物語の欠片 青碧の泉篇 19
-カリン-
カリンの淹れたお茶を飲みながらじっと宙を見つめていたエリカが突然ふっと笑ったのでカリンはエリカの顔を見つめた。エリカも真っ直ぐにカリンの目を見返す。そこには挑戦的な光がある。
「貴女、私がエンジュのことをどう思っているか分かる?」
「以前エリカ様は族長様のことを羨ましいと仰っていました。自由に飛ぶ鳥には誰だって憧れる、とも。」
「そう。羨ましかった。」
「族長様は、ただ自由に生きていらっしゃるわけではありません。」
むしろ、枷だらけだ。重い枷をはめられているのに、まるでそんなもの無いかのように羽ばたく黒い翼。
「そんなこと知っているわ。それでも羨ましかった。嫉妬していたの。いえ…今でも嫉妬してる。」
「何故…ですか?」
「陛下は、エンジュのことしか見ていらっしゃらない。」
「え?」
時間が止まってしまったようだった。これまでの、エリカの数々の発言がカリンの頭を駆け抜けていった。同時に、上皇と四人の族長たちの絵が描き変わっていくのを感じた。
「ワイの族長はマカニの族長に惚れてるんじゃないか」そう言ったイベリスの声が一瞬だけ聴こえる。イベリスがそう言う度に感じた微妙な違和感の理由が分かった気がした。
「驚いた?」
「はい。…あの、陛下は…。」
「気がついていらっしゃらないと思うわ。」
「そう…でしょうね。」
エリカはくすくす笑って、やっぱり貴女は面白い、と言った。
「今、貴女の頭の中に流れている物語を話してくれないかしら。貴女の口から聞きたいの。」
「何故でしょう。」
「頭の中を整理したいから。ねえ、ギリアが死ぬということがどういうことだか分かる?」
答えたくなかった。上皇の妃はずっと昔に崩御している。ギリアが死ぬということは、エリカの中に「枷」が無くなるということなのだ。エリカはカリンが答えなかったことで満足したようだ。雨乞いの間で見せた不機嫌そうな表情とは打って変わり、いつもの妖艶な笑みが浮かんでいる。
カリンは先の質問に答える代わりに、仕方なく話し始めた。
「エリカ様は水の化身の候補としてアグィーラに召喚された際、既にギリア様と婚姻関係にありました。当時まだ王子で在られた陛下にもお妃様がいらっしゃった。」
話し始めたカリンを見てエリカは満足そうに頷く。上皇の代は王室の混乱のせいで化身の候補が集まるのが遅くなったため、既に五人ともに配偶者が居た。
「先代は何も起こらない代でした。化身の候補は数回しか集まる機会は無かったはず。それでも、エリカ様は陛下に恋をされたのですね。」
「回数なんて関係ない。貴女も知っている通り、ワイ族は少し前まで男女は完全に隔離されていたの。お城の自由さにくらくらしたわ。そして、陛下は私がそれまで見たことのあるどんな男性とも違った。それはそうよね、王族ですもの。勿論私だって馬鹿ではないから身分違いくらい承知していたわ。でも、族長としてなら陛下のお傍に居られるかもしれない。そう思ったの。」
だからエリカは族長になったのだ。
カリンが話すのを聞きたいと言いつつ、自ら話し始めたエリカの言葉は止まらなかった。
「族長になったのはパキラが一番早かったかしらね。私は二番目。でも、パキラはあんな風だからアグィーラにはほとんど寄りつかなかった。私は族長になったら定期的にお城へ行くようになったわ。陛下はワイの町の様子を興味深そうに聞いてくださったし、相談にも乗ってもらった。私が伺う時は勿論仕事だから、その場にお妃様はいらっしゃらなかった。いつも二人きりよ。幸せだったわ。」
でも、と続けるエリカの顔が僅かに歪む。
「私が族長になった二年後、エンジュがマカニの族長になった。それ以来…いえ、もしかしたらずっとそうだったのかもしれないけれど、陛下の関心はエンジュに移ってしまった。エンジュは族長になってからも絶対に自分からは陛下の元を訪れないばかりか、呼び出しにも応じない。私が陛下の元へ伺っても、エンジュの消息について尋ねられることが多くなった。私は陛下の気を引くためだけに頻繁にマカニへ書簡を送った。」
それは知らなかった。とはいっても、カリンがマカニを訪れるよりずっと前の話なのかもしれない。その疑問に答えるかのようにエリカは意地悪そうな表情になった。
「貴女がマカニへ行くようになってからは尚更よ。貴女の話は陛下から聞いていた。アルカンの森の中の森に自由に出入りできる女の子が居るって。私たちも陛下すらも入れなかったのに。…そして、貴女たちの任命式で久しぶりに四人の族長が揃った。さすがのエンジュも任命式には参加せざるを得なかったようね。」
