物語の欠片 翡翠色の昼下がり篇 3
-カリン-
レンの報告はいつもながらに順序だっていて、簡潔だった。
エリカから、ワイへ来ないかと誘われたこと。マカニを守りたいならばマカニに居るだけが全てではないという言い分。その提案に、一度は一理あると考えてしまったこと。すぐには気持ちの整理がつかなくて、ポハクのパキラの元へ寄ったこと。パキラの明快な理論。
それらを聞きながらカリンは、何故だかレンがワイへ行く前にも増して胸がざわつくのを抑えられなかった。報告しているレンは明るくすっきりとした表情をしているというのに。
「パキラに借りができたな」
ポハクもいつでもレンを受け入れるというパキラの最後の台詞に軽く苦笑しながらも、穏やかな表情で族長が言う。
「その台詞、そのままパキラ様にお伝えしたいくらいです。パキラ様はパキラ様で、族長に借りを返す暇が無いと仰っています」
「そうか。まあそういうものかも知れぬな」
さて、と族長は少し思案するように視線をシヴァの方へ向ける。
「……ひとまず様子見でしょうか」
「そうだな。エリカ殿の行動が焦り故なのか、それとも他に本心があるのか、まだ分からぬ。……カリンは、不安そうだな」
族長に隠すことができるとは思っていなかったが、話を向けられて仕方なくカリンは口を開いた。
「エリカ様の本心は分かりませんが、少なくともレンをワイへ誘うということは、私もワイへ行くということを意味しています。それをエリカ様がお分かりでないとは考えられません。でも少し前、エリカ様は私に言ったのです。解り合えないならば近づかないことだ。私は族長様の元へ居なさいと」
「そちらが本心でなかったとしたら?」
「その可能性もあるかも知れません」
「元々エリカ殿はカリンとレンが二人とも欲しかった。アグィーラからマカニへ行った身軽なカリンを先に誘ったが、どうにも腰が重い」
「……それで攻略するのが楽な僕に目をつけた? そうだとしたら何だか嫌ですね」
「いや、エリカ殿が最近になってレンの素質に気がついたのも確かなのであろう。エリカ殿らしくはないが、先ず試しに仕掛けてみた、というところであろうか」
「族長に対しての、何らかの意思表示かも知れません」
シヴァの言葉に族長は頷く。
そうだ。エリカはことあるごとに、族長に対して挑戦的な発言を繰り返していた。上皇の関心を引いて止まない族長に対して嫉妬のような感情を抱いていることは、エリカ自らカリンに告白した。しかし考えてみれば、それすら本心なのだか分からない。エリカに関しては分からないことだらけだった。
医院を他の地方へ向かって開くことも相変わらず諦めてはいないらしい。「医院」を名乗るならば最低でも十名の医師を準備せよ、というアグィーラの議会からの指示に、表向きは静かに従って準備を進めているように見える。現在四名は確保しているから、残り六名だ。時折昔の伝手を頼って、シレネがワイからアグィーラへ勧誘に来る度に、医局は僅かに波立つ。
現在の医局の待遇を不満に思っている者はシレネの他にも居るだろう。ワイの医院へ移籍することに手を挙げたい者も多いに違いない。ただ、自らが一番に手を挙げるのを厭っているだけだ。だから皆、他の者の動向に耳を澄ましているのだ。一端が崩れれば、おそらくあっという間に六名の医師が集まるだろう。ワイから新規に六名の人間を医師試験に合格させるより、余程簡単だと思われる。
医局長であるツツジは、今のところワイの動きに対して特に対策を打っているようには見えない。六名程度ならば痛くも痒くもないというところだろうか。それとも、自らの手元に置いておきたい者だけには、ひっそりと声を掛けているのかもしれない。
カリンの心の鬱屈をそのまま引き取ってしまったかのように、マカニではその夜から雨が降り始め、もう五日も降り続いている。この秋に入ってから初めての長雨だった。収穫の時期でもあり秋撒きの種もある季節だから少しの雨ならば歓迎だが、あまり長く続くことは望ましくない。レンも、思い切り弓の訓練ができない日が続いて退屈そうだった。
「僕が昔からやりたいことのひとつに、雨の日でも使える訓練場を作ること、というのがあるんだよね。勿論屋外程色々できなくていいんだけど、せめて広い屋根付きの射場と的場があって、数名が並んで弓を使えるくらいのさ」
「レンのことだから、もうレンギョウさんには相談済みなのでしょう?」
「うん。子供の頃は、レンが大人になったらな、って言われた。今は、吊り橋が落ちたり水車の更新があったりで忙しいのは解っているから、言うのを控えてる。それに、まずは場所を探して来いって言われてるんだ。確かにそうだよね。ある程度の規模が必要だから、今の村の敷地内では難しいかな。でも雨の日に使うなら村から遠いのも不便だし。……それこそ訓練場の奥を開拓するしかないかもしれないなあ」
翼の手入れをする手を止めて、レンは天井を仰いだ。
レンの頭の中は、いつでも弓のこととマカニのことで一杯だ。だからエリカに何を持ち込まれても、すぐに自分の在るべき所へ戻って来られるのだろう。やりたいことがはっきりしているから。
