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物語の欠片 天鵞絨色の種子篇 22 レンの話

-レン-

 春楡の花の咲く頃、マカニの村は柔らかな緑に色づく。レンの最も好きな季節だ。
 訓練に良い時期だから。
 戦士になってからはそう言っているけれど、戦士になる前の、子供の頃からずっと大好きな季節だった。
 春楡の樹が好きだと言うと、スミレが複雑な表情を浮かべることには子供の頃に気がついていた。理由は、聞いてはいけない気がした。だから理由を尋ねる代わりに、その気持ちを言葉に出すことはやめた。特にこだわりがあったわけではない。そういう気持ちは、自分の中だけに持っていれば良いものだとレンは考えていた。
 鍾乳洞から生還して、瀕死の状態で春楡の樹の夢を見た時、その理由が分かった気がした。きっとレンの本当の両親も、春楡の樹が好きだったのだ。彼らを夢の端に捉えても、レンの親はミントとスミレだと思う気持ちは少しも変わらなかったが、改めて自分の肉体の中には本当の両親の血が流れているのだと考えると、不思議な気持ちになる。自分に命を与えてくれた人たち。会いたいとは思わなかったが、感謝はしている。生まれて来られて良かったと感じているからだ。
 生きているということは、多かれ少なかれ、この世界に影響を与える。良い影響も、悪い影響も、どちらもだ。
 レンが生まれた分だけ、この世の中から食糧や水が消費されるが、その分、レンがこの世界に返してあげられるものはある筈だ。レンに出会った人々はレンに対して好意的だったり嫌悪したり、様々な感情を抱くだろう。良いものばかりではなくとも、少しでも良い影響の方が多くなるよう努めるだけだ、とレンは思う。
 カリンなどはもっと潔癖で、自分が少しでも世界に対して悪い影響があることを感じると、すぐに気に病んでしまう。その気持ちも分からなくもないし、自分が悪い影響を与えてしまう可能性に対して見て見ぬふりをしてしまいたくはないが、それを気に病んで自分が消えてしまうよりも、それ以上に返せるものはないかと考える方が良いのではないかと思うのだ。そんな自分は、やはり無責任なのか、それとも、考えが甘いのだろうか。
 そんなことを考えたのは、非番だからと訪ねてみた食堂が、半日の臨時休業だったからだった。中に入ってミントとスミレに声を掛けようかとも思ったが、なんとなくそれはしない方が良い気がして、レンはそのまま第二飛行台に引き返した。こんな時に行く先は決まっていた。

*****

 「イヌワシの岩」という名前を最初に聞いたのは、ポプラの口からだった。ポプラに造ってもらった初めての自分の翼を身につけて、試しに工房の広い庭(当時ポプラはまだ父親であるカタクリの工房に居た)で飛んで見せたレンに、ポプラは言ったのだ。「もう、イヌワシの岩にでも飛んでいけそうだな」と。
「イヌワシの岩?」
「そう。レンはまだ聞いたことが無かったか?」
「うん。ほら、僕は黒鳥病のせいで学び舎にもあまり通わせて貰えていないし、同じ年頃の友達とも遊べないんだ」
 黒鳥病は翼を持つ前の数年間が最も罹りやすいと言われる。原因が分からないので、伝染性の病気ではないことが証明されるまでは、子供たち同士の交流は最低限に制限されていた。レンはこうして翼を手に入れたが、年齢的には平均より早いので、これで難を逃れたのかどうかはよく分からなかった。しかし、レンより随分と年上のポプラは明らかにもう黒鳥病には罹らない年齢だから、こうして気楽に一緒に居ることができた。
「そうか」
「イヌワシの岩って遠いの?」
「そうだな。向かいの峰のアグィーラ側の、一番南寄りに位置する辺りにある場所で、鷲が両方の翼を大きく広げたような形をしているんだ。エルビエント山脈全体も鳥の翼のような形をしているが、それよりももっと鷲っぽい。頭に当たる部分は、アグィーラ王国全体を見渡すように、南を向いている。言わばエルビエントの南の端のようなものだから、マカニの村からは結構遠いんじゃないかな。何があるわけでもないから、あまり人の行かない場所だよ」
「見晴らしは良さそうだね。ポプラさんは行ったことがあるの?」
「マカニ族の、少し冒険心を持った子供ならば、一度は行ってみると思う。でも、まあ、一度で十分かな」
「ポプラさんが行ったのは、幾つの時?」
「俺が行ったのは十歳くらいじゃなかったかな。兄から話は聞いていたが、それ程興味は湧かなくて、一度くらい遠出してみるか、と思って飛んでみたんだ」
「十歳か」
「でも、今のレンなら飛べると思う。俺はあくまで、興味が湧かなかったというだけだよ。遠くまで飛んでいくよりも、目の前の翼の機構の方が面白かった」
「本当に飛べるかな」
「ああ。この半年、散々つき合ったからな。分かるさ」
「よし、じゃあ、この翼に慣れたら、先ずはそこまで飛んでみることにするよ」

