空が渋滞した日

2042年、空飛ぶクルマが当たり前になった地方都市
2042年8月。
「昔は、この道を車で走っていたんだよ」
父がそう言うと、後部座席の娘は不思議そうな顔をした。
「なんで? 空飛べばいいじゃん」
窓の外には、夏の田んぼがどこまでも広がっていた。
道路は空いている。
制限速度60キロの県道を、父の電気自動車は静かに走っていた。
目的地までは34キロ。
ナビには、
到着予定時刻 10時08分
所要時間 38分
と表示されている。
「今日はエアタクシー使わないの?」
妻が助手席から聞いた。
「使わない。昨日調べたら、家からバーティポートまで12分。そこから搭乗待ちが18分。飛行時間は16分。着いたところから目的地までまたタクシーで8分」
父は笑った。
「全部で54分だ」
「車より遅いじゃん」
娘が言った。
「そういうこと」
1 空飛ぶクルマの時代
十数年前、「空飛ぶクルマ」は未来の交通革命として登場した。
正式にはeVTOL。
Electric Vertical Take-Off and Landing aircraft。
電動垂直離着陸機である。
初期の機体は航続距離がわずか数十キロしかなかった。
それでもニュースは熱狂した。
「駅から観光地まで15分」
「渋滞知らずの未来交通」
「地方の交通革命」
「空のタクシー時代へ」
巨大なローターを持つヘリコプターと違って、多数の小型電動ローターをコンピューターで制御する。
静か。
電動。
垂直離着陸。
そして何より、
空には渋滞がない。
――はずだった。
2 最初は、本当に快適だった
2030年代初頭。
エアタクシーはまだ高価だった。
一回2万円。
乗客は二人。
主な利用者は観光客と富裕層だった。
機体は予約時間になると静かに浮き上がった。
道路を無視して一直線に飛ぶ。
山も川も関係ない。
「これはすごい」
誰もが思った。
事故もほとんどなかった。
十二個のモーター。
四系統のバッテリー。
多重化された飛行制御コンピューター。
一つが壊れても飛び続ける。
人間よりはるかに正確な自動操縦。
事故率は、自動車より低かった。
それが最大の宣伝文句になった。
やがて量産が始まった。
料金は下がった。
自治体は補助金を出した。
バーティポートが駅前、空港、観光地、病院、ショッピングモールに建設された。
そしてエアタクシーは急増した。
3 問題は「空」ではなかった
ある朝、父は仕事でエアタクシーを予約した。
アプリにはこう表示された。
飛行時間 14分
車なら45分。
「今日は楽だな」
そう思った。
ところがバーティポートに到着すると、表示板には、
離陸待ち 17機
と表示されていた。
「なんだこれ」
係員が申し訳なさそうに説明した。
「北側航空回廊が混雑しております」
「空なのに?」
「住宅地上空は飛べませんので」
父は空を見上げた。
何機ものeVTOLが同じ方向へ飛んでいた。
安全規制が強化され、機体は好き勝手なルートを飛べなくなっていた。
学校。
病院。
住宅密集地。
発電所。
イベント会場。
飛行禁止区域は年々増えた。
その結果、機体は指定された航空回廊に集中した。
空には見えない高速道路ができていた。
4 そして「空の渋滞」が始まった
航空交通管制AIが画面に表示した。
予想到着遅延 23分
父はため息をついた。
離陸には間隔が必要だった。
着陸にも間隔が必要だった。
充電にも時間がかかった。
しかも乗客は二人しか乗れない。
一機着陸。
二人降りる。
機体移動。
次の一機。
二人降りる。
鉄道なら一編成で千人を運べる。
バスなら一台で数十人。
ところがエアタクシーは一機につき二人。
利用者が増えるほど必要な機体数が猛烈に増えた。
道路渋滞を解決するはずだった乗り物は、
渋滞を空へ移しただけだった。
5 事故
転機になったのは2039年だった。
その日も事故率そのものは極めて低かった。
100万飛行に一度。
数字だけ見れば安全だった。
しかし全国では毎日、何十万回もの飛行が行われるようになっていた。
「一回あたりの事故確率が小さい」
ことと、
「社会全体で事故がほとんど起きない」
ことは同じではない。
飛行回数が100倍になれば、事故が起こる機会も増える。
ある夏の日。
一機のeVTOLが制御系統の異常を起こした。
