物語の欠片 朱鷺色の黎明篇 9 ローゼルの話
-ローゼル-
ローゼルは毎朝、日の出と共に起き出してまだ誰も居ない訓練場へ行く。
子供の頃は自分の家の庭で剣を振るっていたが、城の中は訓練場以外で剣を振るうわけにはいかない。
朝食までのほんの僅かの時間だが、この時間は今のローゼルにとって、何よりも大切な時間だった。
余程の荒天でない限りこの習慣は変わらない。
剣を鞘から抜き、朝日に透かして見る。その日によって微妙に刃の輝きが違う。剣の機嫌を伺ったら、思うがままに剣を振るう。その間は完全に無心だ。全ての雑事から切り離され、ローゼルがローゼルの魂に最も近づく時間である。
その時間を経て、ローゼルは今日もローゼルになるのだ。
今の剣は光の戦士に選ばれた際に下賜された物なので、もうすぐ六年目だ。そろそろ取り換え時期かもしれない。
他の戦士たちは刀剣室の砥ぎ師に手入れを任せるが、ローゼルは砥ぎ師の足踏み式の砥ぎ石を借りて、自ら手入れをしている。それは王配になってからも変わらなかった。
最近、これまでと同じように砥いでオイルを塗っても、以前のような輝きが見られないことが増えた。
先日長年騎乗した馬を手放し、新しい馬に変えたばかりだ。少しずつ、王族になる前の持ち物が手元を離れていく。益々気を引き締めなければならないと、自らを戒める。
馬を選ぶ時もひと悶着あった。気性の荒いセイランを、王配であるローゼルの馬にすることに多くの者が反対した。何度も馬術大会で優勝しているローゼルの技量を認め、好きにさせてくれようとする者はほぼ居なかった。最終的には、現上皇の兄であり牧場の主でもあるリクニスの一言で、ローゼルの好きにさせてもらえることになったのだった。
朝食を終えると、午前中はいつも実の父親であるアジュガと連れ立って再び訓練場へと向かう。王配であるローゼルの相手は誰もしたがらないので、大抵は父と手合わせをすることになる。
今日はその午前中の訓練を早めに切り上げ、刀剣師室へ行くことにした。
午後は会議が詰まっているので、午前中のうちに剣を新調する話をしておきたかった。レフアと上皇には朝食の際にその旨話してある。
「お呼び立て下さればこちらから参上しましたのに。」
ローゼルがいつものように剣を研ぎに来たのではないと知った刀剣師室長のエノテラは、あからさまに慌てた様子を見せた。
「構わん。素材の話など細かい話になったらこちらで話す方が早いだろう。」
「お急ぎですか?」
「いや、緊急という程ではないが…これを見てくれ。」
ローゼルは自らの剣をエノテラに鞘ごと手渡す。
鞘から剣を抜いたエノテラは、拡大鏡を使って隈なくその刀身を改め、ふむ、と唸った。
「確かに、大分刃が薄くなっておりますなあ。」
「やはりそうか。」
「これ以上薄くなると、刃こぼれしやすくなります。仰るとおり、そろそろ取り換えられた方が良いかもしれませんな。いや、しかしさすがはローゼル殿下。きちんとご自分の武器を把握しておられる。殿下の剣はただの飾りではございませんな。」
何気なく言ったであろうエノテラのこの一言に、ローゼルの心は微かに軋む。
魔物の少なくなったこの時世に、この先自らの剣が役に立つことがあるのだろうか。城下町の外へ出る際には相当数の警護がつく。その先頭に自らが立って闘うことなど、あるようには思えなかった。自分は、守る立場から守られる立場になってしまったのだ。
それでもローゼルは剣を振るうことを止められない。それだけが、自分を自分たらしめる何かだからだ。
「できるだけ、今のこの剣と同じように造ってもらいたいのだ。これは、私が光の戦士に選ばれた際に時の王から下賜されたものだ。」
「はい、勿論存じ上げておりますとも。実用の剣としては現在でも、アグィーラで最も優れた剣だと思います。装飾はいかがいたしましょう。」
