物語の欠片 象牙色の城郭篇 2
-レン-
カリンは今朝も少し様子がおかしかった。無理もない。あの夢を見たと言っていたのだから。昔はもっとひどかった。レンも一緒に暮らしていたわけではなかったから、大丈夫だと言ってやることもできなかった。いや、当時はレンが大丈夫だと言ってもカリンは納得しなかったかもしれない。今は、すべて終わったからそれで済む。
昔よりずっといい。それだけは言い切れる。
族長も、いつもと少し違うような気がした。関係あるのかどうかはわからないし、レンの気のせいかもしれないけれど。
少なくとも、そんなレンの様子はシヴァにはすぐに分かってしまうようで、族長の家を出るなり、どうかしたか、と訊かれた。
「何か族長、いつもとちょっと違わなかった?」
「ああ、お前も気がついたか。」
「やっぱり?」
「何か考えておられるようだったな。」
「昨日、カリンが久しぶりにあの夢を見たんだ。」
「あの夢って?」
「人柱の夢。」
「なんだって?どうして今頃。」
「分からない。ただ単に何の意味もなく見ただけかもしれないし、何か意味があるのかもしれないけど、族長の様子もおかしかったからちょっと気になった。」
「カリンの夢は何かの兆候で、族長も何かを感じ取っておられるということか?」
「分からない。もしかしたら、っていうだけ。でも、今の時点で多分僕が色々考えても仕方がない。僕は、僕が動く時になったら行動するしかないんだと思う。」
「まあ、そうだな…。」
「ただ、やっぱりちょっと心配だな。明日からアグィーラなんだよ、カリン。あっちに居る間にまた夢を見たら、僕はまた傍に居てやれない。」
「ヨシュア殿がおられるんだろう?」
「うん。…そうだね。ヨシュアさんが居るなら大丈夫かも。もう、ヨシュアさんも夢の話は知ってる。やっぱり昔よりずっとましだ。」
「そう。カリンはひとりじゃない。俺たちはみんな、ひとりじゃない。」
シヴァはレンの頭をポンと軽く叩きながらそう言った。
マカニの空は、レンの不安を払拭するには十分なくらいに青かった。雲ひとつない。明るい午前の光と爽やかな風。豊かな雪解け水で緑は潤い、様々な色の花が咲き乱れていた。いつも以上に大変だった冬を越えたこの春は、ひと際美しいように感じられる。
翼も弓も、問題なく調子が良かった。
ホオズキはあっという間に族長の家に馴染んだ。朝、レンとシヴァが族長の家へ行くのとほぼ同じ時間に族長の家に行き、カエデとその日の引継ぎを行う。カエデは、レンとシヴァが族長と話している間に家を出て診療所へ行くらしい。朝、レンとシヴァを見送ってくれるのはいつもホオズキだった。無口なカエデとは違い、ホオズキはその際に色々と話しかけてくるので、お互いの様子がよく分かった。カエデは診療所が忙しくなければ昼食の時間に族長の家へ戻り、午後はこれまで通り族長の家で過ごす。そんなリズムが、いつの間にか出来上がっていた。レンにとってももうそれが日常だ。
カエデがこれまでよりも長い時間カリンと一緒に居てくれることも、レンにとっては安心材料だった。カエデはレンなどよりよっぽど気が利く。おそらくカリンの様子に気がつき、さりげなく手を差し伸べてくれるに違いない。
「レン、今日は少し早く上がってもいい?」
少し離れた場所で弓の訓練をしていたココが声をかけて来たので、承諾の返事をする。明日からアグィーラへ行ってしまうカリンに会いに診療所へ行くのだろう。
ココはホオズキが第一線を退いて以来、以前よりも真面目に訓練するようになった。それは今も続いている。以前は毎日のように診療所へ遊びに行っていたが、今では少し回数が減った。しかしだからといって、決してカリンへの親愛の念が弱くなったわけではないようだった。
カリンには味方が沢山居る。そう、きっと何も心配することなんかない。
こんな風に考えてしまうこと自体、レンも昨夜のことを気にしているのだという自覚はあった。カリンはレンと一緒になった後も、ことあるごとに落ち込んだり悩んだりしているが、あの夢はやはり特別だ。七年間見続けた夢。何度見ても慣れることはないと言っていた。実際に、当時のカリンは夢を見るたびに毎回同じ位打ちひしがれていた。朝早く、訓練場でひとりで泣いているカリンを見つけるたびにレンの胸も痛んだ。
できる限り明るい表情で声をかけるようにはしていたが、カリンの表情が少しも明るくならないことに気がついていた。むしろ、レンの姿を見ると余計につらそうだった。それはそうだ。レンが関わっている夢だったのだから。カリンの様子を見ながらそのことに七年間も気がつけずにいた自分は本当に馬鹿だと今でも思う。ただ、過ぎたことを悔いていても仕方がないから前に進んでいるだけだ。あの時の反省が今に生きていると信じたい。
夕方、訓練を終えて族長の家へ行くと、そこにはカリンが居た。レンとシヴァの姿を見ると、もうそんな時間、と驚いた顔をする。
「日が長くなったな。」
