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物語の欠片番外篇3 木蘭色の逡巡(前篇)

-イベリス-

 「ポハクの族長様が本当に愛していらしたのは、イベリスのお母様だったのよ」
 カリンの声が、他人事のように響いた。まるで、遠くの国の御伽噺を聞いているようだった。だからイベリスは無言のままカリンの顔を見詰めた。
 カリンはこの話を始める時に覚悟を決めていたのだろう。いつものように調子よく相槌を打たないイベリスの目を、真っ直ぐ見返して話を続けた。
 それはイベリスの知らない物語だった。
 イベリスの知っている物語はこうだ。
 ポハクの族長であるところの父は、族長であるのをいいことに、正妻が居るにもかかわらずイベリスの母親に声を掛け、やがてイベリスが生まれた。そして、そのことを公にせず暫くの間放っておいたくせに、それが採掘の才能のある男子だと知ると再び母親に近づき、イベリスを自分の近くへ呼び寄せた。そのせいで、イベリスの最愛の母は姿を消してしまった。
 イベリスは父親……そう呼んだ事は無かったが……を憎んでいた。
 母と二人の慎ましい暮らしから比べると、生活自体は豊かになった。しかしそれ以上に、心は貧しくなったように思う。
 表向きは親切だが何を考えているか解らない継母はは。これは他に呼びようがなく、仕方なく母上と呼んでいた。イベリスは本当の母を「母さん」と呼んでいたから、「母上」は「母さん」とは違う生き物だった。
 腹違いの姉が三人。そのうち二人はイベリスに関心が無い。憎悪を剥き出しにしている姉がひとり居たが、それらは適当にやり過ごした。
 働ける年齢に達すると、イベリスは継母に採掘工になりたいと告げた。家の外に出たかったからだ。族長の息子なのだから外で働く必要は無いと言われたが、社会勉強だと言うと納得し、ポハクで一番大きな採掘集団の親方に口添えをしてくれた。
 しかし家の外へ出ても、イベリスは何処までも「族長の長男」として扱われた。それを少しでも回避するために、道化を演じる能力は瞬く間に磨かれ、そのうち自分ですら自分の本心が分からなくなった。
 しかしイベリスが精いっぱい道化を演じていると、次第に皆、表面上はイベリスに気安く接してくれるようになった。それだけでも、家に居るよりは随分ましだった。

 ああそうか……

 ふと気がつく。
 カリンが目の前で話しているのが知らない物語なのではない。
 そもそも自分が作り物の物語を生きていたのだ。
 本当の自分の物語など、何処にも無かったのだ。

「イベリス、大丈夫?」
 話し終えたカリンが眉根を寄せて尋ねた。
「ああ……うん、よく解らない。突然すぎて……」
「そうだよね。ごめんね、突然こんな話をして」
「仕方がないさ。カリンのせいじゃない。寧ろカリンを巻き込んでしまったのは俺だ。それに……多分それが真実なんだろう」
 やはりどうにも他人事のようにしか返事ができない。自分がぼんやりした表情をしているだろうことが分かった。いっそ身体を抜け出して、外から自分を眺められたらいいのに。
 グラスの中身を煽ろうとして空っぽなことに気がつく。
 宙に浮いた手の中のグラスに、レンが葡萄酒を注いでくれた。
 礼も言わずに、イベリスはそれを一気に飲み干した。
「とりあえずさ、ひとりでよく考えてみたい」
 イベリスは漸く作り方を思い出した笑顔を浮かべ、椅子から立ち上がった。
 レンとカリンは、自分たちも間もなく寝室へ入るけれど、いつでも呼んでもらって構わないと言ってイベリスをひとりにしてくれた。有難い友人たちだと思う。