「装飾は可能な限りそぎ落としてくれ。鞘などこれでも華美すぎるくらいだ。」
「いやしかし…。」
「しかし、何だ?」
「あの…私がワジュロ様にお叱りを受けます。」
ローゼルは小さく溜息をつく。ワジュロは刀剣師室の属する傭兵局の長だ。ローゼルの元上司でもあった。ローゼルは未だにこのワジュロを呼び捨てにすることができず、毎回本人から指摘を受ける。
「ワジュロ殿には私の方から事前に話しておこう。王族としてみすぼらしくない程度にするというのなら、今のままでもいい。」
「それならば、はい、仰せの通りに。」
月の綺麗な夜だった。
レフアが湯を浴びに行っている間に、ローゼルはひとりでテラスに出た。
テラスでそっと鞘から剣を抜き、月灯りに翳す。
月灯りを受けた刃は、朝日に透かしたそれとは異なり、もっと冷たく、鋭い印象を与えた。きっとこの刃に貫かれたら、身体の芯まで…いや、心まで凍ってしまうのではないかと思う。
ローゼルはかつて、この刃をカリンに向けたことがある。本気で切るつもりだった。
正確に言えば闇に取り込まれたカリンの身体だったが、ローゼルの直感は、確かにあの中にカリン自身がそのまま居るのだと感じていた。
あのままカリンの身体を切り裂いていたら、自分はどうなっていたのだろう。
闇の開放されたあの夜は月も星もなく、そこには闇だけがあった。頼りない蝋燭の灯りに、ローゼルの構えた剣の、光の石でできた刃がぼうっと光っていた。カリンは取り込まれた闇の中から、ローゼルの剣の放つその光が見えたのだと言っていた。だから出て来られたのだと。
あのままカリンを切っていたら、きっと凍ってしまったのはローゼルの心だっただろう。凍り付いて何も感じなくなった心。それは、今より苦しいのか、それともむしろ楽なのか、今となっては全く分からない。
それでも、切らなくて済んで良かったと思う。
「ここに居たの。」
浴室から戻って来たらしいレフアの、まだ濡れている髪が風に靡く。それで、案外風が強いのだということが知れた。
「どうしたの?こんなところで剣なんか抜いて。」
「いや。月灯りの下で見る刃がどんなものだか見てみたくなっただけだ。」
「以前は夜間の任務もあったのでしょう?」
「その時は、刃を見るためだけに剣を抜くことなど無かった。」
「ああ、それはそうよね。」
「朝話したように、そろそろこの剣ともお別れだ。これまで一番世話になった剣だから、それなりの感慨がある。」
「こんなことを言って良いのか分からないけれど、ローゼルが感傷的になるのは珍しい気がするわ。それだけ大切な剣だったのね。」
「……そうだな。」
大切なのが剣そのものなのかどうか、自分でもよく分からなかった。ただ、この剣に象徴される何かのような気がする。
王族になろうがなるまいが、闇が浄化され魔物が少なくなれば、戦士の出番は減る。自分が以前のように魔物と闘い続けたかったのかと言われればそうではないと思う。世の中が平和ならば、誰も闘わずに済むならば、それがいいに違いない。
剣を鞘に収め、自らも湯を浴びるためにテラスを後にする。
光の戦士であることの証である白い鎧。王配になっても自分はこの鎧を身に着け続けている。王ではなく王配だから許されることだ。
その鎧も、さすがに湯を浴びる時とベッドで寝る時には脱ぐ。かつては身に着けたまま寝ていた頃もあった。
鎧の耐用年数は剣より長いが、この鎧が朽ちたら、同じ鎧を新たに造ることを許されるだろうか。
自分を自分たらしめているものとは一体何なのか。
傭兵としての任を解かれ、王配の父として城へ呼び戻された父親は、どう考えているのか訊いてみたい気もしたが、それをローゼル自ら尋ねることは決してしないだろうと思った。
居場所は違えど同じく戦士であるレンには、訊いてみてもいいかもしれない。何を思って戦士であることを続けているのかと。
いやそれ以前に、王配になった自分は、まだ戦士なのだろうか?
