白いたまごを白い色鉛筆で描く-白い黄身のリアリティとは?
白いたまごを白い色鉛筆で描く


白い紙に白いたまご、質感の違いですね?
クロードさん:
そうです。むしろ「白 vs 白」なのに、なぜ卵が見えるのかが面白いです。
ポイントは「色」ではなく、質感・光・影・輪郭の差で白さを成立させること。
白い紙 → マットで乾いた、細かい粒子感
白いたまご → なめらかで密度のある、少し光を返す質感
接地部分 → ごく薄い灰色の影で「そこにある」を示す
卵の輪郭 → 線で囲まず、明暗差だけで浮かび上がらせる
背景 → 真っ白ではなく、ほんの少し温度のある白〜薄いグレー
つまり、
白い紙の上に、白い卵を置く。
色を増やさず、質感の違いだけで卵を見せる。
そして
クオリア
白い黄身
ここに
ぷりぷりの黄身が見えますね?

クロードさん:
クオリアをこの作品に重ねると、かなり面白いです。
クオリア(qualia)とは、簡単に言えば、
「自分が実際に感じている、その感じそのもの」です。
たとえば「黄」という情報を知っていることと、黄を見たときに立ち上がる“黄色さ”を感じることは違う。
その主観的な「感じ」がクオリアです。
今回の「白い卵」は、そこを少し変な方向に揺さぶっています。
「白い黄身のリアリティ」
普通、私たちは、
卵=白い殻+黄色い黄身
という経験を持っています。
だから、白い卵を割って、そこから白い黄身が出てくると、
「これは卵だ」と認識できるのに、
「なんだか卵ではない」
という感覚が生まれる。
ここにクオリアがあります。
「白い黄身」という物体そのものが不思議なのではなく、
見えているものと、自分の中に蓄積された“卵らしさ”が衝突する。
黄色であるはずの黄身が白い。
それなのに、
丸い
盛り上がっている
半透明の卵白に包まれている
光沢がある
割れた殻が周囲にある
という情報によって、
「これは黄身だ」
と脳が認識してしまう。
つまり、
色を失っても、黄身のリアリティは残るのか?
という問いになります。
だから「白」は単なる色ではない
この作品では、白を「色」として扱うのではなく、
白という知覚そのものを分解する。
白い紙。
白い殻。
白い卵白。
白い黄身。
全部「白」なのに、全部違って見える。
紙は乾いている。
殻は硬い。
卵白は透明で粘ついている。
黄身は柔らかく、内部に密度がある。
つまり、
色は同じなのに、触ったときの想像が違う。
ここにもクオリアがある。
黄色がなくても、黄身を黄身として感じられる。
その感じてしまうことそのものが、
この作品におけるクオリアだと思います。
