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物語の欠片 朱鷺色の黎明篇 2 カエデの話

-カエデ-

 朝一番に、谷川の水を汲みに出かける。美味しいお茶には、いい水が欠かせない。それはカエデが子供の頃から続けている習慣だった。
 汲みたての水を、大きな鍋で沸騰させる。コインほどの大きな泡が立つのが目安だ。これで、一日分のお茶の、最初の下準備が終わる。
 湯を沸かしている間に、手早く朝食の支度をした。
 朝一番のお茶は格別だ。それ以外の時はこの水を薬缶で再沸騰させて使うのだが、朝だけは汲みたての水を沸騰させたものをそのまま使う。
 ポットとカップを温め、ポットのお湯を捨てたら慎重に茶葉を測って入れる。既定の量よりも、ほんの少し多めに入れるのがカエデの好みだった。
 沸騰したお湯を勢いよくポットに注ぐと、熱気を漏らさないようすぐに蓋をしてポット全体をカバーで覆い、暫く蒸らす。
 蓋を開けてスプーンで軽くひと混ぜしたら、茶漉しで漉しながらカップへ注ぐ。二つのカップの濃度が同じになるよう、交互に少しずつ。そして、旨味の凝縮している最後の一滴は必ず父親のカップへ注ぐことにしていた。

 いつもならカエデが朝のお茶を淹れ終わる頃に現れる父親が、今朝は現れない。不思議に思い、寝室の扉を叩くが返事がない。少し躊躇った後、扉を開けると、そこにはきちんと整えられたベッドがあり、父親の姿は無かった。
 執務室だろうかと思ったが、そのまま父親の部屋側の扉から入るのが後ろめたく、一度キッチンを通り抜けて表から回ると、そこにも父親の姿は無い。これは珍しいことだ。カエデはにわかに不安を覚えた。
 いつ家を出たのだろう。カエデが水を汲みに行っている間かもしれない。先程見た整ったベッドがちらつく。父は昨夜はあそこで寝たのだろうか?それとも夜のうちに家を出たのか。
 このまま待つべきか、探しに出るべきか、それともシヴァに相談するべきか…。
 「おはよう。」
 後ろから声を掛けられ、驚きと安堵と情けなさと、渦巻く様々な感情を心に仕舞い切れないままに振り返った。
 「おはようございます。お出掛けでしたか。」
 「遅くなってすまない。茶が冷めてしまっただろうか。」
 自分の感情の揺れは見抜かれているのだろうが、父親は何も言わない。カエデも尋ねたいことは色々とあったが、それらを飲み込んで朝食の席へと着いた。
 「冷めていても美味うまいな。」
 「恐れ入ります。」
 それが、朝食を食べる間に交わした唯一の会話だった。

 「今朝一緒に居たのが新しい鴉ですか?」
 出勤してきたホオズキが尋ねたので、父親は今朝、モミジと一緒に居たのだということが解る。
 「そうだ。モミジという。」
 「私には鴉の見分けはつきませんが、族長には分るものですか?」
 「そうだな。」
 「はあ。やっぱり族長は凄い。何もかも敵いませんなあ。」
 声を出して明るく笑うホオズキの笑顔が眩しい。父親も、ふっと顔をほころばせると、片手を挙げて執務室へ消えた。
 昨日の夕方、ホオズキが帰った後に新しく出てきた仕事を引き継ぎ、ホオズキ自身の予定を確認する。今日は書簡を届けにポハクへ行くらしいので、カエデはいつもより少し早めに戻る約束をした。
 「今日は私がポハクへ行きましょうか?」
 一昨日もアヒまで飛んでいたことを思い出してそう言うと、ホオズキは、どちらでも、と返す。
 「歳は取っても元戦士だからな。体力は普通の人よりあるつもりだ。」
 「そうですね。ホオズキさんがよく動いてくださるので助かります。」
 「カエデ、お前、ずっと一人でこの仕事やっていたんだろう?途中からは診療所と掛け持ちで。頭が下がるよ。俺はとてもじゃないが一人では無理だ。」
 「いえ。診療所の方はカリンも居ましたから。」
 「お前、自分の時間あるのか?」
 「自分の時間…というのがどういうものなのか分かりませんが、診療所で医術書を読む時間も好きですし、ここで仕事の合間に本を読んだりお茶を淹れたり…今の生活に不満はありません。」
 「お前、ずっとここに居るだろう?だから、結局一日中仕事みたいなものなのではないかと思ってな。」
 マカニ族は普通、成人すると親元を出て自分の家を持つ。しかしカエデは十五で族長補佐になったため、十七で成人した際、特に家を出る必要に駆られなかったのだ。
 ポハクのイベリスも族長補佐としてパキラと同じ館に住んでいるし、アグィーラなどの他の地域でも所帯を持つ際に親元を離れることが多いと聞く。広く見ればそうおかしなことではなかったが、マカニ族としては確かに特殊だ。だからといって、今更家を出る気にはなれないし、必要性も感じなかった。
 「俺は子供が居ないから親子のことは分からないが、族長とお前が俺の居ないところで和やかに会話している絵が浮かばんから、なお一層そう思う。」
 そう言って明るく笑うホオズキは、黒鳥病で息子を亡くしている。ホオズキが自分を心配してくれているのだということが解った。
 「ホオズキさん、今日はやはり私がポハクへ行きます。久しぶりに、マカニの外の空気を吸うのはいいかもしれない。」
 「そうか。それなら任せよう。たまには寄り道でもしてくるといい。」

