自身は、人の評価を求めていないのかもしれません。
それでも、後になって信仰を持つ人が現れたとき、「あの人が語ってくれたから」と振り返られることが、あるのかもしれません。
そんなことを、私は思いました。
そして今、私はその伝道者とは離れた所にいます。
まったく同じ場所に立つということもしていません。
ただ、遠く離れたところから、その人を応援するためにも、こうして見えないインターネットの片隅で、キリストの福音を紹介しているのかもしれません。
光の中で声を出す人がいて、その光を、離れた場所から反射する者もいる。
そのどちらもまた、それぞれの仕方で、同じ光を指し示しているのかもしれない、そのようにも思っています。
