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仏教は幸福教なのか

しばしば、仏教は幸福になるための教えだというのを耳にする。

たしかに誰もが幸福に生きたい。そして言う、幸福になるために生きているのではないか、と。

私も、幸福に生きたい。切実な願いではないが、ずっと幸福のままならそれは嬉しいに決まっている。

しかし、思わされることがある。

今生きている世界の80億人のうち、本当に幸福に生きている人は、たとえば何人ぐらいだろう。

仮に、8千万人とかなら、1%しか幸福を享受できていないことになる。

安定した先進国に生まれたとしても、現実はそれほど多くないかも知れない。

また、そのうち幸せになる仏教で、本当に幸せになっている人は、何人ぐらいだろう。

仮に80万人だとすれば、またこれも1%程度である。

当たらずも遠からずではないか。

さらに、仏教して幸福になれていない人は、仏教で幸福になっている人より多いのではないか、という気もする。

そもそも、幸福になるための仏教なら、きっと幸福ではない人に意味のある教えなのだろう。

どこにもそんな統計を正確に割り出したデータはないが、幸せになる仏教と言っても、その幸せとは一体どういう定義なのか。

現代人のイメージする幸福像は、例えば裕福で、愛する人たちに囲まれて、やりがいのあることに時間を使い、困りごとは制御下にある、とかだろうか。

それは仏教の開祖 釈迦が捨てたことなのだ。

釈迦は、王子であった。財も地位も、家庭も健康も全て持ち合わせていた。それらを捨ててまで求めた道が、成道により仏教となった。

幸せにするというのが仏教のテーマであれば、王子の生活に戻ることがその教えとなる。

そんな幸せでは、どうにもできない内面の真実に、踏み込んで行った釈迦の教えが仏教のはずである。

そういった幸福を捨て去った彼は、幸福をテーマに求道をしたのか。

仏様に感謝しているから幸せなのだというなら、はたから見てそれは陶酔と変わらない。

あなたは本当の幸せを知らないのだ、だからそれを教えるというカルト宗教も多い。

幸福になるために仏教をするのだ、というなら世界で仏教しなくても幸福な人間はかなり多い。

幸福と仏教は、見返りの関係にあるのか。

幸福になるための仏教といって仕舞えば、それは手段と目的の構造に過ぎない。

手段と目的なら、先の幸福の定義を目的として、手段たる方法論や考え方にすがればいい。

仏教とは、そういう幸福教なのか。

曽我量深という人がはっきりとこう言った。
「浄土真宗は、幸せになるための教えではありません。幸せになる必要がなくなる教えです。」

また和田稠という人はこう残している。
「人間は幸福ではたすからんのだ、我も人も世も幸福では助からんのだ、それでお釈迦様は、富を捨て位を捨て家族を捨て国を捨て、ほんとうの人間の生き方を求めて、この人間の世界を出ようと。そして真実を求めよう。それが仏法です(中略)真宗は幸福を約束する宗教ではないんです」

死んでから幸せになると言っても、死んだあと幸せに生きたいという妄想に近い。

浄土とか、涅槃というのは、そんなお花畑な生活の場なのか。

そう信じることが幸せなのだというなら、それは考え方の押し付けに過ぎない。

曽我の言葉は、本質をついている。幸せになるやり方、考え方が仏教なわけではない。

そもそも釈迦は、幸せになることよりも、苦しみとは何なのか、なぜ苦しみが生まれるのか、という真実を真摯に見据えていった。

苦しみを消す方法の模索をして解決方法を発明しようとしたわけではない。

そして苦しみのない世界があるとすれば、そこに住むものは、苦しみとは関係のない存在であるとした。

肉体を持って、寿命のある人間は、そもそも苦しみをゼロにできる存在ではない。

苦しみのない世界は、お花畑とかではない。

真実の純粋領域であり、それを仏の世界とした。それを浄土(sukhāvatī)と呼んだ。

原語は、幸せのある場所という意味だが、人間が思っているような「幸せ」などではない。

なぜなら、人間の幸せは、得てして自分にとっての居心地を中心にしている。

人類がみな幸福で、世界が平和になれば、私は幸福なのだというなら、人類や地球の救済を仏教に求めるだろうか。

人間は、苦しむ存在である。しかし、苦しみがなくなるのと、幸せになるのは同じではない。

不幸でないことが、そのまま幸福かといえば、病気でないから健康だという構造と同じである。

そもそも、仏教を幸福の装置にしたいという、その期待こそが仏教が最も否定することではないか。

真実の世界の中で、現実世界を生きる。これは変えられない。

仏教は現実世界を変えることを、請け負わない。

世界には、現実世界で幸福になっている人間は数多いる。

しかし彼らの幸福は、個人の努力と縁起の結果である。仏教があってもなくてもそうなったのだ。

幸せになる方法というなら、きっと仏教はそこに位置しない。

何のために仏教があるのだという答えが、幸せになるためですというなら、世界の成功者や幸福な人間にとって、仏教はあまり関係していない。

本当は、人も羨む幸せそうな人間は、それぞれ苦悩もあり、悲しみもある。ただ人間として偉いのだろう。

幸せになるための教え、というなら仏教にあやかるよりも、もっと次元の違う視点が必要なのだ。

なら仏教は何のためにあるのか。その答えの前に、何のためという目的を必要とする考えを見直すべきだろう。

目的をつくれば、そのための手段が必要となる。

幸せという目標、仏教はその手段。こういう構図がそもそも間違いではないか。

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