 ポハクの中央書簡舎は、役所の集まる地区にあった。最近は書簡関連の仕事はホオズキに任せきりだったので、来るのは久しぶりである。マカニの初夏と異なり、すでに真夏の様相を呈している灼熱の町並みを抜け、石造りの官舎に入るとほっとした。
 「お久しぶりですね。暑かったでしょう。」
 商人だけでなく、ポハクの役人たちも皆愛想がいい。勿論内情は色々あるようだが、こうして決まった仕事をする分には気持ちが良かった。
 マカニからポハク宛の書簡を渡し、もしあるようならばポハクからマカニ宛の書簡を受け取る。今回は無いようだった。あっという間に仕事は終わったが、すぐにまた炎天下に戻るのを躊躇っていると声を掛けられる。
 振り返ると、パキラが立っていた。
 「久しいな。最近は新しい族長補佐殿が来ていると聞いた。橋が落ちたせいでイベリスがそちらへ伺う機会も少なく、俺がカエデ殿と会う機会も減ってしまった。」
 「ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです。役所へ御用ですか?」
 「俺の館へ何人も呼びつけるより、俺がこちらへ来た方が早いからな。しかし、ちょうど終わったところなんだ。時間があるなら、少し寄って行かないか?冷たい茶でも出そう。」
 カエデも、久しぶりにパキラとゆっくり話がしたかった。寄り道でもして来いと言ったホオズキの言葉に背中を押されるようにしてその誘いを受ける。
 パキラの館で出されたミントを加えた冷たいお茶を口に含むと、身体に溜まった熱気がすっと溶け出していくようだった。
 「エンジュはどうだ。」
 「族長は相変わらずです。」
 「カエデ殿も相変わらずだ。ご自分をわきまえておられる。」
 パキラは意味深な表情を浮かべ、カエデの方へ身を乗り出した。
 何かあったか、と問われ、言葉に詰まる。はい、と返事をしたようなものだった。しかしパキラはそれ以上詰め寄らず、再びゆったりと椅子に背を預けると話題を変えた。
 「先日、エンジュから書簡を貰った。」
 「はい。」
 「主旨は吊り橋が完成したという報告だったが、そこに、そろそろ次の世代のことも考えたいとあった」
 「…はい。」
 「エンジュは先見の眼があるな。」
 「…。」
 「カエデ殿の不安も、その辺りに原因があるのであろう。」
 「…新しい鴉が族長の前に現れました。それ以来、族長はひとりで考え込んでいる時間が増えたように思います。」
 気がつくと、今朝の出来事までをパキラにすっかり話してしまっていた。それを聞いたパキラは、ふむ、と言って黙り込む。その姿を見て、カエデは再び不安に駆られる。
 「うちのイベリスはな、」
 唐突にイベリスの名前が出てきたが、漸くパキラのペースに慣れてきて、カエデは、はい、と相槌を打つ。
 「あいつはあんな感じだが、それでもしばしば俺の様子をうかがっているような節がある。」
 「イベリス殿は、お心遣いの細やかな方です。」
 「ああ、カエデ殿相手に下手な言い方は通用しなかったな。失礼。」
 「いえ。そのような意味では…。」
 「カエデ殿はイベリスのこともよく解ってくださっているようだから率直に言うとな、カエデ殿はイベリスなんかよりずっとよくやっておられるのだよ。」
 カエデが再び言葉に詰まると、パキラはにやりと笑って続けた。
 「…それでも納得できない。そうだな?」
 「…。」
 「このままエンジュが居なくなったら、あるいは、あいつは若いからまだまだ先だが、寿命で命を終えたとしても、カエデ殿は後悔するのだと思う。自分は結局父親に何もしてやれなかったと。」
 「それは…そうかもしれません。」
 今のままなら確実にそうだろう。