一方の自分は、族長の力になりたいと思いながら、結局のところどうしたいのか分からずにいる。この世界をもっと深く知りたい。そのことがきっとこの先の力になるとぼんやり考えてはいるが、確証があるわけでもなく、自分のその直感すら頼りなく感じる日も多い。そして、こうやって時折持ち込まれるエリカや上皇やその他諸々からの問題に、誰よりも翻弄されてしまうのだった。全てが、自分にとって必然のように感じてしまい、取捨選択できない。
それでもひとりで居た時よりは随分ましだ。ひとまず目の前にレンが居る。だから、きちんと生活しなければ、と思う。寝食を忘れることもないし、目の前のレンとの時間を楽しもうと考えることもできる。
「明日は晴れるといいね」
「そうだね。そろそろ本当に晴れてほしい。あ、でもシヴァさんは実は期待しているらしいよ」
「何を?」
「シヴァさんが気にしてる灰鷹に逢ったのは嵐の日なんだって。それ以来姿を見せないけれど、雨の日ならまた逢えるんじゃないかって」
「ふふ。何だかロマンティック」
「そうだね」
「ねぇ、鳥の話を聞かせて」
「鳥の話?」
「そう。沢山勉強しているのでしょう? 私も少し本を読んでみたけれど、レンの話を聞きたいの」
レンは手入れを終えた翼を身につけながら、そうだなあ、と呟く。
「それじゃあ、隼の話をしよう」
「うん」
「まず、隼は巣を造らないんだよ」
「そうなの?」
「うん。崖や高い岩場を好んで棲むんだけど、巣は造らないで直接岩の窪みなんかに卵を産むんだ」
「面白い」
「だから、卵を温めてでもいない限り住処を突き止めるのは難しい。試しに見廻りのついでに向かいの峰の岩肌を眺めながら飛んでみたりもしたんだけど、あの隼も他の隼も、何処に棲んでいるのか見つけることはできなかった。来年の春、抱卵の時期に探してみようかな」
「あの隼は、成鳥なのかしら?」
「羽根の色からするとそうなんじゃないかな。随分若いけど、幼鳥ではなさそう。隼は二年くらいで成鳥になるみたいだから、なりたてなのかもね」
「人間でいうと、私たちとあまり変わらないくらいということね」
「そうだね」
カリンが時折質問を挟みながら、レンの隼に関する話は続いた。本当によく勉強したらしく、随分と詳しかった。カリンはそれを聞きながら幸せな気分になる。降り続く雨とは裏腹に満たされた気持ちになりながら、夜は更けていった。
漸く雨が上がった日、診療所は珍しく忙しかった。
長雨が上がったからと多くの村人たちが外へ出たが、道はぬかるみ、土砂崩れもあった。
ぬかるんだ道で転倒した老人や子供、崩れた土砂をどける作業の最中に怪我をした戦士などが数名、続けて診療所を訪れたのだ。中には骨を折る重傷の者もおり、年齢が上なだけに今後も心配だった。
「おつかれさま。お茶でも淹れましょうか」
骨を折った老人を家まで送っていったカエデが戻ってきたので、カリンはそう声を掛けた。マカニでは、余程夜間も目が離せない患者でない限り入院することはない。基本的には通院、難しい者に対しては訪問診療だ。
お茶を淹れながら、ちらりとスズナのことが頭を掠める。まるでこの診療所の方が家だと言えるくらいに、此処に滞在していたスズナ。
その頃此処は、ラウレルの住居も兼ねていた。本当の父娘のようであったのかもしれない。
カリンも、未だにこの診療所に居る時にはラウレルのことを忘れた事は無い。ラウレルは医術が盛んでなかったマカニに診療所を開き、死ぬまで守り続けた。そしてカリンのことを孫娘と呼び、この場所を託してくれた。
若い頃は何度もアグィーラへ飛び、医術を学んだそうだ。その時に関わったアグィーラ人医師たちへの不満を不機嫌そうに述べる顔が思い出されて、思わずくすりと笑いが漏れる。
マカニの診療所は間違いなく良い診療所だった。アベリアのやっているポハクの診療所も良かった。
ワイは、大丈夫だろうか。
再び頭を中をワイのことが支配し始め、カリンは慌ててそれを追い出す。きっとこんな風に淹れたお茶は美味しくないに違いないと申し訳なく思いながらカエデの前にカップを差し出すと、カエデはふわりと笑って、いい香りだ、と言う。
そんな風に微笑まれると、カリンは自分が淹れたお茶が美味しくないかもしれない理由を、素直に話さずにはおられなくなるのだ。
カエデの正面に座って一緒にお茶を飲みながら話をすると、聞き終えたカエデは再び柔らかく笑った。
「大丈夫だよ、十分美味しい。勿論、お茶を淹れる時にはお茶を淹れることだけに集中した方がいいし、幸せな気持ちで淹れたお茶の方が何故か美味しくなるのも事実だ。でも少なくともカリンが、外から戻ってきた私にお茶を淹れてくれようとした時点で、その気持ちは籠っている。ありがとう」
「カエデさんが此処に居てくれるならば、この診療所はこれからもずっと良い診療所ね」
「私を医師にしてくれたのはカリンだよ」
「頑張ったのはカエデさん。私は無責任に勧めただけよ」
「それでも、きっかけをくれたのはカリンだ。それがなければ私は動けなかった」
「それなら……これからも、ずっと一緒にここを守っていきましょうね」
「勿論だ」
自分がワイに住んでいる姿など、全く想像できなかった。自分が居るべき場所はマカニだと、改めてカリンは思うのだった。
***
『翡翠色の昼下がり篇1』へ
『翡翠色の昼下がり篇4』へ