「族長様は、必要があれば城へ行くのも厭わないと仰っていました。」
「それはエンジュの自分勝手な基準でしょう?そこなのよ。」
「判断の基準は皆主観的なものです。」
エリカの目がすっと細くなるのを見てカリンは後悔したが遅かった。
「やっぱり貴女、エンジュに似ているわ。相手が陛下だろうが誰だろうが対等なのよね。だから、決して陛下の基準では物を見ない。陛下はそれに戸惑っておられた。王族としての教育を受けてきたのだから当然のことだけれど…不思議ね。エンジュのことは恐れていたのに、陛下が貴女のことを悪く言うのを聞いたことがないわ。」
「私は比較的お傍に居りましたから。」
「そうかもしれないわね。いずれにしても、エンジュが族長になって以来、陛下の関心はエンジュとマカニにしか向かなくなった。だから私はそれが羨ましかったのよ。これでも随分努力したのよ。マカニの情報を仕入れることは勿論、早期の王位継承にも、国の制度の変更にも裏で協力した。それなのに…。」
それ以上言わないでほしい。それはカリンの切実な願いだった。その先は聞きたくない。しかし、エリカは話すのを止めなかった。
「族長としての限界に気がつき始めた時にね…ギリアが病に罹ったの。」
聞きたくない。
「しかもどうやら新種の病らしい。一緒に暮らしている私は罹らなかった。深刻な感染症ではないと思ったわ。そう理解した上で陛下に相談の書簡を送った。ギリアはもう族長補佐を務められそうにない。アグィーラから人を寄越してほしい。そして、その人にそのまま族長を譲りたいって。貴女のことだから、もしかして陛下から聞いているかしら?」
知っていた。しかし、否定も肯定もできなかった。
「ギリアはアグィーラの医局に転送されることになって、それでも全く原因が分からなくて、誰もそうは言わなかったけれど、このまま死んでしまうのだと皆思っていたと思うわ。それなのにね、悲しくなかったのよ、私。ギリアは優秀な族長補佐だったし、良いパートナーだと言った言葉にも嘘はないの。でも、悲しくなかった。それよりも…。」
お願い。言わないで。聞きたくない。
「ギリアが居なくなったら私を縛るものが無くなるという喜びの方が大きかった。陛下のお傍に行けるかもしれない。種族間の交流も促進されたしね。陛下が相変わらずエンジュとマカニにしか興味が無いのならばマカニにだって行ける。」
きっと酷い表情をしていたのだろう。エリカはカリンの顔を見て嫣然と笑った。
「貴女にはきっと理解できないでしょうね。ふふ。泣くことはないじゃない。」
気がつくと、両方の眼から涙が溢れていた。何に対する涙なのか、自分でも分からなかった。
これまでカリンの目の前でマカニの族長に向けられたエリカの言葉たち。
エルアグアの旱魃の際、マカニ族であるカリンを使うのに族長にではなく当時の王経由で連絡を寄越したエリカ。そのことを苦々しい表情で話していた族長。
そして、マカニへ戻った際、今回の話を上皇にするのかと尋ねた族長。きっと、族長はエリカの想いに気がついていたのだ。
その上でエリカの八つ当たりに近い感情を受け止めていた族長を思うと文句のひとつも言ってやりたかったが、エリカのことを責めることもできなかった。
エリカもまた、ワイ族の厳しい掟の犠牲者のひとりだった。エリカは自分の代でその掟を変えたのだ。エリカの夫がもし自分で選んだ相手だったならば、何かが違っていただろうか。
何もかもがただ哀しかった。
「…理解はできます。ですが、申し訳ありませんが共感はできません。」
「そうよね。いいのよ別に。言ったでしょう?貴女はエンジュの傍に居なさい。」
「わたくしとエリカ様は違います。」
「そう。違うの。どちらが良いとか悪いとかではないわ。でも、あまり近くには居られないわね。それがお互いのためよ。…ねえ、お茶を淹れ直してくれないかしら。すっかり冷めてしまったわ。」
カリンはその有難い申し出を受けた。涙を拭い、ポットに残った茶葉を捨てる。最初にお茶を淹れた時とは、心持ちがすっかり変わってしまった。
エリカがアグィーラの城で使っている茶葉を置いているのには意味があるのかもしれない。
今度は、自分の心を落ち着けるようにして丁寧にお茶を淹れた。マカニに帰りたかった。カエデのお茶が飲みたい。レンに、族長に会いたかった。
淹れ直したお茶を飲みながら機械的に今後の打ち合わせをし、カリンは暗澹たる気持ちで雨乞いの宮を後にした。