 「母親を早くに亡くしたからか?…少なくとも俺は、イベリスに何かをしてもらおうとは思っていない。あいつがあいつなりにしあわせなら、それでもいいんだがなあ。…しかしそういうものでもないことが、漸く俺にも少し解った気がする。カエデ殿のおかげだ。」
 「私は何も…。」
 「カエデ殿はしあわせか?…いやちょっと待て。俺はしあわせかと訊かれたら迷うな。…そうだな。今の暮らしを気に入っているか?」
 「はい。不満はありません。」
 「そうか。では…人生はどうだ?」
 「人生…。」
 「そう。生まれてからこれまで、そして、これから進む道だ。」
 「それは…。」
 どうなのだろう。そんなこと、考えたこともなかった。
 いつもすぐ近くのことしか考えていなかった子供時代。病弱な母親をどうにか元気づけたくて、常に母親の喜ぶことを探していた。しかし次第にそれは、裏目にばかり出るようになった。だから先を読むようになっていった。母の望みそうなことを探して、その通りに行動していたのだ。
 それなのに、最期は家族を避けるようにして、診療所でラウレルひとりに看取られて死んだ母親への後悔をそのまま引きずり、それを…父親にぶつけているだけなのかもしれない。
 「カエデ殿の悪い癖だ。」
 「え?」
 「エンジュのことはこの際忘れろ。カエデ殿は、今のご自分の人生を気に入っているか?」
 パキラはじっとカエデを見詰めた。カエデはその瞳から目を離せなくなる。不思議と気まずくはなかった。
 その時、勢いよく扉が開いた。
 「父上!」
 イベリスの声に、パキラは頭を抱えた。
 イベリスはカエデの存在に気がついたが、悪びれもせず、お久しぶりですと挨拶をする。
 「お前なあ、何だか知らないがタイミングが悪すぎる。」
 「すみません。カエデ殿も、申し訳ありませんでした。ちょっと急いでて。」
 「いえ、イベリス殿がお元気そうで何よりです。」
 「で?一体何なのだ。」
 「先日の父上の見立て、正解でした。金剛石の鉱脈が見つかりました。」
 「おおそうか。それは目出たいな。よくやった。」
 「半分以上父上のおかげです。」
 「俺のは机上の空論だ。実際に引き当てたのはお前だろう。商人舎への登録は任せていいか?」
 「はい。勿論です。早速行って参ります。お邪魔しました。」
 イベリスは入ってきた時のままの勢いで、再び部屋を出て行った。
 パキラは大きく溜息を吐く。
 「すまない。まったく、レン殿は太陽のようだと言ってくれるが、どちらかと言えばあいつは嵐だ。」
 「いえ。…あの、質問を質問で返すようで恐縮なのですが、同じ質問をイベリス殿にされたことはありますか?」
 「お。さすがカエデ殿。痛いところを突くな。」
 パキラの笑った顔は、イベリスとそっくりだった。
 自分は、父親に似ているのだろうか。それとも、母親に似ているのだろうか。
 「訊いてやってもいいんだがな、あいつが本音で答えるかどうか自信がない。あいつはおそらく気に入っていると答えるだろう。…つまりな、そういうことなんだ。俺があいつの答えをそのまま信じてやれないのは、俺自身の自信の無さの表れだ。イベリスのせいではない。解るか?」
 「ああ…。」
 父は自分に不満を言ったことがない。むしろいつも、よくやってくれていると褒めてくれる。それなのに不安なのは、父が偉大だからではない。自分に自信が無いからなのだ。
 パキラの言うように、自分の人生を気に入るように生きられなければ、埋まらないものなのかもしれない。
 しかし、今の日常は気に入っているのに、人生を気に入っているかどうか自信が無いというのはどういうことだろう。
 「すぐに答えを出す必要はないが、時々考えてみるといい。」
 吊り橋が復旧したのなら、族長補佐の交換留学を再開しよう。別れ際にパキラはそう言った。