 イヌワシの岩は確かに七歳になったばかりのレンには少しばかり遠かったが、気流は比較的安定していて飛びやすい航路だった。双子の峰の間を抜ける時に少し風が読みにくいくらいだ。それよりも、レンはその開けた風景に見惚れた。
 マカニの村の後ろにはエルビエントの嶺が聳え立ち、というよりはマカニの村自体がエルビエントの嶺に沿うように作られており、深い谷川を挟んだ向かい側には、文字通り向かいの峰がある為、訓練場まで登らない限り、双子の峰の間からアルカン湖を望むことができない。
 しかし、一旦向かいの双子の峰を越えて仕舞えば、そこには限りなく広い地平線が広がっていた。アルカン湖が近くに見えるだけではない。アルカン湖の向こうに、城郭が見える。あれがアグィーラだろうか。
 世界は広いのだ、というようなことを思った。
 調子に乗って、アグィーラの城郭を眺めながら停止飛行を試してみたりもした。
 イヌワシ岩に降り立てば翼を休めることができるので、その分もっと落ち着いて風景を楽しむことができた。この広い世界に比べて、自分は、なんと小さいのだろう。空も、森も、大地も、ひたすら大きかった。
 例えば、あのアルカン湖の淵に誰かが立っていたとしても、此処からは見えない。自分だけではない。大人であっても、人間というのはとても小さいものなのだ。その小さい人間が、マカニという村で、あるいは他の場所で、一生懸命に生きている。それはなんだか、とても凄いことのように感じられた。

 それからレンは、しばしばイヌワシの岩まで出かけて行くようになった。ミントとスミレには、飛ぶ訓練をするのにちょうど良い距離だから、とだけ伝えてあった。イヌワシの岩に行った時に感じるあの感情を、どのように言葉で伝えたらいいのか分からなかったからだ。ミントもスミレも、特にそのことを気にしている様子はなかった。ただただ、レンが自由に飛ぶことができるようになったことを喜んでいるように見えた。
 ポプラが、あまり人が来ないと行ったのは本当のようで、レンがイヌワシの岩で誰かに出くわしたことはほとんどと言って良いほどなかった。稀に、見廻りの戦士が少し遠くを飛んでいるのが目に入るくらいだ。戦士たちは声を掛けては来なかったが、レンを見かけると手を挙げて挨拶をしてくれた。
 そうやってかよってっているうちに、いつの間にか此処は、レンの特別な場所になった。

*****

 今ならばあの頃感じていた気持ちを、うまく言語化できるだろうか、と暫く考えてみる。
 単純に此処から見える風景が好きだった、というのもあっただろうが、それにしては、毎回風景をまじまじ眺めていたわけでもない。この空間そのものが好きだった。
 視界に大きな風景があると、小さな人間が抱いている悩みなんて、この広い世界の中ではちっぽけなものに思えて、安心したのだろうか。ではあの時、自分は何かに悩んでいたのか? 悩みとすら認識できなかった気持ちが、あったのかも知れない。
 レンは特に愛想が良かったわけではないが、殊更に人見知りをする子供でも、人づきあいが苦手な子でもなかった。必要があれば人と交わったし、会話を苦痛だとも思わなかった。しかし、自分から他人を求めていたかと言われたら、そうではなかったと思う。ひとりで過ごすことが好きだったし、退屈と感じる暇の無いくらい、いつもやりたいことがあった。
 自分を求めてくれる人に同じ気持ちを返すことができなかったことを、申し訳ないと思うことも無かったのだが、もしかしたら少しはそのような気持ちが何処かにはあって、それが積もり積もって、それで、時々無性にひとりになりたくなったりしたのかも知れない。
 カリンに出逢って、カリンのことを知れば知る程、カリンはひとりで立っている人だと思った。隣に居てもひとりとひとりなのだ。時々ひとり過ぎて、周りが見えなくなって、ひとりでずんずん進んでいってしまうけれど。と、そこまで考えてくすりと笑いが漏れる。
 必死だったな。カリンも、自分も。
 誰かを追いかけたいなんて思ったのは初めてだった。
 そのままイヌワシの岩の頭の部分に寝そべると、明るい青い空が見えた。所々に散らばる疎な雲が、初夏らしくくっきりとした白い色をしている。その雲に反射する太陽の光が眩しい。
 今、カリンは闇の謎に夢中になっている。
 何かきっかけがあったら、きっとまたひとりで何処かへ向かっていってしまうのだろう。見失わないようにしなければ。

 遠くに、エルムが旋回しているのが見えた。獲物でも探しているのだろうか。今日はレンの所へ降りてくるつもりはないらしい。そんな時にレンから寄って行っても、レンが近づくより先に何処かへ消えてしまうことが常だった。そんなエルムのことは、追いかける気にならない。カリンと並列に考えることはできないけれど。
 「さて」と声に出してレンは起き上がり、大きくひとつ、伸びをした。
 そろそろ昼だ。食堂は開いているだろう。何か簡単な昼食でも買って、診療所に居るカリンにも届けてやろうと思う。
 午後は、遅れているアーヴェ語の学習に当てなければならない。語学はどうにも苦手で、全く頭に入って来ないのだった。
 でも、これもマカニを守るため。
 そうだ。本を外へ持ち出して、春楡の樹の根元で学習するのはどうだろう。
 レンは大きく息を吸って岩を蹴り、大きく羽ばたいた。

 ***
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