 友人……
 レンもカリンも大切な友人だ。
 今回その二人の友人を、自分のよく解らない物語に巻き込んでしまった。
 先程カリンから聞いた物語は、カリンに大きな傷を負わせてまで、それによってレンを自己嫌悪に陥らせてまでして、自分が知りたかったものなのだろうか。
 レンとカリンの家の、客用の寝室のベッドに横たわって考える。
 最初に浮かんできたのは、最後に見た母親の顔だった。
 その日の昼間に族長が尋ねてきた。その時の動揺はすでに跡形もなく、いつものように二人で質素な夕食を摂って、それぞれの部屋で眠った。
 イベリスは小さい頃から母親と寝室を共にしてはいなかった。母親がよく夜中に外へ出歩いていたからだ。だからその日も何も疑わず、おやすみ、と言って別れた。
 その時の、水晶のような大きな二つの瞳と、其処に映る自分の姿。物を映しはするが認識できない二つの瞳のせいで感情が乏しいように感じられる顔だが、イベリスには母親の感情がよく解った。
 いつもどおり穏やかで優しい表情だ、と安心したのだ。
 それなのに、翌日目を覚ましたら母親は何処にも居なかった。
 真っ先に覗いたキッチンにはひとり分の朝食の準備がされていた。それに少し安心して母の寝室を覗くと、ベッドは綺麗に整えられていて使われた形跡が無かった。「ひとり分の朝食」の意味がイベリスの頭の中で大きく変わった。母親は何のためにイベリスの食事だけ準備して出かけたのか。
 イベリスたちの住まいはそれほど大きくはなかった。探す場所などほとんどない。イベリスは途方に暮れた。
 戻るのが遅くなりそうだったから食事の準備をしたのか。それなら二人分準備していきそうなものだ。自分は何処かで食べるつもりだったのだろうか?
 夜中に外へ出かけて何かあったのかもしれない。そう思って家を出たところで族長の使いだという一団に会った。
 イベリスは、族長の家に引き取られることになった。
 前日の夜から決まっていたことだった。それなのに母親は、いつもと同じ表情でイベリスにおやすみと言った。そして、自分は姿を消してしまった。
 イベリスを手放したのは、族長には逆らえなかったからだと思っていた。
 ポハクでは族長の権限は絶対だ。
 そう。しかし、あの夜の母親の表情に絶望の色は無かった。
 イベリスが族長の家へ引き取られることは、母親も望んだことだったのだ。
 何故か?
 もし母親が、イベリスが族長の息子として育てられることを望んだのであれば、それはイベリスが裕福な生活を手に入れられるからという理由だけではなかった筈だ。母親は暮らしの豊かさとは違った豊かさを知っている人だった。

『ポハクの族長様が本当に愛していらしたのは、イベリスのお母様だったのよ』

 母親もまた、族長のことを愛していたのだろうか。
 そうだ。何故、こんな簡単なことに気がつかなかったのだろう。
 母親の眼は、真実を見極める眼だった。
 目が見えなくても、手で触れるだけで、良い石と悪い石を見分ける力があった。族長が声を掛けたからと言って、何も感じるところが無かったら応じなかったに違いない。
 その時はイベリスすら居なかったのだ。族長の命令に背いて処罰を食らうことを恐れるとは考え難い。それどころか、当時は族長もまだ族長の娘婿というだけで、族長ではなかった筈だ。
 仮にイベリスを手放したのが族長の命令であったからだとしても、その前に族長とひと夜の契りを交わしたのは、強制であったとは思えない。もしそれすら強制されたのならば、母親はその時点で自ら命を絶っていただろう。
 母親がイベリスを生み、育てたのは、母親もまた族長に想いを寄せていたからだという証拠のような気がした。そうだとすれば、イベリスを手放したのもまた、族長の強制ではなかったのではなかろうか。
 族長は加害者ではなくて、被害者であったのかもしれない。
 イベリスを引き取ってすぐに継母たちと暮らす家を出て、執務用の館でひとりで暮らし始めたのも、イベリスの不満と家族の不満をすべてひとりで引き受けるためであったのかもしれない。
 自分の目が曇っていたのだ。
 しかし頭でそう考えても、長年族長を憎むことで奮い立たせていた心は、それらをすぐに受け入れられるものではなかった。
 気がつくと頭も身体もぐったりと重かった。
 居心地の良いベッドに存在ごと沈んでしまいそうだった。
 次に族長に会う時、自分はどのような態度をとればいいのだろうか。
「こういう時は、寝るに限る」
 イベリスは声に出して勢いよく起き上がり、部屋の明かりを消して改めてベッドにもぐりこんだ。

 次の瞬間、呆気なく朝がやって来た。
 母親が夢に出てくるのではないかと思ったが、夢すら見なかった。少なくとも起きた時には憶えていなかった。
 薄明るい中で目を覚まして、イベリスはひとり苦笑した。
 その笑いの波動は少しずつ大きくなり、イベリスの身体を揺らし、仕舞にはくつくつと声が出た。部屋の外までは聞こえないだろう。
 自分の人生の根幹に関わる問題に直面しているというのに、自分は何と呑気なのだろうか。
 これは果たして本当の自分なのか?
 それともこれも道化の一部か?
 本当の自分とは何だろう?
 いや、本当の自分になど意味は無い。
 あの扉を開けて、レンかカリンに会えばはっきりする。自分に実態など無い。
 本当の自分がどうであれ、自分の口から洩れる言葉や態度はその場にならないと分からないのだ。それが道化というものだ。
 空気を読み、その場に都合の良いように振舞う。それがイベリスが生きていくために身につけた習性。つまり、イベリスの生き方だった。
 族長に対する態度だって同じだ。その場にならなければ分からない。
 真実らしきものを知っても、自分はまた相変わらず族長に対して反抗的な態度をとるのかもしれない。それならそれで……仕方がないではないか。
 これまでだってそうやって、刹那的に生きてきたのだ。
 扉を開けると、パンの焼ける良い匂いがした。居間にはレンひとりしかいない。カリンはキッチンに居るのかと思ったがどうやらそうではないらしい。食卓には二人分の食事しかなかった。
「おはよう。眠れた?」
 明らかに自分も何か抱えた表情で、それでも笑顔を浮かべてレンが尋ねた。イベリスも似たような笑顔を作って答える。
「おはよう。それが自分でも驚いたことに熟睡だ。まあこれが俺のいい所だと思おう」
「あはは。そうか。眠れたならとりあえず良かった」
「カリンは凄いな。本当に謎を解いちまった……で、カリンは?」
「うん……あまり調子が良くないみたい。朝ごはんは要らないって」
「そうか……どうしたんだろうな……本当に傷のせいだけだろうか」
 食事をしながらこれからのことを話し合ったが、どちらもどこかうわの空だった。
 カリンの心配をすることで、イベリスは自分の中から族長と対峙する瞬間の不安を押し出そうとしていた。決して逃げられることではないと知りながら、そうせずにはいられなかったのだ。
 そして、それでもやはり、その瞬間はあっという間にやって来た。