 ホオズキから不在の間の引継ぎを受け、送り出す。
 自分でも一息つきたかったので、丁寧に二杯分のお茶を淹れた。そのうちの一杯を、まだ執務室に居る父親の元へ運んでいくと、父親は何か考え込んでいるようだった。
 「よろしければ召し上がってください。」
 お茶を置いて去ろうとすると呼び止められる。
 「自分の分も淹れたのであろう?ここへ持ってくるが良い。飲みながら話を聞こう。」
 「今日は書簡を届けに行っただけですので、報告は特にありません。」
 「そうか。それならば、世間話でもするか?」
 思わず、ふ、と笑いが漏れた。この父親には、一生かかっても敵わない。自分の考えていることなど、きっとすべてお見通しなのだ。それならば、いっそ素直に思いのたけを話してしまった方が良いのではないかと思った。
 「お付き合いいただけるのならば、自分の分のお茶を持って参ります。」
 「そうするが良い。」
 そうだ。話してしまおう。今朝感じた不安も、パキラとの会話も。
 父は、自らの人生を気に入っているのだろうか。
 「カエデ。今は私は族長ではなく、単純にお前の父親だ。」
 自分のカップを持って戻ったカエデに向かって父親はおもむろにそう言った。
 「父上には、なぜ私の考えていることが分かってしまうのでしょうか。」
 「さて。分かっていたら、お前はそんなに苦労せずとも済むだろう。分からないからこそ苦労をかける。」
 「苦労をしているつもりはありません。私はただ、自分がどうなったら満足なのかが、自分で分かっていないだけなのだということに、今日気がつきました。」
 結局朝の不安には触れられず、カエデはパキラとの話だけを伝える。
 「お前はきちんと解っておるではないか。」
 「え?」
 「かつては母を元気づけたかった。今は私…いや、私だけではない。皆の助けになりたい。それがお前のやりたいことだろう?」
 「それで…良いのでしょうか。」
 「立派な心掛けだと思う。ただ…。」
 「ただ?」
 「そのせいで自分が不幸になってはならぬ。自分を犠牲にして他人を助ければ、助けられたものの心に棘が残る。」
 「それは…解るように思います。」
 そうか。それで良いのだ。カエデはずっと、自分で何も成し遂げられない自分は、せめて他の人の成し遂げたい何かを助けて生きて行こうと思っていた。それがどうにも他人の人生を借りているようで落ち着かなかったのだ。
 しかし父親は、それもひとつの生き方なのだと、そう認めてくれた。
 最期に母が自分を避けていた理由も分かった気がした。母には、カエデが自分を犠牲にして、母のことばかり気にしているように映ったに違いない。
 自分の淹れたお茶と共に、迷いが流れていく。
 ふと大きな窓が目に入ると、長くなってきたはずの日がすっかり暮れている。
 「話を聞いていただき有難うございました。私はそろそろ食事の支度をせねばなりません。」
 「私の方こそ、話してくれたことに礼を言おう。それから、いつもお前の振る舞いには感謝している。」
 空いたカップを持ち、その場を去ろうとすると、再び呼び止められる。
 「もうひとつ、憶えておくといい。」
 「はい。」
 「私はお前に黙って居なくなることはしない。私がかつて、自らの存在をないがしろにしたカリンやパキラを諭したのを聞いていただろう?
 その辺りは弁えているつもりだ。」
 カエデの顔に自然と笑みが広がった。
 今朝の自分の動揺など、やはり話さずとも見抜かれていた。しかし自分は、なんと素晴らしい父親に恵まれたのだろうか。
 これまで感じていた気後れは、素直な喜びに変わった。
 父の治めるこのマカニを、自分も微力ながら守って行こう。
 「私は父上の息子であることを誇りに思います。父上の守っておられるマカニを、私も一緒に守りたい。これからもお手伝いさせてください。」
 深々と頭を下げ、執務室を後にする。
 食事の支度をしながら、パキラのことを堂々と父上と呼んでいたイベリスを思い出す。イベリスがそう呼べるようになったのは、ほんの少し前のことだ。自分はきっとまだ人前ではそうは呼べない。それでも父は父なのだと、そう思った。
 明日の朝も谷川の水を汲みに行くことから始めよう。
 自分は今の生活を気に入っている。
 そしてきっと、自分の人生も、気に入っているのだ。


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