バックアップシステムが作動した。
第二系統も作動した。
それでも機体は姿勢を失った。
墜落地点は住宅地だった。
乗員三人。
地上二人。
死亡五人。
映像は世界中に流れた。
6 自動車とは違った
その夜、父はニュースを見ながら思った。
自動車事故なら、もちろん死ぬことはある。
だが現代の車には、
シートベルト。
エアバッグ。
衝突被害軽減ブレーキ。
側面衝突保護。
クラッシャブルゾーン。
強固な乗員空間。
さまざまな装置がある。
事故が起きることを前提として、
「事故が起きても人間を生かす」
という技術が百年以上積み上げられていた。
航空機は違う。
基本思想は、
「墜落させない」
だった。
それは合理的だった。
高度100メートルから制御不能で落下したとき、
最後に人間を守ってくれるものは限られている。
そして都市上空を飛ぶ以上、
危険を負うのは乗客だけではなかった。
地上の人間にもリスクを負わせる。
事故後、規制は一気に強化された。
住宅地上空は禁止。
悪天候時の運航基準も厳格化。
機体間隔も拡大。
バーティポートの保安検査も強化された。
安全にはなった。
同時に、
不便になった。
7 空港になっていった
2042年。
父は久しぶりにエアタクシーを利用した。
まず予約。
バーティポートへ移動。
本人確認。
荷物重量測定。
搭乗待ち。
天候確認。
離陸許可待ち。
指定航空回廊を飛行。
到着地上空で着陸待ち。
着陸。
そこから自動運転タクシー。
飛んでいた時間は17分だった。
Door-to-doorでは61分。
車なら48分だった。
父は思った。
これは「空飛ぶクルマ」ではない。
小さな飛行機だ。
そしてバーティポートは、
小さな空港だった。
8 それでも車は残った
休日。
家族は車で温泉へ向かった。
妻。
娘。
息子。
祖母。
五人乗っている。
トランクには着替えとお土産。
途中で娘が言った。
「トイレ」
父はコンビニに入った。
妻はコーヒーを買った。
息子はアイスを買った。
祖母は少し歩いて身体を伸ばした。
十分後、また出発した。
山道に入ると雨が降ってきた。
車内は暖かかった。
音楽が流れていた。
子供たちは後ろで眠った。
父は思った。
自動車という乗り物は、ずいぶん完成されている。
家の前から出発できる。
目的地の玄関まで行ける。
荷物を積める。
家族全員が乗れる。
途中で予定を変更できる。
コンビニにも寄れる。
トイレにも行ける。
雨でも走れる。
そして地方なら、
そもそも道路が空いている。
9 空を飛ぶ意味
もちろん、eVTOLが消えたわけではなかった。
むしろ社会に定着していた。
ただし、誰ももう「自動車の代わり」とは呼ばなかった。
島から本土へ。
湾の対岸へ。
険しい山を越えて病院へ。
災害で道路が寸断された地域へ。
空港から離れた高級リゾートへ。
道路なら二時間かかる場所を、空なら二十分。
そういう場所では圧倒的に便利だった。
車で40分を15分にする乗り物ではなかった。
車で2時間を20分にする乗り物だった。
そこに初めて、空を飛ぶ意味があった。
10 2042年8月14日
車は温泉街に着いた。
予定より三分早かった。
駐車場には十分な空きがあった。
空を見ると、一機のeVTOLが飛んでいた。
娘が言った。
「パパ、あれ速いね」
「速いよ」
「じゃあ、なんで今日は乗らなかったの?」
父は車のドアを開けた。
「飛んでいる間は速いんだ」
「?」
「移動っていうのはね、速さだけじゃないんだよ」
トランクから荷物を取り出した。
祖母がゆっくり車から降りた。
妻が子供たちを呼んだ。
五人で旅館へ向かった。
上空では、エアタクシーが着陸許可を待って旋回していた。
父のスマートフォンに通知が届いた。
航空交通混雑のお知らせ
現在、到着に約27分の遅延が発生しています。
父は通知を消した。
そして家族と一緒に旅館へ入った。
空飛ぶクルマが実用化されて十年以上。
人類はようやく気づき始めていた。
未来の乗り物とは、
空を飛ぶ乗り物のことではない。
人間にとって、移動全体が便利な乗り物のことなのだ。
そして地方では、その答えが百年以上前に発明されていた。
駐車場に停まっている、五人乗りの自動車だった。
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