族長は驚いた顔も見せずにそう言うと、レンとシヴァに今日の報告を求めた。カリンはそれを合図に挨拶をして部屋を出て行ってしまったので、二人が何を話していたのかを訊く機会を失った。しかしおそらく昨日の夢の話だったのではないだろうか。カリンがすぐに族長に相談に行った。それもまた昔とは違い、いいことには違いない。
シヴァが大吊り橋建設の進捗や新しい体制での訓練の報告をする。レンはそれを聞いている族長の顔をじっと観察した。族長の表情には今朝のどこか上の空のような様子はもう見られない。完全にいつもの族長だった。
ふと、族長の視線が真っ直ぐにレンの瞳を射て、レンはどきりとする。
何とか動揺を悟られないようにそれを受け止めた。
「レン。何か補足は?」
「いえ。特にありません。」
「カリンは明日からアグィーラだったな。」
「はい。…それで挨拶に来ていたのではないのですか?」
「いや。それもあろうが、昨夜、昔の夢を見たと言うておった。」
「はい。昨夜、久しぶりに見たそうです。…あの、族長はどうお考えですか?」
軽く尋ねたつもりだったのだが族長は難しい表情をして黙ってしまった。目の端にシヴァが眉根を寄せるのが映った。
そのまましばらく族長が口を開くのを待ったが、やがて族長はゆっくりとした動作で立ち上がると、大きな窓の方へ歩いて行った。この季節、窓は開け放たれている。てっきり日が暮れる前にそれを閉じるために立ち上がったのかと思ったのだが、族長が窓に近寄ると、一羽の鴉が舞い降りた。
鴉は窓枠に止まり、族長の顔をじっと見つめた。族長がその喉元をそっと撫でると首を傾げる。
ヤナギはレンたちの目の前で死んだ筈だ。確かに皆で西の森に葬った。とすると、今目の前に居る鴉は別の鴉ということになるが、よく族長に懐いているようだった。レンはシヴァと顔を見合わせた。シヴァも訳が分からないという表情だ。
「驚いたか?」
件の鴉を肩に乗せた族長が振り返って言った。レンとシヴァは黙って頷く。
「昨日、ここへ迷い込んできた。…いや、もしかしたら意思を持って来たのかもしれぬが。」
「昨日?」
レンは思わず声を出した。鴉はすっかり族長に慣れているようだった。まさかたった一日の間の出来事とは思わなかったのだ。
「ヤナギの子孫なのではないかと思う。まだ随分若いから、子ではなく孫くらいかもしれぬな。ヤナギに似て賢い。…この子がこのタイミングで私の所に来たのは何故かと考えておった。そこに、カリンの夢の話だ。」
鴉に驚きすぎて、レンはうっかりカリンの夢の話を忘れるところだった。なるほど。族長が今朝様子がおかしかったのは鴉について考えていたからだったのだ。そして、同じタイミングでカリンは昔の夢を見た。これは、偶然だろうか。あまりにもできすぎている気がする。
「不思議なことが続いていることは解ります。しかし、それが何を意味するのかは、僕にはさっぱり分かりません。」
「そうだな。私にもまだ分からぬ。ただ…。」
「ただ?」
「あまり良い予感はせぬな。」
族長のその言葉に、冬の終わりに感じた悪い予感が頭を掠める。相次ぐ天災はやはり何かの前触れなのだろうか。レンは、悪い考えを追い出すかのようにわざと明るく返事をした。
「族長が、不確かな考えを僕たちに話してくれるようになったのは光栄なことです。」
族長は微かに驚いた表情を浮かべてから笑った。
「そうだな。」
「名前は決まっているのですか?」
「ああ。モミジという。」
「モミジ。良い名前ですね。」
レンがモミジと発音すると、族長の肩の上のモミジが首を傾げてレンを見た。鴉の瞳は族長の瞳に似ている。吸い込まれそうな漆黒の闇。不思議な知性を感じた。
「今度、鳥とコミュニケーションをとる方法を教えてやろう。」
「え?」
「シヴァとレンはそろそろ知っておいても良かろう。」
レンは再びシヴァと顔を見合わせた。鳥とコミュニケーションをとる方法。それは、マカニの族長から族長へと受け継がれてきたものだ。
「驚いた顔をせずとも良い。私の代で秘密は終わりだと言うたはずだ。まあ、すべての民に公表するかどうかはまだ分らぬが、族長の秘密である必要はない。」
「族長…。」
珍しく不安げな声を出したシヴァを族長は可笑しそうに見た。
「案ずるなシヴァ。私は無責任に姿を消したりはせぬ。」
「いえ。申し訳ありません。」
「構わぬ。…余計な心配をかけたな。ただ、いつ何が起こってもおかしくない世の中故、備えておくに越したことはないだろう。」
「ああ…。それは確かに。こちらこそ、取り乱してしまい申し訳ありませんでした。」
「取り乱したうちに入らぬ。お前はいつも良くやってくれておる。」
「恐れ入ります。」
族長の家を出るといつもよりぐったりと疲れている自分を感じた。シヴァも同じだったようで、お互い言葉少なに別れてそれぞれの家へと向かう。
カリンは族長と話をして少しは元気になっただろうか。
こんな日に限って新月だ。辺りは真っ暗だった。日が延びたと言っていたのに、やはり夜になれば暗い。寒くないだけましだ。そう自分に言い聞かせて、レンは訓練場の飛行台に向けて飛んだ。
