着服なのか、返済なのか──“信頼”というブラックボックス
「返してもらっただけですよ」
ニュースでそんな言葉を聞いたとき、不思議と怒りよりも、ぞっとした。
大阪・関西万博のアンゴラ館をめぐる工事費未払い問題。関与していた建設会社の経理担当者が、会社の売上金など1億2000万円を「着服」した疑いで刑事告訴されたという。
でも本人はこう主張する。
「会社に貸していた金を、返してもらっただけです」
このやりとりを見て、いったい何が真実なのか──それよりも先に、もっと別の問いが浮かんだ。
「信頼って、どこまでがセーフで、どこからがアウトなんだろう?」
経理担当者に任せっきりの構図
この事件、いろんな意味で“ありそう”すぎる。
・工事の許可申請も、経理処理も、すべて一人の担当者に任せていた
・その結果、営業停止にまで追い込まれた
もちろん会社側の管理体制にも大きな問題があるだろう。
でも、問題の核心はもっとシンプルな構造にあるように思える。
「あいつは大丈夫」
そう思った瞬間に、人は“見なくなる”。
「見ないこと」が生むグレーゾーン
自分の職場や家庭でも、思い当たる節はないだろうか。
・「部費の管理、○○さんがしてくれてるし」
・「子どものことは、全部パートナーに任せてる」
・「契約書とか面倒なことは、あの人が得意だから」
任せることは悪ではない。でも、「見ないこと」が続くと、そこにブラックボックスが生まれる。
その中で何が起こっていても、外からは見えない。見ない。見ようとしない。
これは本当に「事件」なのか?
着服なのか、貸付金の返済なのか──裁判で明らかになることもあるだろう。
でも、仮にこの経理担当者の言い分が事実だとしたら?
「貸していた金を、返してもらっただけ」
その“やりとり”に、書面はあったのか?
そもそも「貸した」のは誰の判断で?
返済時期は?利子は?
そしてそれは、会社の資金から勝手に返していいものなのか?
すべてが「信頼」で済まされてきたからこそ、今こんなにもややこしい。
「信頼」は、見えなくなった時点で、脆くなる
このニュースを聞いて、怒りよりも不安を感じたのは、
「自分が誰かを信じている」と思っているその構造が、
案外脆くて、あやふやで、危ういものかもしれないと思ったからだ。
「信頼」は、無条件の放置ではなく、目を向け続けることなのかもしれない。
あなたは今、誰を信じていますか?
その人のやっていることを、あなたはちゃんと「見て」いますか?
余韻の一文
「任せている」と「見ていない」は、きっと似ているけれど、決定的に違う。