 イベリスはカリンとマカニの族長の肩越しに、そっと族長の表情を盗み見ていた。表面上はいつもと変わらない、自信に満ちているように見えるがやや斜に構えた、皮肉っぽい笑みを口元に浮かべている。
 しかしその笑みが、カリンの話を聞くにつれ時折引っ込むようになり、最後には完全に失われた。
 母親がもう生きてはいないだろうということを知った族長は、悲痛な表情でも無念の表情でもなく、冷静な表情で目を瞑り、何かを思い出しているように見えた。
 イベリスは、カリンの話を聞いてどう思ったかと問いただしたい気持ちでいっぱいだった。できることならばその場で、子供の頃のように喚き散らしたかった。そうしたら、きっと族長の顔にはいつもの皮肉っぽい笑みが戻るだろう。イベリスを、馬鹿にしたような表情で見詰めるに違いない。
 自分でも不思議だが、何となくその表情が恋しかった。
 しかし、この場で駄々を捏ねるようなことはできる筈もなく、イベリスはじっと族長の表情を観察し続けていた。
 子供の頃は母親を返してほしくて駄々を捏ねた。今は少し違う。族長の本当の気持ちが知りたかった。

「イベリス。お前はあの家を出てもいい。世襲制と同時に、女親の家で暮らさなければならない慣習も無くす。お前は、自由だ」
 突然そう言われて、イベリスは黙ったまま族長の顔を見た。族長は、ふとこれまで見せたことのない優しい笑顔になった。
「今まで、すまなかった」
 イベリスは笑いもせず、怒りもせず、ただただ族長の顔を見詰めていた。族長が何を言っているか解らない。これは、自分の知っている族長ではない。
 これは……誰だ?
 何かを言わなければならない。気持ちは焦っているのに心は遠くにあって、継母にも他に男がいると話している族長の声が、やけに遠くに聴こえた。何もかも自分の家族のことなのに、知らないことだらけだ。
「族長」
 とりあえずそう口に出してみた。
 他の面々と話をしていた族長はイベリスに視線を戻した。イベリスはその視線を正面から受け止めた。
「何だ?」
「私はあの家を出ます」
「そうか」
「もちろん族長にもなりません」
「そうだろうな」
「苦手なんです。私は儀式とかしきたりとか公の場とか……そういうのは化身だけで十分です。ですが……もし必要ならば、こちらで族長のお手伝いはしたいと思います」
 自分でも何を話しているかよく解らなかった。族長は驚いた顔でイベリスを見詰めた。
「住む所を世話しろと言っているわけではありません。採掘工は続けながら、必要があればお手伝いしたい。族長はずっと族長補佐を置かずにここまで来ました。そろそろ誰か雇ってもいいのではないでしょうか」
 そう言い切ると、自然と笑顔がこぼれた。
「お前……」
「親子の縁はどうしましょう。まだ族長には息子が必要ですか?」
 イベリスが戯けた表情で尋ねると、族長は大声で笑った。
「書類上どういう関係であっても、お前が俺の子供であることは変えられんさ。此処に住みたければ住めばいい。誰もおかしな目では見ないだろう。好きにしろ」
「……今更父上とは呼べません。私にとっては族長です。それでもよろしければ、世話になります」
 先ずは族長のことを知らなければならないと思った。そのために、暫くの間傍に居よう。きっとそういうことなのだろうと自分を納得させた。
 あとのことは、またその時に考えればいい……
 そうして、五年の月日が流れた。

木蘭色の逡巡(後篇)につづく


Iberis by KaoRu IsjDha



このお話は『金色の馬篇』12話のB面から始まる▼

今になってこの物語を描けるなんて、思ってもみなかった。
ここまで物語を見守ってくださった皆様と、きっかけをくださったKaoRuさんに感謝。