「ローゼルは間違いなく戦士だよ。」
カリンの誕生日をヨシュアと共に祝うためにアグィーラへやってきたレンは、笑顔でそう即答した。
いつもと同じ城の中庭の、いつもと同じ図書室前のベンチである。レンと二人で話をするのは大抵この場所だ。
「レンにとって戦士とは一体何だ?」
「うーん。確かに職業のひとつではあると思うんだけど、何というか、ひとつの生き方だよね。」
「生き方…か。」
「マカニの場合、戦士は別に魔物と闘うだけが仕事じゃないんだ。勿論それが主だけど、色々な意味で村の秩序を守るのが仕事だと思う。だから土木師の仕事を手伝ったりもするし、雪降しから畑仕事の手伝いから何でもやるよ。村が上手く村人たちの生活の場で在るように、その時々の働きをする。…規模は違うけれど、今のローゼルの立場とそんなに変わらないんじゃない?」
「秩序を守る…。言われてみればそうかもしれないな。アグィーラはもっと分業が進んでいて、魔物の居ない時の戦士たちは警護の仕事が主だが、先日みたいに大規模な火事があれば出動したりもする。つまり、危険が伴う仕事を率先してやる職業だが、それは国の秩序を守っているとも言える。
そして俺の今の立場も、国の秩序を保つための立場だと言えばその通りだ。」
「ローゼルは何故戦士になったの?単純に父上が戦士だったからというわけではないだろう?」
実際アグィーラでは職業は世襲制であることが多い。父の影響で迷いなく戦士になることを選んだと言えばそうだが、それでもそこにはそれなりの大志があったように思う。
「戦士になって、この国を守りたかったのだと思う。」
「うん。僕も一緒だ。僕の場合はマカニを、だけどね。」
「そうか。」
「うん。…でも…。」
「でも?」
「実は僕も途中で何度も悩んだよ。自分が守りたいものは結局なんだろうって。自分は何のために弓の訓練をしているんだろうって。子供の時は良かったよね。単純にマカニが守りたいって、それだけで弓に向き合えた。」
「……。」
「ローゼルと同じだよ。魔物が減ってからは特に、弓は何のためにあるのかと考えた。だけど、ある時気がついたんだよね。結局僕の大切なものは全部マカニにあるんだ。そして僕の大切な人たちはみんなマカニが好きだ。だからやっぱり、マカニのために何かをしたいと思った。弓は僕がそれに向き合うための基礎だ。でも、弓だけじゃ駄目なんだっていうことも解った。さいわいマカニには族長とシヴァさんっていう凄い人たちが居て、その人たちは間違いなくマカニを守っているんだ。だから僕は、少なくとも族長とシヴァさんのようになれるように頑張ろうと思って今はやってる。」
「…なるほど。」
「でもいきなり王配に据えられて戸惑うローゼルの気持ちも解るよ。僕は少し前、族長の左腕であることが突然怖くなって、悩んでいた時期がある。」
「そうか。」
「うん。でもね、族長もシヴァさんも迷うし悩むんだって。それでも、平気な振りしてみんなの前に立つんだ。それが仕事なんだって。だから多分、悩むことも仕事なんだよ。つまりそれって生きていることそのものだよね。」
「それで、戦士はひとつの生き方、というわけか。」
「うん。自分が戦士だと思えば戦士なんだ。王配であろうが何であろうが。職業としてではなく、生き方として。
例えば、マカニの族長は今は族長だけど、戦士であった頃と同じように、いや、それ以上に何かと闘っていると僕は思う。」
