僕たちは、あと何年一緒に暮らせるんだろう。
息子が生まれてから、
僕の頭の中には、ずっと小さな先生がいます。
ちゃんと食べさせなきゃ。
ちゃんと寝かせなきゃ。
ちゃんと歯を磨かせなきゃ。
ちゃんと挨拶できるようにしなきゃ。
ちゃんと片づけられるようにしなきゃ。
親なんだから
ちゃんと育てなきゃ。
でも、この「ちゃんと」が増えるほど、
僕は息子と一緒にいるのに、息子を見なくなっていきました。
見ていたのは、
時計だったり、
食べた量だったり、
できたことだったり、
できなかったことだったり。
目の前にいる息子より、
「ちゃんと育っているか」を
見てしまっている。

寝る時間になっても、
息子が遊んでいる。
「もう寝るよ」
「まだ遊ぶ!」
「明日も保育園でしょ」
「まだ!」
時計を見る。
もうこんな時間。
早くお風呂に入れなきゃ。
早く歯を磨かなきゃ。
早く寝かせなきゃ。
そして、
「早くして!」
と怒りながら言う。
でも息子は、
別に僕を困らせたかったわけじゃない。
ただ、今日の遊びを
もう少し続けたかっただけなんですよね。

ある日、
ふと思いました。
僕はいつまで、
この子を「育てる」んだろう。
息子は今、4歳です。
あと何年かすれば、
一人でお風呂に入るようになる。
自分で髪を乾かすようになる。
「パパ、一緒に寝よう」
と言わなくなる。
友達との予定が増えて、
休日も、家族とは別の場所へ行くようになる。
そしていつか、
この家を出ていくかもしれない。
そのとき僕は、
もう息子を、「寝かせる」必要がありません。
「食べさせる」必要もない。
「早くして」と言う必要もない。
僕が今
少し面倒だと思っていることの多くは、
いつか、やりたくてもできなくなることなんです。

それから僕は、
「子育て」という言葉を、
少しだけ違うふうに考えるようになりました。
「育てる」と考えると、
僕はいつも、
何かをする側になる。
食べさせる。
寝かせる。
教える。
遊んであげる。
ちゃんとさせる。
でも、
「暮らす」にすると、
景色が変わるんです。
食べさせる、じゃなくて、
一緒に食べる。
寝かせる、じゃなくて、
一緒に寝る。
遊んであげる、じゃなくて、
一緒に遊ぶ。
育てる相手だと思っていた息子が、
一緒に暮らしている人になる。
それだけで、
少し肩の力が抜ける気がして。
考えてみれば、
僕自身の子ども時代もそうでした。
親が僕を、
どんな方針で育てていたのかなんて、
知りません。
でも、
一緒に食べたご飯は、
なんとなく覚えてる。
車に乗って出かけたこと。
くだらないことで笑ったこと。
家の中に、家族の声があったこと。
親はきっと、僕を一生懸命、
「育てていた」。
でも子どもの僕が受け取っていたのは、
教育方針ではなく、家族と暮らしたという記憶だった。

だったら、
息子も同じなのかもしれません。
僕が何時に寝かせたかなんて、
きっと忘れる。
野菜を何グラム食べさせたかなんて、
もちろん覚えていない。
僕がどれだけ、
「ちゃんと育てよう」と頑張ったかも、
知らないかもしれない。
でも、
隣でご飯を食べていたこと。
お風呂で笑ったこと。
布団の中で、
どうでもいい話をしたこと。
「パパ」と呼んだら、僕がそこにいたこと。
そういうものが、
息子のどこかに、残ってくれたら
それでいいのかもしれない。
子育てが辛かったころの僕は、
「この子を、ちゃんと育てなきゃ」
と思っていました。
今は、少し違う。
「この子と、ちゃんと暮らしたい」
ちゃんとした子にするためではなく、
この子と過ごせる今日を、ちゃんと味わうために。
だって、
僕たち三人が、
同じ家で暮らせる時間には、
ちゃんと終わりがあるから。

いつか、
息子がこの家を出ていったあと。
夜になっても、
「パパー!」と呼ばれない。
お風呂も静か。
布団も広い。
ご飯だって、
ゆっくり食べられる。
たぶん、
今よりずっと楽です。
そしてきっと、
その静かな家の中で、
僕は思い出すんだと思います。
ご飯を食べるのが遅かったこと。
お風呂から全然出てこなかったこと。
寝る時間なのに、
まだ遊びたがったこと。
あんなに、
「早くして」と思っていた毎日を、
今度は僕が、
「もう少しだけ続いてほしかった」と
後悔する日が必ず来る。
だから今は、
ちゃんと育てることより、
一緒に暮らしたい。
子育ては、
子どもを大人にするまでの時間じゃなくて、
この子と同じ家で暮らせる、
限られた時間なのかもしれません。
今日もきっと、
思い通りにはいかない。
怒ることもある。
「早くして」も、
普通に言うと思います。
それでも、
夜になって、
息子が隣で眠っていたら、
思い出したい。
僕はいま、
子育てをしているだけじゃない。
いつか僕が死ぬほど懐かしくなる、
家族との暮らしの真ん中にいる。