ローゼルの脳裏に、何度か会ったことのあるマカニの族長の顔が浮かぶ。深い、漆黒の瞳が印象的だった。まともに見詰めれば、厳しく訓練されている筈のローゼルでさえも呑み込まれそうになる、恐ろしいくらいに奥の深い瞳だった。
それを縁取る同じく漆黒の髪と、マカニの族長である証の漆黒の翼。
しかしそれらは、例えば上皇のように威圧感を与えるものではなく、穏やかであるのに少しずつ静かに心の奥に沁み込んできて、いつの間にか捕らわれてしまうような、不思議な雰囲気を持った人物だった。
実際マカニの族長は、ローゼルの心など見透かしているかのように、まだローゼルすら気がついていなかった不安を先回りして打ち消してしまった。
あのような人物になるためには、明らかに自分はまだ何かが欠落している。王配の座に胡坐をかいている場合ではない。
「よく、解った。俺が鍛錬すべきはこの軟弱な心根だ。剣はあくまでもその道具なのだな。」
「ローゼルが軟弱なんて言ったら、この世の大抵の人は軟弱になってしまうよ。少なくとも僕よりは軟弱じゃないだろう。」
レンが可笑しそうに笑う。
「お前の心は軟弱ではなくしなやかだ。俺のような頑なな心は、おそらく綻びができれば脆く崩れ落ちる。だから守りを強固にするしかないのだ。」
「だからさ、ローゼルは真面目なんだよ。でも、いいと思う。それを自分で分かっていながらにして逃げずに向き合うローゼルは、やっぱり凄いと思うよ。少なくとも僕は尊敬する。」
「近々剣を新調するんだ。」
「へえ、いいね。僕は翼はこの間事故で早めに更新したけれど、弓は随分変えてないな。そろそろ新しいのをお願いしてみようかな。」
「新しい翼はどうだ?」
「いいよ。快適。翼も弓も、新しくしたら最初は調整に戸惑うけど、結局最終的には新しい方がいいと思う。」
ローゼルは、久しぶりに声を出して笑った。
自分自身でそのことに驚いたのだが、レンはそれに驚きもせず、一緒に笑う。レンの心は自由に空を飛ぶ鳥のようだ。その鳥たちも決して楽に生きているわけではないのだとしても、岩に括りつけられているよりはいいだろう。
おそらく、自分を一番きつく縛っているのは、自分自身なのだ。剣も鎧も、それから置かれた立場も、古くなったら更新せざるを得ない。しかし、自分を自分たらしめているものは、それらの付属物ではなく、自分自身だ。
己の筋が通っていれば、それはいつだって自分なのだ。そしてローゼルの場合、それにはやはり、早朝のあの時間が、ひとりきりで剣と向き合う時間が必要なのだった。
磨かれた刃には、自らの姿が映る。良い所も、悪い所も等しく。
それは、自分に進むべき道を教えてくれる。自分が何者かを教えてくれる。
自分は相変わらず、ローゼルという名のひとりの戦士だ。王配という”職業”に就いて、仕事の幅はむしろ広がった。
この国を守るために、あるいはもっと身近な大切なものを守るために、できることが増えたのだと思えばいい。自分は武器を失ったのではない。闘う機会を失ったのではない。むしろ、新たなものを得たのだと、漸く気がついた。
中庭に降り注ぐ陽の光が力を増したように感じたのは、きっと夏という季節のせいだけではない。
「あ、ちょうど良かったみたいだね。」
ローゼルとレンは、同時に立ち上がる。
中庭の向こう側から、同じく話を終えたらしいレフアとカリンが連れ立ってやってくる。姉妹のように親し気に笑い合いながら。
その明るい光景は、この国の目指すべき未来そのものであり、まさに自分が守るべきものであるように、ローゼルには感じられた。

KaoRu IshjDhaさんに絵を描いていただいた経緯はこちら▼
